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石澤秀二(左)、山本健一(右)
撮影=小沢俊夫

劇カフェ
「石澤秀二氏に聞く演劇人生70年」

【日時】2021年12月12日(日)
【会場】座・高円寺 けいこ場2(地下3階)

トーク:石澤秀二(演出家・演劇評論家、元AICT会長)
聞き手:山本健一(演劇評論家、前AICT会長)


 国際演劇評論家協会(AICT)日本センターが主催する「劇カフェ」は、AICT会員を招き、専門的かつ分かりやすいトーク&レクチャーを繰り広げる親睦と演劇知の交流会。
 今回は演出家・演劇評論家で、元AICT会長の名誉会員・石澤秀二氏をお招きして開かれました。演劇評論家で前AICT会長の山本健一を聞き手に、戦後現代劇の動向をめぐる内幕のエピソードをまじえたトークです。その抄録を掲載します。なお、当日の模様の一部を撮影した映像は、YouTubeでもご覧いただけます。
「石澤秀二氏に聞く演劇人生70年」(2021年12月12日)前半(撮影=小沢俊夫)

——石澤秀二さんは早稲田大学大学院修士課程を修了後、演劇雑誌『新劇』の編集部員からスタートして、現在までおよそ70年間、演出・演劇評論家として演劇の現場で活躍する最長老の方です。私は新聞記者として演劇の報道・評論に携わって44年。知らないことも多く、今日は石澤さんが演劇界の内側から眺めた秘話も含めてお話を伺いたいと思います。まず演劇とはどのような出会いでしたか

石澤秀二
撮影=小沢俊夫

 小さい時から母に連れられて歌舞伎をよく観ました。劇場で迷子になった記憶もあります。芝居を意識的に観始めたのは暁星中学三年の敗戦後からです。戦時中は勿論軍国少年で、敗戦による価値観の転倒には苦しみました。当時は食糧難で、飢えを凌ぐために雑草まで食べました。同時に精神的にも非常に飢えていて、心の糧に友達と良く芝居に通いました。帝劇で観た前進座のフランスレジスタンス劇『ツーロン港』と歌舞伎の『鳴神』に強烈な印象を受けました。数学の河井坊茶先生に勧められて有楽座で山本安英さんが乳母役の『人形の家』やピカデリー実験劇場の千田是也さんと田村秋子さん共演の『ヘッダ・ガブラー』も観ました。当時の歌舞伎座は焼けたままで、歌舞伎は東劇で観ました。『直侍』を三階席から弁当代わりの炒り大豆をボリボリ食べながら観ていると、入谷の畦道でそばを食べる有名なシーンがあるじゃないですか、で直侍が口でハシを割って夜鳴き蕎麦をすするシーンで客席が一瞬凍り付いたように静まり返って、その後、ゴクリと生唾を呑み飲み込むような感じでジワーと客席がどよめきで包み込まれた様子を三階席から感じたことを今でもはっきり覚えています。皆さん、役者と一緒にそばを味わったのでしょうね。
 観るだけでなく芝居もやりました。フランス語の先生が梅原龍三郎さんのご長男の梅原成四先生で、先生の翻訳演出でモリエールの『スカパンの悪巧み』で娘役をやりました。当時は細かったんです。それより忘れられないのは若和田孝之先輩、後の東千代之さんが音大邦楽科卒業制作の作・演出作品で本格的な歌舞伎『猿蟹合戦』を暁星の講堂で演じたことです。下座音楽は邦楽科生のナマ演奏で、僕は主役の猿です。下級生の観世静夫君が網笠を被った落し差しの浪人姿の栗役で、忍び三重の三味線にのって登場するシーンの格好良さを覚えています。観世君と同級で仲良しのキンボウ、中村錦之助君も出演する筈でしたが仕事で駄目でした。キンちゃんの兄の中村梅枝さんが顔を造って下さった。今の獅童君の親父で役者を辞めた小川三喜雄君も田中傳左衛門の息子の奥瀬君も僕の同級生でした。暁星は能・歌舞伎など伝統芸能の関係者が多く、演劇的環境には恵まれていました。
 暁星には旧制中学の五年を終えて新制高校の三年に転入して、6年間通いました。で大学受験シーズンを迎えるわけですが、僕は働く積もりだった。しかしアンチ東大の新制東京都立大学が開校するというので、ダメ元で受験したところ補欠で入学。で都立大人文学部仏文科一期生として1949年に入学したわけですが、その年の7月には京橋にある暁星の先輩が社長の貿易会社・旭興社に就職して最初の2年間は学費と生活費を稼ぎました。そして大学3~4年で仏文科卒業の必要単位を取りました。もちろん都立大に演劇部をつくり、一番の思い出はフランスレジスタンス小説の名作、ヴェルコールの『海の沈黙』の劇化・演出・主演をしたことです。
 卒業論文は「日本におけるフランス戯曲の翻訳と上演」でした。この課題はたまたま早稲田大学の独文の杉野先生と親しくなり、加藤衛さんという方、後で知る横浜演劇研究所所長で加藤直さんの父上ですね、その加藤先生が「日本に於けるドイツ演劇の翻訳と上演史」を手がけているから、君はフランス演劇をやるといいと言われて学士論文の課題にしました。けれど、主任教授の小場瀬卓造先生から不充分と、コテンパンにお叱りを受け、悔しくなって、ならば演劇博物館のある早稲田の大学院文学研究科演劇専攻修士課程受験を決め、河竹繁俊先生の面接を受け、入学しました。23歳です。

——河竹繁俊さんはどんなお人柄でしたか。学生時代は何を勉強したのですか

 繁俊先生は優しい温和な先生という印象が強く、巧みな話術で熱心な講義が印象的でしたが、僕はもっぱら演博図書館に入り浸って明治・大正期の資料を漁りました。修士論文は当時、手書きで正副二通を提出する必要があり、締め切りに間に合わず、半分だけ提出しました。すると繁俊先生から後にお話しする田中千禾夫・澄江家に電話がかかり、千禾夫先生から「石澤君、河竹さんから電話だよ」と告げられてビックリした経験があります。要は、早く完成論文を出すように、それまで待っているとの嬉しい電話でした。
 修士論文は同じく「日本におけるフランス戯曲の翻訳と上演について」です。これは後に『新劇』に要旨を連載・発表しました。鈴木力衛先生から若い君が書いたのかと褒められました。当時は文学座のフランス演劇研究会や後のアトリエの会の会員にも、また俳優座の戯曲研究会の会員にもなり、加藤道夫さんが俳優座での『襤褸と宝石』上演後にした講義も聞きました。『襤褸と宝石』は関弘子と高橋昌也の若手が主役でしたけど、評判は良くなかったですね。
 それはさておき、僕の大学院生時代は丁度、河竹登志夫さんが演博の助手の頃で、兄貴分として仲良くさせて戴きました。後に明治演劇史の大家で永井荷風研究家でもある日大図書館長の秋庭太郎先生とも親しくなり、秋庭先生と登志夫さんと3人一緒で良く遊びました。

——大学院入学後に田中千禾夫・澄江夫妻との最初の出会いがあるわけですね。

 はい、そうです。当時は兄の家に居候をしていましたが、思い切って早稲田に近い牛込に下宿しました。更に都立大のカトリック研仲間の女友達から住み込み家庭教師の口があるわよと教えられ、向かった先が野方の邸宅の応接間でした。思えば田中澄江先生から面接を受けてOKとなり、千禾夫先生の仕事部屋でもあった玄関脇の和室を与えられました。丁度田中千禾夫先生の自伝によれば「都上がり」を決意して「澄江の尽力で」購入したお宅に移住したのが1953年4月でしたから、私の早大大学院入学と同時期です。千禾夫先生の「都上がり」という表現は東京在住の文学座時代にご両親のいる長崎に行くとき文学座の人の見送りが殆どなく「都落ち」の悲哀を味わったことの反語でしょうね。
 田中家の経済の担い手は奥様でした。千禾夫先生は劇作一筋に専念し、上演料は30万欲しいと呟いていました。澄江先生ももちろん劇作家ですよね。そして劇作よりも、映画の脚本家として男社会の映画界に敢然と飛び込んでお金を稼ぎ、一家の経済を支えたわけです。ですから澄江先生には夫千禾夫に対する愛憎こもごもの私戯曲と「夫の始末」など数多くのエッセイがあり、自我意識の強い男女二人のぶつかり合いは壮絶だったと思いますよ。千禾夫先生にも『修羅』という、童貞・処女のまま新婚生活一月を過ぎた夫婦の会話劇がありますね。いわゆる「女性憎悪劇」の始まりです。
 付記すれば私の後の住み込み家庭教師の2代目は早稲田の学生で卒業後、澄江先生の紹介でTBSに入社し、渡辺美佐子さんを射止めた大山勝美さんでした。3代目は朝日新聞社のパリ支局長を務めた仏文関係の方です。私の演劇人生はこの偶然な田中家の書生から出発したと言っても過言ではありません。

——石澤さんはクリスチャンですか

 はい。でも敬虔な信者ではないので「カストリック」と自称していました。母方は伊達藩のカトリックの名家です。その母が3月大空襲の後に自宅で亡くなりました。家が焼ける前に亡くなったことは不幸中の幸いで、母の死に顔ほど、美しい女性の顔を知りません。で敗戦翌年のクリスマスに暁星のチャペルで洗礼を受けたのです。暁星卒業後は四谷のイグナチオ教会に籍を置き、主任司祭のホイヴェルス神父が指導司祭で、神父様の書かれた宗教劇『マグダラのマリア』ほかを演出しました。一番の思い出は教会前の野外で神父様脚色の聖楽劇『受難』を1955年10月に演出したことです。音楽は山本直忠さん、後に青年座で演出した『三文オペラ』の音楽担当をして戴いた山本直純さんの父上です。恐らく受難劇の教会前の野外上演は日本では最初だったと思います。雨天の際はイグナチオ教会の内陣で上演しました。教会の壁にある十字架の道行きが効果的でした。キリスト役は音大卒の声楽家の方でした。
 更に当時は各大学のカトリック信者を組織したカトリック学生連盟が創設され、委員長は学習院大の武者小路公秀君で、後の国連大学の副学長ですね。彼も芝居好きで『マグダラのマリア』に出演しました。カトリック学連の本部は信濃町駅隣の真生会館で水谷九郎神父が指導司祭で、会合では東京女子大の有吉佐和子君や聖心女子大の曾野綾子さんとも知り合いました。特に有吉君とは足繁く交流しました。彼女も芝居好きでしたから。