劇カフェ「石澤秀二氏に聞く演劇人生70年」
——1950年代の演(新)劇界はどんな状況でしたか
当時の演劇界は、公職追放から完全復帰直前の岸田國士提唱の「文学立体化運動」の母胎となった「雲の会」が1950年8月に発会式を挙行したことが大きな話題でした。これは千田是也ほかの演劇関係者(久保栄・三好十郎らは不参加)はもとより、小説家・詩人・文芸評論家・音楽家・美術家・映画監督ら幅広い芸術家の参加を求め、発会当初は63名の会員でした。事業は白水社から51年5月創刊の雑誌『演劇』が刊行され、51年7月から河出書房から『演劇講座』が出版されたことです。この雲の会運営には岸田門下の福田恆存氏が積極的に参加していました。「文学立体化運動」とは総合芸術である演劇の特性を活かした各芸術ジャンルの連携・総合化を図った、いわば演劇の門戸開放だと思います。ですから劇作活動を詩人・小説家にも広く呼びかけたのだと思います。福田氏はその後、63年設立の現代演劇協会と付属劇団雲の産みの親になりますね。
雲の会編集の『演劇』は執筆者も多彩で豪華でした。東宝の椎野さん編集と思います。しかし経済的に赤字が膨らみ、発行元の白水社が手を引き、廃刊となりました。
そこで赤字を出さない、戦前の『劇作』のような手堅く渋い演劇雑誌を出そうと菅原卓・内村直也・小山祐士・田中千禾夫ら旧『劇作』同人を主体に久板栄二郎・飯沢匡と戦後の若手劇作家、三島由紀夫・木下順二・矢代静一も編集委員に加え、田中千禾夫を編集長とし、白水社は経済責任を負わない演劇雑誌『新劇』が企画され、1954年4月号が創刊号となりました。
——新雑誌『新劇』で田中千禾夫編集長の編集助手をなさったわけですね
はい。でも助手になるための話し合いや白水社との契約もなく、自然のなりゆきでした。で私の初仕事は「矢代静一君を推す」と題された岸田國士の原稿を、文学座稽古場隣の「森屋旅館」に滞在中の岸田さんから戴くことでした。旅館の居室で背筋を伸ばして端座する私にとり最初にして最後の和服姿の岸田さんが忘れられません。初対面なので口数も少なく、威厳がありましたね。
——岸田國士さんは文学座で『どん底』演出中に倒れました
小山内薫さん演出の『夜の宿』とは対照的に「明るいどん底」が謳い文句で、文学座としても初めての『どん底』ですね。岸田さんは屋外場面の舞台装置にも明るい空を覗かせた、文字通りの「明るいどん底」を目指して演出中でした。その岸田さんが3月4日、舞台稽古中に倒れた知らせを受け、白水社から一橋講堂に駆けつけると、既に救急車で運ばれた後でした。装置の飾られた舞台や客席に人影はなく、そんな中、薄暗い廊下を稽古中のサーチン姿のままの芥川比呂志さんが、声を掛けるのもはばかられる程の虚ろな眼差しで行ったり来たり歩き回る姿が異様で印象深く脳裏に刻まれています。翌3月5日早朝に岸田さんは亡くなられ、『どん底』初日の5日夜の客席中央には、ライトに照らし出された岸田さんの遺影が飾られ、舞台を見守っていらっしゃいました。
——雑誌『新劇』について
『新劇』創刊号には、岸田さんから戴いた遺稿のほか、矢代さんの『城館(しろ)』、前年の53年12月22日に書斎で縊死を遂げた加藤道夫さんの『遺稿』と千禾夫先生の『死に水を下から取った話』の一幕物三作が掲載され、ほかに座談会「戦後の新劇の反省と当面の問題」が、 飯沢匡・木下順二・菅原卓・田中千禾夫・久板栄二郎の5氏で語られました。当然編集委員5氏の発言は雑誌『新劇』の方向性を示すものです。次号は勿論、急遽編集された岸田國士追悼号で、次の6月号にも岸田國士特集が組まれました。
編集実務は私と白水社の永野保方さんの二人で、編集長は田中千禾夫です。白水社と私との関係は当時、無給嘱託ということで、私の交通費・編集関係費は殆ど自弁。千禾夫先生は経済にうとく、時々思いだしたようにお金を、恐らくポケットマネーを下さる程度でした。当時は今と違って、活字を拾う活版印刷で、朱だらけの校正のため毎日夜遅くまで仕事を自宅に持ち帰る日々が続き、私の青春は『新劇』に捧げられたと言っても過言ではありません。永野さんが退職して、私独りが実務に当たり、編集兼発行人になると不安になりました。病気になったら雑誌休刊になる恐怖にとらわれ、また結婚を考えるようになると、どうしても白水社に編集担当者を置く必要を痛感し、上智大学から社会新報に就職した、今は亡き畠山繁君の引っこ抜きに成功して『新劇』は名実共に白水社の雑誌となったのです。畠山君は上智大の演劇部にいて、中世宗教劇を一緒に作った仲間です。因みに田中夫妻を仲人として下山富子との結婚は60年安保の春、イグナチオ教会です。
『新劇』編集当時を思うと、京大学生時代の山崎正和君に無給の『新劇』関西駐在員になって戴きました。当時の関西には森本薫の先生で、関西演劇界の指導的立場におられた山本修二先生もご健在で、毛利菊枝さんのくるみ座も、大阪朝日の北岸さんもご活躍中で、関西演劇界の動向も無視できませんでした。それに千禾夫先生ご夫妻も上京前は京都時代を過ごしていましたしね。
——若き山崎正和さんの印象は
学生時代の山崎君は上京のさいに、保谷時代の私の家に泊まったりもしました。余談ですが、彼の出世作『世阿弥』生原稿の最初の読者は私で、『新劇』発表の予定でした。が、河出書房の『文芸』編集長から是非、掲載を譲ってほしいとの強い要請があり、彼の将来を考えると白水社より河出書房との関係強化の方が良いと思って河出に掲載を譲ったのです。彼の原稿は一マス毎に一字一字、楷書で丁寧に書かれていました。他には真船豊さんや三島由紀夫さんの原稿も端正な楷書です。千田さんもそうでした。千田さんといえば『世阿弥』のタイツ姿の舞台も強烈に覚えています。また余談ですが、山崎君の『世阿弥』が『新劇』岸田戯曲賞を受賞した時、受賞式は俳優座劇場のマチネー終演後の舞台で行われ、その後、山崎夫妻と私夫妻で能楽評論家の増田正造さん宅にお邪魔して内祝いの飲み会をやったことも覚えています。当時の増田宅は観世寿夫・榮夫・静夫三兄弟や野村万之丞・万作兄弟もよく出入りしたお宅なのです。