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左から 門脇麦、金子大地 / 撮影:引地信彦

■戯曲そのものの強靱さ

嶋田:今、話題になった舞台美術は杉浦充によるものです。非常に抽象度の高い美術なので、長崎の原爆の瓦礫、廃虚、また古代王国の遺跡、などなどいかようにも理解できてしまいますね。問題はこのような抽象度の高い舞台美術が、野田秀樹作品とどこまでマッチするのか、という点だと思います。
 実は私も今回の『パンドラの鐘』を見たときに、今井さんが指摘したギャグの要素が排除されていて、初演時のテイストと異なっていたので、戸惑ってしまいました。この戸惑いは、自分なりに分析すると、スピード感の問題だと思い至りました。初演時は、台詞にしても、役者の動きにしても、ものすごいスピード感で演じられていて、その速度に乗せられて、矢継ぎ早にギャグも展開していったと思います。堤真一(ミズヲ役)、天海祐希(ヒメジョ役)、富田靖子(タマキ役)、古田新太(カナクギ教授/狂王役)、松尾スズキ(ハンニバル役)、銀粉蝶(ピンカートン未亡人役)、入江雅人(オズ役)、野田秀樹(ヒイバア役)といったキャストの違いももちろんあります。ただそれ以前に、スピードが感じられず、何より幕開きからもたついている感じがしたんですね。
 それが、見ていくうちに、次第に会話劇として、この作品が成立していくことがわかってきたんです。先ほど小田さんが指摘した「鐘」の音を野田秀樹のナレーションで処理するのも、最初は抵抗感があったのですが、それもセリフの一つとして認識するように作品の見方を変えたとき、野田戯曲がそのまま立っていくような印象を受けました。『パンドラの鐘』の強靱さといった、戯曲としての新たな側面を感じました。この点は今回の熊林演出の大きな成果ですね。
 また、今回の演出では、実際に台本も改訂されています。特に最後の場面が印象的です。初演ですと、ミズヲがヒメ女を鐘の中に閉じ込めてしまい、幕切れを迎えます。今回はそのあとに、タマキとオズの2人が登場して、オズが釘を1本差し出すところで終わっています。このあたりも、作品のテイストがかなり違ってくると感じました。

今井:特に、最後の場面は、初演と順序が逆になっていますね。今回の演出では、太平洋戦争開始直前、恋人であるオズを長崎に置いて、タマキは母親であるピンカートン未亡人とともに、アメリカに帰って行く場面が最後に配されていました。タマキは既に、アメリカがやがて長崎に原爆を投下することを知っている感じです。
 初演は、この二人の別れが、最終場面の直前にありました。そして、最後の場面は現実なのかファンタジーなのか判然としない、古代王国のミズヲとヒメ女が交わす会話です。ヒメ女は、「もうひとつの太陽を爆発させる術も息たえる」ために、鐘の中に入ります。そして、ミズヲは未来を空想しながら、古代の心が未来へ届くのかどうか――「古代の心は、どちらに賭けます? 俺は届くに賭けますよ。」という台詞を言います。この言葉が初演の幕切れでした。
 だから初演は、ファンタジーの世界の中で、〈希望〉を語って終わります。この鐘がまさに「パンドラの鐘」である理由はここにあります。「パンドラの箱」というのは開けてしまうと、中からさまざまな災厄が飛び出してくる。しかし、最後に〈希望〉が残されました。それと同じで「パンドラの鐘」の中にも、最後に〈希望〉が残されました。まさに最後は、「パンドラの箱」ならぬ「パンドラの鐘」、ということで終わりました。この終わり方にこそ、初演のインパクトはあったように思います。
 つまりファンタジーである古代の世界では、〈希望〉が語られたけれども、それに対して順序を入れ替えて上演することで、長崎への原爆投下をリアルに想定することができてしまい、〈希望〉そのものを、非常に感じにくくなってしまった。さらに、タマキは恋人であるオズを裏切って、母親であるピンカートン未亡人とともにアメリカへ帰っていく場面を最後に持ってくることで、作品から発信するメッセージ自体が、根本的に変化しています。
 また、初演との比較で、俳優に注目してみたいと思います。今回の演出では、多くの俳優が二役兼ねている点が非常にユニークでした。確か初演でも、古田新太は、古代の時代ではヒメ女の兄の狂王と、現在時にあたる太平洋戦争開戦前夜ではカナクギ教授を兼ねていました。しかし、今回は出演する役者全員が、二役をはじめとして、何らかの形で役を兼ねている。例えば、門脇麦は、ヒメ女とタマキといった、性格的にも対照的なタイプの女性を兼ねています。この演出は注目に値すると思います。