『パンドラの鐘』東京芸術劇場主催公演 作=野田秀樹 演出=熊林弘高 第8回座談会演劇時評2(2021年3・4月上演分)
■「ありえたかもしれない歴史」の物語
小田:お二人のお話を聞いていて、初演との違いなど、様々なことがわかってきました。また、今回の「鐘」を鳴らさない演出そのものにも、ねらいがあったことがわかりました。鐘の音は強烈なので、舞台をさらってしまう恐れもあります。とはいえ、やはりもっと鐘の音を聴きたかったというのが、正直な感想ですね。
嶋田さんが指摘していた戯曲としての強さは私にも伝わってきました。初演時の台本が改訂されて、作品の構造がわかりやすくなったというのは、その通りだと思います。野田秀樹の作品は、舞台上の進行があまりにも速く、いろいろなものが一気に過ぎ去ってしまい、物語構造も錯綜しているので、訳が分からないうちに終わってしまう印象があります。視覚的・聴覚的に情報量が多い舞台を咀嚼するのが苦手な私は、実は野田作品のあまりよい観客ではありません。しかし、今回の公演は、個性的な俳優がビシッとそろって怪演を繰り広げ、ものすごいスピードで疾走するという、いわゆる野田的な舞台ではなかったので、かえって物語構造がよく見えてきました。
既に多くの人が指摘しているのでしょうが、一番強く感じたのは物語の構造が歌舞伎に良く似ているということです。結局、原爆は長崎に投下されてしまったわけですが、もしかしたら投下されないで済んだのかもしれない、投下されない可能性があったかもしれない、そのような歴史の謎が1本のくぎを発見したことによって、だんだん解き明かされていくという、非常にスリリングな構造が歌舞伎に似ていると思いました。
例えば『義経千本桜―渡海屋・大物浦』で、平知盛が実は生きていて安徳天皇をかくまっていたり、『一谷嫩軍記―熊谷陣屋』で熊谷次郎直実が殺害した平敦盛は、実は自分の息子小次郎だったなどという、ありえたかもしれない歴史を描きながら、結局物語の結末は史実通りに落ち着きます。このような、「ありえたかもしれない歴史」をドラマとして描く視点において、『パンドラの鐘』は、現代の歌舞伎とも言えるのではないでしょうか。亡くなった十八代目中村勘三郎と、野田秀樹がタッグを組んだ理由の一つには、ほかにも野田の戯曲が歌舞伎になじみ深い物語構造を持っていることと大いに関係ある気がします。
嶋田:「ありえたかもしれない歴史」という世界観、歌舞伎に似ている時間構造など、今回の熊林演出では特に強調されていた印象があります。
物語の時間構造について注目すると、初演と今回の演出の違いがよくわかると思います。初演の場合、太平洋戦争前後の現代の時制と、古代王国の神話世界の時制がある意味、対立的な構造で語られていきます。この二つの時制がぶつかり合うことで、物語は終盤に「古代の未来」という三つ目の時制が登場します。これは神話世界の時制における古代王国の敵国であると同時に、現代の時制における日本の敵国アメリカです。この二つの時制からは、原爆を投下する敵国という同一の存在として想定されている点がポイントです。初演時にはここが真っ赤なイメージで可視化されていました。それに対し、今回の熊林演出では、今井さんが指摘してくれたように、同一の俳優が二つの役を兼ねているので、時間構造が二重化されていきます。野田演出が対立として扱った時間構造を、熊林演出は二重化していくんですね。このように、役と物語と時制を重ね合わせることによって、舞台の上で、ドラマが一気に重層化していく。この様子を目の当たりにするから、戯曲が目に見える形で、ダイナミックに立ち上がっていくんですね。
また、今回の熊林演出は、キャスティングが非常によかったと思います。最初にこのキャスティングを知ったときに、緒川たまきがヒメ女をやると予想していましたが、見事にいい意味で裏切られました。意表を突く二役で兼ねて、重層化していくという発想が、非常に効果的でした。
小田:私は今回の公演で、特に感動したシーンがあります。ミズヲがなぜ自分が「ミズヲ」という名前なのかを語り出す場面ですが、自分が死体を埋める葬式屋であることの意味、さらには原爆によって被爆した時の記憶が語られていきます。この場面を見て、私は三島由紀夫『近代能楽集』の「弱法師」をとっさに思い浮かべました。三島の作品では、俊徳は空襲の火の粉によって目が見えなくなった。夕焼けの中で、その思い出が蘇るところが、「弱法師」のクライマックスです。野田が実際に三島由紀夫を参考にしたのかどうかはわかりませんが、最初に言った「鐘」のイメージや歌舞伎の物語構造をはじめとして、野田がさまざまな日本の文学、戯曲などの遺産を踏まえている点が実によくみえてくるんですね。ピンカートン夫人やタマキの名前はオペラ『蝶々夫人』を連想させますが、それによってアメリカの軍人が長崎の日本女性を現地妻にして捨てる物語を呼び込む。また、狂王が紙を筒にして、遠眼鏡を覗く場面などは、明らかに大正天皇のイメージが引用されています。集積された歴史や文学の断片を幾つも取り込んで戯曲が作られていることに今更ながら感心しました。
今井:嶋田さんが指摘した、戯曲そのものが立ち上がってくる、という点は私も同意します。しかし、私が最も強く感じたのは、結局この作品は昭和天皇の戦争責任批判、まさにそれなのだ、ということです。
大正天皇を追いやって即位した昭和天皇。それをこの作品に重ねると、古代王国においては、狂王を追いやって登場したヒメ女になります。ヒメ女は国を救うために、最後は鐘に入って一命をささげるわけです。昭和天皇がやらなかったことをヒメ女はやってしまう。ミズヲがその傍らで、古代の心が未来に「届くに賭けますよ」と言っているのですが、実際に届くことはなかったわけです。これは痛烈な昭和天皇批判です。このメッセージが最も強烈だったと思います。
嶋田:野田秀樹『パンドラの鐘』をめぐる様々な問題が、今回の熊林弘高の演出から見えてきました。名作はやはり、名作ですね。汲めども尽きぬ思いがします。本年(2021年)8月には、昨年(2020年)コロナで延期となった野上絹代演出『カノン』の上演が予定されています(東京芸術劇場主催公演、東京芸術劇場シアターイースト)。野田秀樹の作品を、全く違う世代が演出するこの企画は大変興味深いですね。今後も大いに期待したいと思います。
※敬称略
2021年5月9日@Zoomにて収録