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スペイン国立ダンスカンパニー オハッド・ナハリン振付『マイナス16』 photo:Arnold Groeschel
スペイン国立ダンスカンパニー オハッド・ナハリン振付『マイナス16』 photo:Arnold Groeschel

 舞台からダンサーが降りてきて観客に話しかけたり、観客を舞台に呼び寄せたりすることがある。実はちょっと苦手である。気ままな夢想を中断させられて現実に引き戻されるということもあるし、自分が出て行って何か失敗したら困るな、という心配もある。またそういうシーンがくると、緊迫感がほどけて、気が抜けるということもある。その場で突然招かれて観客が参加することもあれば、あらかじめ観客が参加することを知っていてあえて前の席に座ったりする観客もいる。また作品そのものが、募集した素人だけで作られることもある。プロだけでは何か足りないものがあるのだろうか? 振付家は何を見せたくてそのようなシーンを作るのだろうか? 素人のどこに魅力を感じているのか、最近の舞台を中心にいくつかの作品を振り返って、その理由を考えてみたい。

 きっかけは、スペイン国立ダンスカンパニーの来日公演だった(ジョゼ・マルティネズ芸術監督、KAAT神奈川芸術劇場、12月6日)。ウィリアム・フォーサイスも含む5人の先鋭的な振付家の作品が踊られた最後に、オハッド・ナハリンの『マイナス16』があった。これはナハリンのエッセンスを凝縮したような人気のある作品で、様々なカンパニーで踊られている。イリ・キリアンのネザーランド・ダンス・シアターや、レ・グラン・バレエ・カナディアンなどが踊るのを見たことがあるが、近年ではアルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターも踊っている。シンプルだがかっちりと振付けられた動きの連鎖の面白さが印象的な前半のシーンと、舞台に招き入れられた観客と一緒に踊る賑やかく楽しい後半のシーンがくっきりと分かれた構成になっている。これまでは、躍動感がある前半の振付の面白さを、観客を引き込む後半の演出で引き立てているように思っていたが、久しぶりにこの作品を見て、観客が登場する後半のパートの意味や魅力を再発見する思いがしたのだ。
 前半は、バッドシェバ舞踊団のレパートリーからいくつかの見所をつなげて見せる。長編『アナフェイズ』からとられた名高いシーンもある。それは、半円状に並べられたイスに座ったダンサー達が、民族色の濃い歌に合わせてイスの上で踊るもので、並べられたイスの端から波のように動きが伝わり、最後の一人だけが銃で撃たれたかのように前のめりに倒れる。それが何度も繰り返される、力強くも恐ろしいダンスだ。黒い帽子に黒いスーツのダンサーたちが客席に下りて来て、それぞれが観客を選んで連れていくところから後半が始まる。舞台に導かれた観客は、ダンサーと2人1組で踊る。難しいテクニックは必要なく、明るい音楽も加勢して大いに盛り上がり、ダンサーに導かれて一緒に踊るのを誰もが楽しんでいるのが伝わってくる。招かれた観客の中にはたまたまプロのダンサーも混ざっていて、パートナー役をやすやすと踊ってしまうのだが、素人がぎこちなく、ときどき間違ってぶつかったりしながら、一生懸命踊っている方がリアルな存在感があるようで、面白く見えた。
 ひとしきりそれぞれのペアが社交ダンス風にゆったりと踊ると、ひとりずつ観客が客席に戻っていく。でも、ただ1組だけは、しっかり抱き合ったまましっぽりと踊り続けている。ダンサーが全員ぐるぐるそのペアを取り囲んで踊り出すと、その観客は生贄のようにも見える。突然、ダンサー全員がバタリと床に倒れてしまう。するとさっきまでダンサーに抱かれて踊っていた観客は、ひとりぽつんと舞台の中央に取り残されてしまう。あっけにとられている彼女一人にスポットが当たって終わる、という仕掛けである。
 舞台の真中で驚いて固まってる姿には、いたずらにひっかかった人をくすっと笑ってしまうようなところもある。ハッとしたり、びっくりしたりする生の瞬間が新鮮だ。頼んで出せるものではない。ダンサーのプロフェッショナルで激しく大きな動きに取り巻かれたあとに、素人のふいっと生まれたばかりの小さな動きが目に飛び込んでくる。舞台に上げる客を選ぶ基準は特になさそうに見えるが、最後に取り残される観客だけはある程度の基準があるように見える。ダンスの経験がなさそうな、いかにも素人の人である。素人だからこそ出せる味わいが素敵に見えるように演出されているのだ。
 今まで目にもとめなかった動きのユニークさの発見は、コンテンポラリー・ダンスの真髄に通じるものでもある。こうした小さな瞬間に目をとめ、誰もが注目するような位置にもってくる手腕に、オハッド・ナハリンが世界のコンテンポラリーダンス界をリードしてきた人の一人であったことを納得させられた。

 もちろん、素人がいればいいというのではなく、プロの演出家やダンサーの周到に練られた仕掛けがあってはじめて素人の面白さが引き出されるのだ。そのことを考えさせられたもうひとつの最近の公演は、イタリア文化会館で行われたヴォルジリオ・シエニ・カンパニーの公演『ソロ ゴールドベルク インプロヴィゼーション』(12月5日)だった。
 この公演はカンパニーの主宰者シエニのソロパフォーマンスなのだが、1部のソロのあと、2部では観客に協力を願い出て、舞台に3人招き入れられる。それぞれに異なる指示をして、ひとりひとりと組んで3つのバリエーションのダンスを見せた。どんな指示をしたのか観客にはわからないが、たとえばひとりには触れたら脱力するようにと言ったのかもしれない。彼が手や脚の関節に触ると脱力していき、それが連続してダンスになっていった。別の人とは、彼が手を触れたり引いたりしながら生まれる動きを見せていった。実は招き入れられた観客はプロのダンサーだったようで、シエニに導かれる感覚を頼りに動きを出していく様は、あたかも彼の意図を前から知っていたかのように自然だった。
 公演後にシエニに聞いたところ、パリではプロのダンサーだったが、ロシアでは素人が登場したという。プロが上手に踊るのはそれはそれでOKだが、彼もまた素人の動きの方を面白がっていた。素人が彼に導かれて動きを発見し、自分がいつのまにかダンスをしていることに驚かされるのを楽しんでいるようだった。ナハリンの作品でもそうだが、素人がぎこちなく始めての体験を味わっているのは、見ている方にも伝わってくる。手品師が観客を招き入れるように、仕掛けにはめられることを知っていて楽しむということもあれば、わからずに仕掛けにはまっていく人を見て楽しむということもある。

 瀬山亜津咲とさいたまゴールド・シアターの『KOMA’』は、 高齢の素人の人たちだけを集めて舞台に乗せた作品だ(彩の国さいたま芸術劇場、8月30日)。演出・振付の瀬山亜津咲はピナ・バウシュのカンパニーのダンサーで、出演は平均年齢が75歳以上のさいたまゴールド・シアターの綿々だった。既に数々の演劇作品に出演しているプロの役者だが、ダンスでは素人だ。瀬山は、何十年もかけて作られてきたその人の歴史や個性が見えるような、シンプルな振付を行う。右肩だけちょっと高く上がっていたり、太っていたり痩せていたりして、手をぐるぐる回すだけでも、また歩いているだけでも色々なものが見えてくる。シンプルな振付を淡々と行うほど多様さが見えてくるのだ。訓練されたプロのダンサーの場合は、踊るのに効率のよい身体になっていて、動くことに敏感な感性が養われている。でも、素人の非効率な動きや、全身に神経が行き届かないことには、それぞれの人なりの理由がある。そのばらつき感とはみ出てくる生活感に魅力がある。おそらくそれは、ピナ・バウシュも注目していたのだろうが、彼女はそのばらつき感をプロのダンサーで実現しようとしていたように思う。

 数年前に、F/T11で上演されたジェローム・ベルの『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』(彩の国さいたま芸術劇場、2011年11月)は、すでに世界中で100回以上上演されている作品で、毎回出演者は現地調達、公募で集められた素人集団だ。ダンス経験を問わないため、様々な職業や年齢の人たちが集まってくる。各々がヘッドフォンで聞く音楽に合わせて自由に体を揺らしたり、サビを歌ったり、誰でもできそうな、ちょっとした動きの振付だけなので、素人集団でかまわないわけだが、中にはプロのダンサーも混ざっていた。とりわけ印象的だったのは、ライオネル・リッチーの『バレリーナ・ガール』に合わせて女性たちだけが踊るシーンだ。中央の目立つところで踊らされていたのが、一番ダンス経験のなさそうな人だった。ジェローム・ベルはあえて彼女を選んだのだろう。素人の中でも、とりわけダンス経験のない人は、できる限りの最大の集中力を払って、慣れないバレエのポーズを小刻みに揺れつつ必死に行っている。プロがプロであることをみせつけるような最高に良いポジションで、素人が素人らしさを最大限発揮してみせる演出になっていた。素人が一生懸命プロのようにやろうとしてしまうことがある。だがジェローム・ベルは逆に、素人がプロのようにならないように注意深く演出しており、それで作品が可能であることを見せて、観客を驚かせた。

 ネット空間は素人の天国だ。素人がYouTubeなどで手軽にパフォーマンスを披露することがポピュラーになってきている。ダンスも同様で、「踊ってみた」のように、ダンスを自撮りし、ウェブ上で公開・披露するというのは珍しくなくなった。その昨今の潮流をさらに推し進めるかのような、ユニークなビデオダンスプロジェクトを、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのローザスが行っている(2013年から)。ローザスのウェブサイトのRe:Rosas!というページで、代表作の『ローザス・ダンス・ローザス』から選ばれた数分のシークエンスの振付を学び、自分で撮影したダンスを投稿できる仕組みができている(www.rosasdanstrosas.be)。世界中からの投稿が既に300ほどアップされていて、今でも増え続けている。ダンス部の学生がキャンパスでまじめに取り組んでいるようなビデオもあれば、幼稚園児が園庭で行っているようなもの、食事時の老夫婦の二人バージョンなどもある。ローザスの緻密な振付を分解して、誰でもわかるように解説もされており、それを習得すれば自由に組み合わせたりアレンジもできる。コンテンポラリー・ダンスを先導していたローザスが、素人参加のインタラクティブな新しいダンス空間を作り出している。 
 ローザスのメンバーだった池田扶美代さんの話によると、もともとはビヨンセの『カウントダウン』のミュージックビデオにローザスの振付が盗作されたことが発端だという。訴訟をするかどうかという問題にまで発展したそうなのだが、発想を逆転して、振付を教えてみんなに踊ってもらおうと思いついたアイデアらしい(ちょうどビヨンセが使った部分を習得できる)。このプロジェクトで集められたビデオをインスタレーションとして公演も行われた。
 投稿ビデオをいくつか見て気づかされるのは、やはりここでも、けっしてプロではない素人の動きがユニークで面白いことだ。ローザスの振付を起点として、あるいは骨格として、素人がそれぞれの体の可動域や個性に合わせて踊る姿からは、それまでの生活や人生で染み付いた身体の癖などが見えてくる。ローザスの振付が実は単純な要素の組み合わせでできているので、仕組みを理解すれば、誰でも自由に展開できることも大きい。世界中から集まったバラエティに富んだ演出、身体、人種、年齢のダンスに、素人がダンスを生み出し、楽しむパワーが詰まっている。振付はもちろん、衣装や見せ方なども、ローザスの有名な振付をパクっただけのビヨンセのビデオが色褪せて見えてしまうほどだ。盗作問題を裁判ではなく、クリエイティブなダンスプロジェクトで乗り越えたところが素晴らしい(興味のある人はぜひ投稿してみてください)。

『フエルサ ブルータ』撮影:西田留美可
『フエルサ ブルータ』撮影:西田留美可

 ネットもいいが、やはり観客や出演者といっしょに皆で盛り上がりたい、というのがライブパフォーマンスの魅力だろう。赤坂サカス前の特設テントで上演された、アルゼンチンのパフォーマンス集団デ・ラ・グアルダの『フエルサ ブルータ』(5月〜6月)はそんな観客が集まる公演だった。ダンスを楽しもうという観客のパワーを最大限に取り込んだ演出が随所に溢れていた。テントに入ると座席はなく、オールスタンディングで、始まる前から熱気が充満していた。歌や踊りが佳境に入った中盤の頃、観客の頭上に透明なシートが広がり、そこに水がたまって巨大なプールになる。そのプール全体が降りてきて、手が届きそうなところまでになる。そこをダンサーが魚のように泳いだり、スライディングしてクルクル踊り回ったりした。観客が手を伸ばすとダンサーも手を伸ばし、水族館で何かの生き物と交流しているような不思議な雰囲気になり、大騒ぎになった。また最後のシーンでは、土砂降りの雨のように水が落ちてくる中でずぶ濡れになりながらダンサーが踊る。観客も参加できるようになっていて、最初から踊るつもりで来ていた人たちがびしょびしょになりながら踊っていた。ここでは、素人は昂奮を生み出すには欠かせない装置になっている。

 究極の素人は動物だろうか。
 だいぶ昔になるが、勅使川原三郎の『Raj Packet』(2000年12月、新国立劇場)では、勅使川原が流麗にソロを踊る横で、子ヤギがぴょんぴょん飛び跳ね続けていた。同じ空間の中で、まったくダンスとは没交渉に、別の理由で延々と飛び跳ね続けている子ヤギの存在は、プロのダンサーがみせる完成された世界に対抗する世界があることを見せているようであった。素人がプロとは別のベクトルを持ち、ときにはプロの世界をおびやかすほどの強さをもつこともある。プロが向かおうとする世界と没交渉であればあるほど、プロに対峙する独立した世界をもち続けられるだろう。その強く対抗し対峙するものを望んで、異なるベクトルを持つ存在を舞台にのせたいのかもしれない。そんなことを考えさせたのが、勅使川原の作品に登場した子ヤギの存在だった。

 プロのダンサーだけで作られるダンスは、ある一つの完成された世界を提示する。プロとしての技や意識、集中力を披露する。それは、ムダなものや余計なものを削ぎ落とした身体であり、単眼あるいは一つの視線、一つの研ぎ澄まされた方向から見るタイプだといえるだろう。一方、生の体、素人の体が舞台に上がってくると、何をするか予想がつかないし、コントロールもきかない。振付家にとってはリスクがあることではあるが、異質なものとの共存を面白がるもう一つの視線が生まれてくる。それまで価値が低いと思われていた安定感のない動き、可動域の狭い動き、鑑賞に値するものではないと思われていた動きに価値を見いだすことになる。それは複眼・多眼の視点と言えるだろう。

 ダンスというアートは言語の境界がないので、海外との交流もさかんに行われる。またバレエを始めとして、様々なテクニックやメソッドも共有され得るので、それらを習得しプロになるほど、無国籍型の身体言語をもつようになる。振付家が素人の身体を面白がる理由の一つは、そうした無国籍型ではない、ローカルな身体の現前に魅力を感じるからだろう。ノイズのあるリアルな身体、非規格型の身体から受ける刺激を必用としているのだ。観客をとりこむことは、単に観客を楽しませるだけではなく、アーティストがセントラライズやスタンダライズしていかないための、もうひとつの視線を取り入れるための仕掛けの一つなのだ。

 多様な動きや感覚を面白がることは、ダンスの領域を広げてきたコンテンポラリー・ダンスの歴史にも符合するところがある。「コドモ身体」と呼ばれることもあった限りなく素人に近い身体、プロの意識で行う素人の身体性、素人の身体で踊れるダンス、それらの面白さを発見していくことで、もうひとつのダンスを楽しむ視線を作った。それが日本のコンテンポラリー・ダンスをにぎわしたのだ。ただし、こぼれ落ちてしまうものに注目しているだけでも単眼になってしまう危険をはらんでいる。