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シアターアーツ2008年春号
シアターアーツ2008年春号

今年も演劇評論の登竜門であるシアターアーツ賞の季節となりました。また今年はシアターアーツ創刊20周年の節目の年にも当たります。そこでこれから3回にわたり過去のシアターアーツ賞受賞作をWebマガジン・シアターアーツへ再掲載していきます。
第3回目は前シアターアーツ編集委員だった嶋田直哉が、2008年に第12回シアターアーツ賞で佳作を受賞した作品です。

 1 はじめに──「言葉」の発見

 野田秀樹は最新公演NODA・MAP第13回公演『キル(註1)』のパンフレットに「『富士山を太平洋にブン投げる』」という文章を寄せている。彼はそこで「「等身大」の物語が大嫌いだ。」と現代の演劇状況への苛立ちをぶつけながら「私は、大風呂敷を広げて、大嘘をまことしやかに作り上げることに、全身全霊を傾ける類の作り手だ。」と確信に満ちた演劇観を記している。確かに13年前に初演され今回三演目をむかえる『キル』はモンゴルを舞台にファッションをテーマとして世界征服(=制服)が繰り広げられる物語内容であり、「「等身大」の物語」とは正反対の、言うなれば「大嘘」の物語といえる。しかし不思議なのはNODA・MAP以降を辿ってみても当初とは考えられぬほどの変貌を果たした野田がなぜ、今敢えてNODA・MAP旗揚げ公演ともなった『キル』を上演するのかということだ。
 野田は「シアターガイド」(2008・1)掲載のインタビュー(註2)で自作『キル』を「演出は変えず、そのまま再演を重ねたい」作品であると述べ、続けて「改めて気づいたのは、この作品は「言葉の物語」だということ。」と語っている。先述したパンフレットのインタビューにも野田は「これは「言葉の物語」だということも再認識した。」と同一の内容を語っていることを考え合わせてみれば、今回の『キル』公演は野田にとって「言葉」の発見をもたらしたと言えるだろう。ならば現代演劇に苛立つ彼が「全身全霊を傾け」て「大嘘」をつく、その自信の裏付けともいうべき「言葉」の発見について実際にその有効性を検証してみることが今、野田秀樹についての劇評に求められていることではないだろうか?
 本論ではこのような視野に立ち2007年1年間で上演された野田秀樹の作品──『ロープ(註3)』を中心に『THE BEE』日本・ロンドン・ヴァージョン(註4)、『キル』の三作品を「言葉」を中心に検証し、有効性を見極めてみたいと思う。

 2 『ロープ』(Ⅰ)──「プロスレ」の「言葉」

 「今は、人間の暴力性に興味がある」──『ロープ』上演に先立つインタヴュー(註5)で野田はこのように明言している。それではプロレスを題材にするこの作品ではどのような「暴力」が展開されるのか。文字通り四方向に「ロープ」を張られたリングの舞台装置を前に観客の期待は大いに高まる。しかし舞台上ではわれわれが期待する「プロレス」的な、格闘するマッチョな「暴力」はほとんど展開されない。
 例えばこの作品の「暴力」の発端となるプロレスはグレイト今川のマイク・パフォーマンスから始まるのだが、彼が挑発するのは対戦相手であるノブナガではなく、「歯が茶色」く、「ハローキティ」や「ドラえもん」といった「変なもんが好き」な「アジア人」である。この挑発にノブナガとタッグを組むカメレオンは「関係ないじゃないすか、俺ら日本人には。」と首をかしげる。続く彼の「日本人て、アメリカ人じゃないの?」という言葉には確かに「アメリカ」を内面化し、「アジア」を切り離して主体を構成する戦後日本人のメンタリティが示唆されている、とまとめてしまえば実に簡単な説明(註6)にはなるのだが、むしろ注目したいのはおよそ「プロレス」とは関連性を持ち得るとは考えにくいこれらの「言葉」がこの作品の「暴力」の発端となっている点である。このような「言葉」は「プロレスのマッチメーカー」を自認するサラマンドラの以下のような感覚によって作られている。

サラマンドラ 悪役が突然の年金生活、えー、うそー、でもちょっとそんな話に騙されてみようかな。プロレスってそういうことじゃないですか。そんなスレスレを商売にしてるんです。むしろプロスレです。
明美姫 聞いちゃだめよ、丸め込まれるから、こいつの話に。
サラマンドラ その東スポに書いてある他の記事と同じ、信じるか信じないかスレスレの商売、聞いてください、このスレスレ感。(記事を読んで)『遺伝子操作で、ついにピザの匂いを持つ犬が誕生。』どうです、信じます? このスレスレのコトバ。
明美姫 信じ……られ……うる……ない。
サラマンドラ そうでしょう、われわれプロレスのマッチメーカーは、その信じられうるないストーリーを作って、人々に楽しんでいただいているんです。わかります?

(183P)

 リング上でレフリーを務めるサラマンドラは「人々に楽しんで」もらうために常に「プロスレ」的な「コトバ」で「信じられうるないストーリー」を組み立てている。彼のこのような感覚からは「何だこの飯は」「だったら、少しはお金を入れて下さい」、さらに「遊びばかりに金を使ってさ」「子育てに疲れた」といった試合の「決め台詞」が次々に作られていく。重要なのは「東スポに書いてある」記事やこのような夫婦喧嘩とも思える日常的な他愛もない「決め台詞」とおよそ連続性を持ち得ない「アジア人」への悪口がともに「プロスレ」的な「コトバ」として強引なまでに均質化され、「信じられうるないストーリー」を物語内容とする「プロレス」が構成されていくことだ。つまりこの作品における「プロレス」は身体的な「暴力」ではなく、あくまで「言葉」によって構成される「ストーリー」であることを先の引用は明示しているだろう。
 そのことを裏付けるかのようにノブナガとグレイト今川の試合はこの作品でも数少ない「プロレス」的な「暴力」を身体によって前景化できる場面であるにもかかわらず、舞台上ではグレイト今川がいつのまにか頼りない人形となり空中に放り投げられ、それと同時に背景にはト書きにもあるように「シャキシャキーン!」といった「まるで漫画」の擬音文字が投影される。いささか滑稽に演出され、実際に観客の笑いを誘ったこの場面は投影された擬音文字という「言葉」が本来ならばリング上で展開される「暴力」そのものの実体性を剥奪していることを明示しているといえるだろう。
 「暴力」を剥奪する「言葉」。この両者の関係こそがノブナガをさらなる「暴力」へとかき立てていくことになる。彼は引きこもった部屋の中で「漫画を読んでいたら、プロレスとの違いがわかんなくなった」と言い、リング上で繰り広げられる「暴力」と「言葉」の乖離について以下のように説明する。

ノブナガ 観客の目には、プロレスが漫画に見えているからさ。グワッシュ、ドボドボ、ガガガガガッ、ガシュッ、ウゲェッ、ギャー。漫画の中からやってきた音が、観客の頭の中で聞こえ続ける。ウギャー、タラタラ。たとえ本当に目の前で、血が流れていようとも、頭の中では血も出なければ、痛くも無い。ウギャア、タラタラ。

(157P)

 ノブナガは「観客の頭の中で聞こえ続ける」擬音がそのまま実体的な「暴力」に接続され「血が流れていようとも、頭の中では血も出なければ、痛くも無い」というように「暴力」そのものの意味内容が剥奪されることに苛立ちを隠せない。ノブナガ自身が「擬音祭り」と称するこの事態に対峙するかのように彼は「俺はもう擬音の中では闘わない。本物の痛みと血を見せつける。」と実体的な「暴力」へと向かうことを表明する。事実作品も次第にノブナガの言う「本物の痛みと血」に彩られた「暴力」を後半で展開していくことになるだろう。
 ノブナガはこのような「暴力」への暴走、具体的にいえばグレイト今川に過剰な「暴力」をふるった理由を遡及的にではあれ「アジア人への言葉の暴力が許せなかった。」と語り出す。彼は「アジア人への言葉の暴力」を聴いたときに「茜さす空、夕月に、吠える野犬のような気持ち」になり、さらに「アジア人でいることは、なんて淋しいことだろう。」というように自身の感情をいささか叙情的に語り始める。注目したいのはノブナガの「暴力」の理由が他ならぬ「言葉」であり、さらに彼がその事情を語る「言葉」がいたって個的な感性ともいえる「純情さ」へと接続される事態だ。例えばJHNDDTは彼のそのような様子を見て「純情だわ、まっすぐな子だわ。」と繰り返し感嘆する反面、彼女はノブナガと同一の意味内容を話すDを「お前が言うと歯が浮いて聞こえる」と切り捨てる。物語はこれ以降口にする「言葉」について「歯が浮く」のか「浮かないのか」といった基準によって「純情」であるか否かが決められ、さらにそれに照応するかのように「正義」が見出され「暴力」の正当性が決められていくようになるだろう。事実リング下で「人類が持っている「力」を監視」し、「人類が持つ正しい力と正しくない力を見極める」ために「死んだ父から、あらゆることを実況するように育てられた」というタマシイは以後ノブナガが繰り広げる「暴力」について「はい、これは正当防衛。正しい暴力です。」と実況し、彼の正当さを保証していくことになる。このようにノブナガの「言葉」の「純情さ」を強調し、さらには彼がふるう「暴力」をそれゆえに正当化していくていく過程には「暴力」と「言葉」のネジレともいえる関係が露わになっているといえるだろう。つまりここでは「言葉」が「暴力」の意味内容を剥奪しながら、しかしそれと同時に「言葉」が「暴力」の正当性を保証していくという背反する事態が起こっているのだ。

 3 『ロープ』(Ⅱ)──「暴力」と「言葉」

 このように「言葉」によって正当化される「暴力」はやがて「ひと殺し」から「戦争」へと次第にエスカレートしていく。いつしか舞台上は鉄条網に覆われ、これまで〈内─外〉の〈境界〉を明示してきた「ロープ」はその意味を失いつつある。その中を覆面レスラーたちがうごめき、攻撃を繰り返す。彼らは覆面をかぶっているためにお互いに敵味方の判断ができず、ノブナガのいうように「誰もがなんで闘っているのかなんて、わかっていない」状態に陥ってしまう。すべてがユダヤ人の社長が指示した「ストーリー」通りに運んでいると思われていたものが、ノブナガの「プロレスは八百長ではない」と信じる「純情さ」が実は彼自身によって演じられていたこと、彼の本名は「イエヤス」であったことが明らかにされるにつれて、舞台上での出来事が「八百長」なのか「ガチンコ」であるのか観客も含めて理解できなくなってくる。そのような中、レフェリーであり「プロレスのマッチメーカー」を自認するサラマンドラまでもがこの「暴力」に巻き込まれ、逆上して毒ガスをまき散らすに及ぶ。物語の当初からノブナガとグレイト今川の試合に引き続き、ノブナガ&カメレオン組と覆面レスラーたちの試合を実況していたタマシイはこの混乱したリング上を以下のように実況する。

タマシイ あろうことか、レフリーが、毒ガスを撒いた。たまらず誰も彼も覆面を被っています。もはや私の目にはすべてがテロリストです。誰の暴力が正しいのでしょう。実況困難です。覆面レスラーが覆面レスラーを蹴っている。蹴られては蹴り返し蹴っては蹴り返される。やられてはやりかえし、やってはやりかえされる。けれども、中の顔はわからない。苦しんでいるのか、痛んでいるのか、人間の顔が見えない!

(207P)

 ここでタマシイが実況しているのは敵と味方が衝突する単純な二項対立の図式ではなく、「すべてがテロリスト」であるような宛先の定まらぬ文字通り「覆面」をかぶった「暴力」がひたすらに肥大化していく様子である。彼女は「暴力」が前述のようにエスカレートするにつれて次第に「実況しているつもりが、ただ煽っている気がしてきた」と戸惑い、やがて引用箇所のように「実況困難」な状況に陥ってしまう。リング上には「頭の半分が吹き飛んで、脳みそが零り落ちてい」る「覆面をしたままの一つの死体」が転がり、「ひと殺し」が現実となった時、彼女はその死体のそばの携帯電話を拾い、以下のように話し出す。

タマシイ (電話の向こうに)これまでのことありがとう? ごめんなさい。あたしは、人間のように言いなりにはなりません。あった事をなかったことにはできません……聞いているのはわかっている。じっと息を殺して、顔さえ見せぬあなたが見たがっているもの。そうね、戦争を見せればいいのね、リアルタイムで

(219P)

 ユダヤ人の社長に「これまでのことありがとう」といわれ、「あった事をなかったことに」してしまう「八百長」が始まろうとするとき、タマシイは「あった事をなかったことにはできません」という使命感から「リアルタイム」に「戦争」を語り始める。「八百長」の「ストーリー」が「ガチンコ」のそれへと転回していく瞬間だ。その転回を徴づけるかのようにタマシイのここでの実況はこれまでの実況とはいささか事情が異なる。というのは彼女はこれまでのように眼前で実際に生起した「暴力」について実況するのではなく、今度は彼女自身が実況することによって「リアルタイム」に「戦争を見せ」る、すなわち彼女は自身の「言葉」によって「暴力」を生成しようとしているのだ。つまりノブナガが「言葉」に対峙し、また「アジア人への言葉の暴力」を起因としながら「本物の痛みと血を見せつける」といった実体的な「暴力」へと向かい、その「八百長」の「ストーリー」が「戦争」にまで行き着いたとき、今度はそれとは対照的にタマシイの実況という「言葉」によってどの「ストーリー」にも収まらない「戦争」をめぐる「ガチンコ」の「暴力」が生成されるという明らかな反転がおこっているのだ。
 彼女はこれまで幾度となくプロレスの実況に交えて「ヘリコプターの音」をはじめとする「戦争」の実況をサブリミナルに挿入してきたのだが、そのような彼女が入国管理官ボラに促されて語り出すのは「30年以上も前」に「天気のいい朝に、たった4時間で滅びた」という自分の故郷である「小さなベトナムの村」──「ミライ」の惨状である。自身の父親がコロボックルでもなく、ベトナム人でもなく「ミライ」を滅ぼし逃走したアメリカ兵であることをボラから知らされたタマシイは戸惑いながらも「ミライ」が滅ぼされていった惨状を前半で繰り広げられたプロレスの実況さながらに語り始める。

タマシイ おっと、赤ん坊にお乳を飲ませているヴォ・チ・プーさん、お決まりの射殺、そしてなおもお乳にすがる赤ん坊もろとも、上から藁を放り投げて火を放った。焼かれたぞ、完全に焼かれて手足が縮んだ、見事だ、見事な技だ。

(225P)

 およそレトリックとは無縁の平板化された「言葉」によって行われる実況は、舞台上が戦場と化し混沌を極めているがゆえにより直截的に「暴力」性を前景化していくことになるだろう。ノブナガが言うように「言葉」に抗うように始まった「暴力」の肥大化は、彼の「純情さ」を担保としながら、逆説的に「言葉」によって正当化され、また生成されることでその極点を見出すことになる。
 『ロープ』の批評性はまさにこの「暴力」と「言葉」の結節点にある。野田は前作『オイル(註7)』では戦後の日米関係を『古事記』の神話世界になぞらえ〈征服─被征服〉といった単純な二項対立から生成される「復讐」の肥大化する様を9・11をふまえて描いたが(註8)、『ロープ』では「プロレス」をモチーフに肥大化する「暴力」に重点を移し、そこに「言葉」を介在させながら「戦争」を描き出すに至る。そのように描かれた『ロープ』における「暴力」のありようはまさしく「すべてがテロリスト」と化し、誰が敵なのかわからず文字通り「覆面」を相手に病的なまでにイラクで殺戮を繰り返す今のアメリカの姿と重なってくる。
 「今は、人間の暴力性に興味がある」──『ロープ』上演に先立ってそのように語った野田は、しかしそれより半年ほど前に「暴力」の政治学ともいえる試みを既にロンドンで行っていた。

 4 『THE BEE』──「暴力」の政治学

 『THE BEE』はサラリーマンである井戸が息子に誕生日プレゼントを買って帰宅するといったごく「日常」的な場面から始まる。彼は自宅前でテレビ・リポーターに取り囲まれ我が家に脱獄囚である小古呂が妻子を人質に籠城していることを知らされる。井戸は小古呂の妻に夫の説得を頼むが拒否され、逆上。同行した警官を殴り拳銃を奪い、今度は彼女とその息子を人質にとり、お互いに相手の息子の指を1本ずつ切り落として送りつける陰惨な「暴力」の応酬が開始される……。
 『ロープ』が前述したように「プロレス」をモチーフに、リングに張られた「ロープ」によって〈境界〉を可視化して「暴力」を描いたのに対し、『THE BEE』ではこのような「日常」との連続性を強調し、それが突如前触れもなく「暴力」へと変貌してしまう様子が描かれている。その「暴力」の応酬は野田の「指そっくりなものを作って折るより」も「観客が自由に想像できていい(註9)
というねらいのもと、5本の指は鉛筆や割り箸に見立てられ実際にそれらがポキポキと音を立てながら折られていく。身体がこれらの小道具によってデフォルメされることにより「暴力」の存在が音として顕在化されることになる。次第に「暴力」はルーティン化され以下のように描かれていく。

 井戸、小古呂の息子の手から薬指を切り落とす。
井戸 封筒だ!
 小古呂の妻、すでにヒステリー状態ではなくなっている。ただただ、狂気的静寂に転じている。暴君に言われたままに封筒を取ってきて中に指を入れる。その封筒をなめて封印さえする。井戸、その封筒を持って洗面所の窓辺に行く。窓を開ける。そこに、百百山がいる。井戸、百百山に封筒を渡す。そして窓を閉める。井戸が部屋に戻ろうとすると、小古呂の妻が、背後から井戸の上着を脱がせる。そしてそこに敷かれてある床に誘う。
オペラ「蝶々夫人」から、ハミングのコーラス
あっけないセックス。井戸、天井に向かって銃を撃つと同時に射精する。
翌朝、三人、目を覚める。今や、すっかり日課と化した行為が、儀式のように演じられていく

(293P)

 『THE BEE』はこれまでの野田作品にはみられないほどト書きの多い作品であるが、この場面も単行本にして3頁(293〜296P)ほど「日課と化した行為が、儀式のように演じられていく」様子が淡々と綴られている。非日常の「暴力」が「日課」として繰り返される舞台には台詞は一切なく、プッチーニ『蝶々夫人』第2幕のハミング・コーラスをバックに、次第に井戸と小古呂の妻の身体が整然としたダンスのようにみえてくる。この場面こそ『THE BEE』の白眉ともいえる場面――「暴力」の政治学が展開される瞬間だ。プッチーニ『蝶々夫人』の甘美な旋律ゆえに隠蔽されていた〈境界〉が「暴力」によって赤裸々に示される
(註10)。特にそれが顕著になるのはロンドン・ヴァージョンである。日本ヴァージョンでは井戸を野田秀樹、小古呂の妻を秋山奈津子の配役であったが、ロンドン・ヴァージョンでは井戸をキャサリン・ハンター、小古呂の妻を野田秀樹が演じた。「西洋(男)が東洋(女)を犯す物語」として受容され、愚直なオリエンタリズムの好例として語られることも多い『蝶々夫人』の構図をそのまま援用しながらも、日本ヴァージョンでは「男が女を犯す」物語として受容できたものが(註11)、ロンドン・ヴァージョンでは実際に演じる役者のジェンダーを転倒させることで、〈男─女〉〈西洋―東洋〉といった単純な二項対立では物語が回収されず、舞台上では「誰が誰を犯しているのか」がわからなくなってくるのだ。
 「「暴力の日常化」というものを言葉にしたって面白くない(註12)」。これは野田が『THE BEE』公演終了後、この「暴力」の場面について語った言葉だ。「暴力」を表現するために彼が採った方法は「言葉」に頼らず「沈黙の中での身体表現」する「フィジカルな方法論」であり(註13)、そしてこのような彼の意図は、日本ヴァージョンでは近藤良平、ロンドン・ヴァージョンではキャサリン・ハンターといった得難い表現者たちによって十分すぎるほど達成されているだろう。しかしそれはただ身体によって「暴力」が前景化される、といった単純な事態ではないはずだ。そこで展開されているのは「男が女を犯す」といったわかりやすい構図ではなく、先述した『ロープ』の「覆面レスラー」たちが繰り広げた「暴力」同様、宛先の定まらない「覆面」の「暴力」が応酬され、それが異様なまでに増殖していく様にほかならない。その時舞台上では〈男─女〉〈西洋―東洋〉といった二項対立的な幾重にも絡み合う〈境界〉は露わにされると同時に解体され、政治的力学によって描かれる「覆面」を被った「暴力」の姿だけが展開されている。
 そしてさらに注目されるべきは野田秀樹がこの作品の初演の場所としてロンドンを選んだことである。周知のように野田は2003年1月『RED DEMON』をロンドンで上演している(註14)。野田はその時の上演までの苦悩を「この『赤鬼』をロンドンに持ち込むということ自体が、赤鬼なのだ。入ってくる必要のない共同体に突然流れ着く「赤鬼」なのだ。」というように自身を「よそ者」と位置づけ、他者と〈境界〉について『赤鬼』の物語構造そのものをなぞりながら語る(註15)。しかし『THE BEE』公演終了後の河合祥一郎との対談(註16)野田は「ヨーロッパっていうのは、内・外という共同体のあり方ではない。混在している」と考え、以下のように語っている。

河合 今回の特集(引用者注──「イギリスと日本」)では異文化交流というのが問題になると思うのですが、異文化交流で境を乗り越えるのかどうかという話になったときに、むしろ異質なままの方がいいということでしょうか。
野田 (略)だって、文化が異質だから面白いわけだよね、それでいながら交流したい、混じりたい──そういう衝動が僕の中にあったわけじゃない? でも現実に本当に混じりきったら面白くも何ともないわけですよね、

 『RED DEMON』ではことさらに「よそ者」という意識があり、それゆえに直面する〈境界〉を前に苦悩していた野田が、3年後の『THE BEE』ではむしろ「異質」さを受け入れ、逆にその〈境界〉の絡み合いの中に「僕は日本の生活からしか景色を見られないですから。」となかば開き直りながら自己の「日本」的なるものを発見する。その「日本」的なものについて野田は具体的にこの対談の別の箇所で能をモチーフとしながら『源氏物語』の英訳を読んだ時のひらめきをもとに「葵の上」を演劇化することを熱く語っている。

 5 『キル』──「言葉」の物語

 このような野田の思考を考えたとき、2007年12月〜2007年1月にかけて三演している『キル』をいったいどのように位置づけたらよいのだろうか。『キル』はモンゴルを舞台にファッション・ブランド「蒼き狼」とその偽ブランド「蒼い狼」の〈境界〉、そしてこのようなテムジンたちの物語水準とフリフリたち観光客ツアー一行の物語水準の〈境界〉という二つの〈境界〉をめぐる物語である。テムジンたちの水準では征服=制服をめぐる〈境界〉線のせめぎ合いがその物語内容の中心となり、「ファッションショー」ならぬ「ファッショショー」が行われている。そしてこのようなテムジンたちの物語に全く水準の異なる「外部」の案人ガイド、旅人ポロロン、フリフリ、J・Jなど観光ツアー一行の物語が絡んでくる。この二つの物語水準は互いの互いを「外部」として位置づけながら、それぞれの水準の存在根拠が与えられ、そしてこの両者の関係に「言葉」は決定的に重要な役割を果たすことになる。例えばツアー一行の一部はテムジンたちの物語水準では実際にろう人形のマネキンと化している。そして彼らがその「外部」に浸食することを指し示すのは他ならぬ「言葉」なのである。ツアー一行たちの語尾に「〜ろう」という「言葉」がつくのを合図に、彼らはその〈境界〉の「外部」の存在を知り、それに浸食される危機を覚えるのだ(註17)。このように考えれば『キル』は「言葉」によって二つの物語水準が明示され、さらには物語の発端であるテムジンがシルクと結ばれるのも結髪がシラノよろしく「返事だけで、万里の長い城が出来るほど」手紙を書き連ねたからであることをふまえれば、この作品は徹頭徹尾「言葉」の物語であることがわかってくる。野田は自作『キル』がこのような「言葉」をめぐる物語であることを初演13年目にして再発見する。彼は前述したように「これは「言葉の物語」だということも再認識した」と語り、さらには「言葉」の「共同体の運命まで変えてしまう影響力」に触れ、「そういう「言葉」の怖さは、初演当時より今の方が身近なんじゃないかな(註18)」と作品の同時代性を見出してもいる。
 2006年6月『THE BEE』ロンドン初演では頑なに「言葉」に頼らず「沈黙の中での身体表現」する「フィジカルな方法論」を突き詰めた野田が、2006年末から2007年初頭にかけて「暴力」と「言葉」の結節点を描いた『ロープ』を発表し、同年6〜7月には再び『THE BEE』(日本・ロンドンヴァージョン連続上演)を経て、同年12月に『キル』で自身の「言葉」の物語を再発見してしまうこと。一言でまとめればこの一年、野田の思考は常に「暴力」と「言葉」の間で、〈境界〉線上に位置する自己の主体をどのように構成していくのかといういたって政治的な問いであったように思われる。このような自己の問いに対し、自作を「言葉」の物語として再発見することを一つの過程と捉えるのならば、彼がこれから紡ぐべき「言葉」はいったいどのような「言葉」になるのだろうか。
 今一度『ロープ』に戻って考えてみよう。物語の終盤、タマシイが「ミライ」の惨状をかなりの速度を保ちながら実況する中、逃走したアメリカ兵と「ミライ」の女の会話がノブナガとタマシイのシルエットによって以下のように描かれる。

ノブナガ どけ、お前も撃つぞ!
タマシイ 男は、闇に沈む女に向かってそう叫ん
ノブナガ 撃つぞ。
タマシイ だが男の指は動かなかっ
ノブナガ 女は、怯えた目で俺を見つめ。息が荒く、声を絞り出しては苦痛に耐えてい
タマシイ あたしは、もう命が終わります。
ノブナガ 女の言葉はわからなかっ。けれども、彼女の足元は、血でどろどろになってい
タマシイ この体は、こときれるけれど、このタマシイを受け取って。
ノブナガ 女の言葉はわからなかっ。けれども、女の足と足の間でぬめぬめと小さな何かが蠢いていた。
タマシイ 今生まれたばかりの赤ん坊です。
ノブナガ 俺は本能的に両手を差し出し女の言葉はわからなかっ。まるで海から上がってきたばかりの、海草がついたままのようなびしょびしょで、けれど温かく、限りなくやわらかいものをつかみとった。
タマシイ ありがとう。
ノブナガ 女の言葉はわからなかっ。女はそこで死ん

(229P)

 この場面は注意深く読むと時制と役割がかなり複雑に転換していることがわかる。引用の前半はアメリカ兵(ノブナガ)の様子について、「叫ん」「動かなかっ」という過去の時制を示す文末表現から明らかなようにミライの女(タマシイ)が事後的に自身の記憶を語っている。しかし後半になると今度は同様に「ミライ」の女の様子について、「見つめた」「耐えていた」などの過去の時制を示す文末表現から明らかなようにアメリカ兵(ノブナガ)が自身の記憶を語っている。ここではアメリカ兵(ノブナガ)が3度「女言葉はわからなかった」と繰り返すことから明らかなように、この二人はお互いに意思の疎通が全くなされていない。不思議なのは言語的には意味不明の場面であり、自分の父であるアメリカ兵(ノブナガ)の言葉はともかくとしてもミライの女(タマシイ)の言葉を理論的にはタマシイは理解することは出来ないはずで、にもかかわらず彼女自身にとっても意味不明のこの場面が物語構造上は入国管理官ボラから「後はお前が実況できる」と託されていることからも明らかなように強引なまでにタマシイの実況へと回収されてしまう点だ。物語の現在時から30年以上前の誰も理解することができないミライの女の「言葉」。それを〈今・ここ〉で実況するタマシイの「言葉」はいったい誰の「言葉」なのか。

 結 野田秀樹の出発──〈境界〉線上の「言葉」

 野田秀樹は鴻英良との対談(註19)でこの場面をベトナム戦争時の1968年3月、ベトナム・ソンミ村で実際に起きたアメリカ軍の虐殺に材を採ったこと、そして具体的な資料として『ロープ』パンフレットに資料として挙げたアレン・ネルソン『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(講談社 2003・8)や市民運動家吉川勇一のホームページ(註20)に掲載されたソンミ村記念館のパンフレットを参照したことなどを明らかにしながら以下のように述べている。

野田 (略)僕が使っているくだりは唯一救いのある箇所で、女性の足と足の間から赤ん坊が出てくる。それを「ぬめぬめ」そして「びしょびしょ」としたものと表現しているわけですね。あのふたつの言葉に感銘を受けて、これは書くべきだと思いましたね
野田 (略)『ロープ』を書いた時は、その資料(引用者注──ソンミ村記念館のパンフレット)を読んだ時の衝撃が大きかった。果たしてこれを演劇でやっていいことなのかどうか、結構悩んで、パソコンの中に、書き写した言葉をずっと置いておいたんです。読むたびに何かうずく。記念館のパンフレットとしても残るんだろうけど、違う形で作品とすれば、もうひとつ世間に残せるかもしれない。驕りかもしれませんがそんなことも思いましたね。

 ここで『ロープ』とアレン・ネルソンあるいはソンミ村記念館のパンフレットの言説を比較参照しその差異を問うことは本論の目的ではない。重要なのはソンミ村が虐殺にさらされたその時、実際に村の女性が発した「言葉」を野田秀樹が本やネットを媒介として読み、それに突き動かされ「世間に残せるかもしれない」といささかユマニスティックな使命感に駆られながら彼が作品化し、〈今・ここ〉で生きる我々にまで彼女の「言葉」が実際に辿り着く事態なのだ。時間、国籍、言語、記憶、メディアといった様々な権力の〈境界〉を交錯、横断して我々の手元にまで届く死者の「言葉」。このような「言葉」を我々はいったいどのように受け止めればいいのだろうか。それには以下のホミ・K・バーバの意見が参考になるだろう(註21)

 未来像に向かって自己生成する国民「それ自体」と、他の外部の諸国民とを対立させる二項対立に代えて、実践は「中間的なもの」の時間性を導入する。国民的自我を示す境界線は、国民の創出にかかわる自己生成の時間を中断し、均質な国民という意味の産出を妨げる。問題は単に、他国民の他者性に対立するものとしての国民的「自我」ではない。我々の前にあるのは内部で分裂し、その成員の異質性を表現する国民である。

 国民国家に「二項対立的に構造化することでは到底表せないほど異種混淆的(註22)」な様相を積極的に見出そうとするバーバはB・アンダーソンが考える「想像の共同体」に存在する「均質で空虚な時間」には回収され得ぬアンビヴァレントで不安定な「遂行的時間」をまさしく「異種混淆的」な〈境界〉線上に見出そうとする。ソンミ村の女性の「言葉」が我々の元にまで辿り着く過程ははまさにこの〈境界〉の有り様を露わにするものであり、また同時に「国民」なるものが「内部で分裂し、その成員の異質性」が露わになる、つまりバーバの言う「中間的なもの」の領野においてこそ受け止められるべき「言葉」だ。だとするならば彼女の「言葉」を聴くためには「国民の創出に関わる自己生成の時間」や「均質な国民という意味の産出」を放棄するところから始める必要があるだろう。
 しかし野田はこのような方向とは反対に『オイル』では「イタイ」という個の身体的な感覚を媒介としながら、それを均質化した「広島」の記憶へと接続し、単一的な国家の「復讐」へと回収してしまう。そのような単純な回路から『源氏物語』といった「日本」的なものへと開き直る姿勢は確かにわかりやすい過程であるとはいえ、例えばソンミ村の女性の「言葉」に代表される交錯する死者たちの記憶を受け止めることはできないはずだ。『RED DEMON』『THE BEE』のロンドン公演を経て、「文化とは境界があるカオスの中でしか生まれない。演劇人はその混沌の中に身を寄せ、社会への深い理解とコミュニケーションを得ることが必要です(註23)。」と模範的に語る野田に求められる「言葉」はナショナルな記憶に頼る饒舌な「言葉」ではなく、まさに〈境界〉線上に横たわる幾重にも引き裂かれ、忘却された名も無き者たちの「言葉」であるはずだ。その「言葉」を「なかったことにしてはいけない」。
 9・11以後、〈帝国〉が「覆面」のごとく世界を覆い尽くす中、それゆえにこのような〈境界〉線上の「言葉」への応答可能性を思索することこそが野田を含めた我々の「ミライ」=「未来」への責任であるはずだ。野田秀樹の「言葉」をめぐる(再)出発はまさにこの地点から始まるだろう。

【注】
(1)NODA・MAP第13回公演『キル』(作・演出・出演=野田秀樹/シアターコクーン・東京 2007・12・7〜2008・1・31)。なお『キル』はNODA・MAP第1回公演(シアターコクーン・東京/1994・1・7〜2・27、近鉄劇場・大阪/1994・3・4〜3・13)、NODA・MAP第4回公演(近鉄劇場・大阪/1997・7・3〜7・13、シアターコクーン・東京/1997・7・18〜8・31)にて上演され、今回は三演にあたる。
(2)尾上そら取材・文「10年経った今だからやりたいことがある 野田秀樹インタビュー」(「シアターガイド」2008・1)。
(3)NODA・MAP第12回公演『ロープ』(作・演出・出演=野田秀樹/シアターコクーン・東京/2006・12・5〜2007・1・31)
(4)NODA・MAP番外公演『THE BEE』(脚本=野田秀樹&コリン・ティーバン 演出・出演=野田秀樹/シアタートラム・東京/2007・6・22〜7・29)。なおこれに先駆けてNODA・MAP/SOHO THEATRE公演『THE BEE』(ソーホー・シアター ロンドン/2006・6・27〜7・13)が上演されている。
(5)今井浩一取材・文「野田秀樹インタビュー」(「シアターガイド」2007・1)
(6)野田自身も(5)のインタビューで「日本人って、「人類」と言われたら間違いなく自分たちはそこに含まれてると思うのに、「アジア人」と言われても自分たちのことだとは思わないんだよね。我々は鏡を見なければヨーロッパ人だと思ってるから(笑)。」と語っている。
(7)NODA・MAP第9回公演『オイル』(作・演出・出演 野田秀樹
 シアターコクーン 東京 2003・4・11〜5・25、近鉄劇場・大阪/2003・5・30〜6・15)
(8)拙論「「寓話」の強度──野田秀樹『オイル』を読む」(「日本近代文学」第78集 2008・5)参照。
(9)筒井康隆・野田秀樹対談「書き・演じる。二つの武器を駆使する表現者」(『THE BEE』パンフレット所収 NODA・MAP 2007・6)
(10)プッチーニ『蝶々夫人』第2幕ハミング・コーラスの場面は実際のオペラ演出でも様々な試みがなされている。詳細は口頭発表「蝶々夫人の政治学──イメージの(再)編成」(日本演劇学会全国大会 2007・6・24)にて論じたことがある。
(11)野田秀樹は『THE BEE』パンフレットで日本ヴァージョンについて「性別に即した配役にしたことで、いわゆるハラスメントな面がより生々しく見えてきた。」(岩城京子取材・文)と語っている。
(12)河合祥一郎「野田秀樹インタビュー」(「シアターアーツ」第32号 
2007・9)
(13)野田秀樹は『THE BEE』パンフレットで「後半になるにつれて徐々に口数が減り沈黙の中での身体表現だけになっていく」(岩城京子取材・文)と語っている。
(14)NODA・MAP英国公演『RED DEMON』(作・演出・出演
 野田秀樹 ヤング・ヴィック・シアター ロンドン 2003・1・31〜2・22)
(15)野田秀樹「赤鬼の挑戦──ロンドンへの道」(野田秀樹・鴻英良『野田秀樹 赤鬼の挑戦』所収 23頁 青土社 2006・8)。なお『赤鬼』をめぐる野田の〈境界〉線上の思考については拙論「境界線上の演劇──野田秀樹『赤鬼』を読む」(「日本演劇学会紀要」第45号 2007・11)参照。
(16)(12)に同じ。
(17)斎藤環「「キル」ための反復運動」(「ユリイカ 総特集野田秀樹」臨時増刊号 2001・6)にも同様の指摘がある。
(18)NODA・MAP第13回公演『キル』パンフレット(NODA・MAP 2007・12)
(19)野田秀樹・鴻英良「野田演劇の新しいヴィジョン 野田秀樹氏インタビュー」(「週刊読書人」2008・1・18)
(20)吉川勇一ホームページ(http://www.jca.apc.org/~yyoffice/)。なおインタビューで触れられているソンミ村記念館のパンフレットは吉川氏による翻訳(ホームページ左のメニュー「翻訳「ソンミを振り返る」」)で読むことができる。アドレスは2008年1月13日現在のもの。
(21)ホミ・K・バーバ(本橋哲也他訳)『文化の場所 ポストコロニアリズムの位相』253頁(原書1994 法政大学出版局 2005・2)
(22)(21)240頁
(23)「外国特派員協会記者会見」(2007・6・27)。引用は「シアターガイド」ホームページ(http://www.theaterguide.co.jp/pressnews/2007/07/02_2.html)に拠った。アドレスは2008年1月13日現在のもの。

▼引用は野田秀樹『21世紀を憂える戯曲集』(新潮社 2007・11)に拠った。明示した頁数は同書。一部改行などを引用者によって行った。なお引用文への傍線、傍点などはすべて引用者による。