開幕ペナントレース『ROMEO and TOILET』 作・演出:村井雄 2014年9月、相鉄本多劇場 撮影=池村隆司
開幕ペナントレース『ROMEO and TOILET』 作・演出:村井雄 2014年9月、相鉄本多劇場 撮影=池村隆司

 シェイクスピア生誕450年の2014年は、様々な劇場で関連公演が上演された。あうるすぽっとで開催された「シェイクスピアフェスティバル2014」でも、演劇・ダンス・演芸のジャンルから15団体のシェイクスピア関連の舞台があった。そんな中、どのフェスティバルにも関係せずに、ひっそりとシェイクスピア作品を上演したのが、開幕ペナントレース。題して『ROMEO and TOILET』(作・演出=村井雄、2014年9月28日マチネ、相鉄本多劇場)。初演は2009年8月のニューヨーク公演。劇団HPには「The New York Times をはじめとする各種メディアでの劇評を獲得するなどの成功を収め」たとある。過去に唯一観た『アントンとチェーホフの桜の園 −最終章−』(2012年3月、アサヒ・アートスクエア)が『桜の園』と直接は関係がなかったように、本作も『ロミオとジュリエット』とは一見別の作品である。だが前回の観劇とは異なり、注目すべきものがあった。この作品に加えて、あうるすぽっとプロデュース『ロミオとジュリエットのこどもたち』(原作=ウィリアム・シェイクスピア、訳=松岡和子、作・演出=三浦直之(ロロ)、音楽=三浦康嗣(口ロロ)、2014年10月4日マチネ、あうるすぽっと)について言及する。衒いなく愛を語り合う『ロミオとジュリエット』の激情的な世界に登場する、じっと耐えて祈る人物。以下は、そのような人物が登場する2つの『ロミオとジュリエット』の同質性と、作品総体から受ける違いについてだ。

 開幕ペナントレースの作風は一言でいうと笑い。コントのようなスケッチのつながりによって劇は構成される。パフォーマー達は髭面が目立つ漢たち。全身白タイツを着用しているため、腹がぽっこり出たシルエットが目立つ中年オヤジたちなのである。背景と舞台の左右脇には、トイレットペーパーがびっしりと敷き詰められている。タイツ姿とも相まって、空間は白一色のように思える。そんな中を、彼らはおしゃぶりを加えた幼児になったり、脇のトイレットペーパーを弾き飛ばしながら劇場中を駆け回る。唾と汗を飛び散らしながら脈略のないやり取りで遊びつくす中年オヤジたちの姿は、純白の白い空間に反して汚らしい。それでも展開に連いていくと、次第に彼らの目的はきれいな一本糞を出すことだと分かってくる。誰にも経験があるはず、とあえて言い切ってしまうが、気持ちの良いくらいの一本糞が出ると、トイレットペーパーでふき取っても何の汚れが付かない。それを「奇跡のうんこ」と言ったのは関西のあるお笑い芸人だ。トイレットペーパーに糞が付着しない。すなわち、純白が汚されないという奇跡を、ジュリエットを想う純真無垢な恋愛に重ね合わすこと。これが作品の核なのだ。

 舞台はいつしか一本糞をするには好都合!?とされるカレーの具材探しの旅に出る。いよいよ話は尾籠さを増してゆくが、食物繊維たっぷりのカレーを食べて「奇跡のうんこ」をするためだ、しかたがない。最高のたまねぎ、ジャガイモ、ニンニク、ココナッツ採取へまっしぐら。一連の旅路の中で、採取したニンニクの皮むきのシーンは特に傑作である。輪になってニンニクのシルエットを表現するパフォーマーたち。採取に来た男が輪の一人の腰を掴んで引き剥がそうとする。輪から外れないように(皮を剥かれないように)する者と剥がそうとする者の無駄な頑張り。ここに至って私はついに根負けし、「こいつら、しょうがないな」と観念して笑ってしまった。先に、パフォーマーたちの身体はだらしがないと書いたが、こういった遊びを必死にいつまでも続けるくらいの体力があり、また、達者なパントマイム技術を持ち合わせてもいる。そのため、一連の流れに脈略はなくとも、時々のシーンで何をやっているかを観客へ伝える能力は相当高い。彼らの舞台は、単なるおふざけでは終わらないパフォーマーとしての優れた力が支えているのである。

開幕ペナントレース『ROMEO and TOILET』 作・演出:村井雄 2014年9月、相鉄本多劇場 撮影=池村隆司
開幕ペナントレース『ROMEO and TOILET』 作・演出:村井雄 2014年9月、相鉄本多劇場 撮影=池村隆司

 そしてラスト、ロミオは便意をもよおしてトイレの個室にこもる。また誰しも経験があると言い切ってしまうが、特に腹痛時のトイレでは皆、自らを罰し、神に懺悔する。「あの時はすいませんでした、だから楽にさせて」、と。ここに至って、人は内なる自己と対話をし改心しているのだ。この時、体液を飛び散らすだらしない身体とくだらない笑い、そして尾籠な話は純真さへと反転する。なぜなら、トイレ内での内省の果てに出る「奇跡のうんこ」は、ジュリエットとの無垢な恋の成就だからである。

 そのような人物は『ロミオとジュリエットのこどもたち』でのロザラインに当たる。上演時間が約3時間もあるが、前半70分で原作の『ロミオとジュリエット』は駆け足で上演されてしまう。休憩を挟んだ2幕に、ロロお得意のボーイ・ミーツ・ガールが展開されるという趣向。いわば、原作は後半90分の壮大なフリになるわけだ。古今東西のラブストーリーが詰まったレコードを探索する一行。発掘されたレコードはリスナーからのリクエストとしてラジオ局に送られ、曲がかかる。すると、恋愛名作劇のキャラクターが登場して名場面が演じられる。本作の後半は、『ロミオとジュリエット』を含めた数々のラブストーリーを背負って物語が展開されるのだ。そんな物語は、ジュリエットとロミオの子孫・古泉との恋愛へと結実し、5世紀という長い時間をかけて2人の純愛はようやく完結する。ロロのボーイ・ミーツ・ガールには、愛のために苦悩し、好きという気持ちを大声で伝え合う直情的な人物が登場する。現代のロミオが床下からロープを伝って高いイントレ上に立ったジュリエットの元に向かう場面は、これまでの試みが劇場の大きさにも見合ったスケールアップが施されたと言えよう。原作で死ぬロミオとジュリエットが再び出会い直す展開はいつものように青臭いが、私はこれまでの作品よりも好感を持った。

 その理由は、ロザラインを準主役級の重要な役どころに据えた点にある。当初はロミオに見初められ愛されながらも、ジュリエットが現れた途端に彼女は相手にされなくなる。ラブストーリーが紛失し忘れ去られたらしい世界にあって、『金色夜叉』『東京ラブストーリー』『タイタニック』『タッチ』『うる星やつら』といった物語をラジオ番組にリクエストするのは彼女だ。すなわち物語は、ロザラインからロミオへの果てしなく長い片思いでもあるのだ。ロザラインはロロの舞台でヒロインを担ってきた望月綾乃が演じるが、この舞台の主役はやはりジュリエット役の後藤まりこである。望月は5世紀経ってもロミオのことを一途に思う女性として2幕で重要な役割を担うものの、1幕ではほとんど出番がない。だが振り返れば、台詞のある出番は少ししかないが、ロザラインは舞台の物陰からずっとロミオのことを双眼鏡で覗いていた。1幕はその後のロザラインにとってのフリでもあったのだ。この舞台がこれまでのロロの作品よりも好ましいと感じられたのは、何もボーイ・ミーツ・ガールの題材として最適な『ロミオとジュリエット』を、恋愛劇史と絡ませて感動を増幅しているからではない。その裏で、ようやくロミオの前に出てきたのに姿さえ認識してもらえない、孤独なロザラインの存在があったからである。ロザラインは世紀を超えて大恋愛を成就する人物と位相の異なる、寂莫たる自己存在を抱える存在だ。

あうるすぽっとプロデュース『ロミオとジュリエットのこどもたち』 原作=ウィリアム・シェイクスピア、訳=松岡和子、ドラマツルク=柏木俊彦、米谷郁子、作・演出=三浦直之(ロロ)、音楽=三浦康嗣(口ロロ) 2014年10月、あうるすぽっと 撮影=青木司
あうるすぽっとプロデュース『ロミオとジュリエットのこどもたち』 原作=ウィリアム・シェイクスピア、訳=松岡和子、ドラマツルク=柏木俊彦、米谷郁子、作・演出=三浦直之(ロロ)、音楽=三浦康嗣(口ロロ) 2014年10月、あうるすぽっと 撮影=青木司

 相手に自分の存在を伝えようと懸命になる行為は、開幕ペナントレースのトイレにこもる身体と通じるものがある。ロミオに存在を認識してもらうために、ロザラインは自らの存在とは何かを突き返されるからだ。自己内省を試みて自らの欠点を自覚し、改善しようとする。それが片思いというものだ。それは、腹痛時に自らを省みて神に懺悔する行為と良く似ている。ここで、開幕ペナントレースの本筋が効いてくる。つまり、一本糞をひねり出すくらいには健全な身体がなければ、恋愛もできないということだ。恋愛におけるこのような前提条件というものを、2つの舞台に登場する人物から感得させられた。ロザラインもまたジュリエットと同じく5世紀という長い時間をかけてロミオを想っている。あっけなく捨てられ姿が見えなくなるというアイデンティティの喪失に陥りながらも、いじらしくラブレターを書き続けるロザラインの祈りは、ジュリエットと同等かそれ以上に尊い。

 今回『ロミオとジュリエット』が選ばれたことは、これまでの三浦の作劇からすれば自然なことであろう。『ロミオとジュリエット』を踏み台にすることで、確かにこれまでの三浦の筆致が壮大なものへとなった。その壮大さは、健康であることに何の疑いも持たない人物の物語にあるのではない。好意を抱く者と抱かれる者が合致する関係性は、鏡像の自己を愛でるものに等しく、それゆえに自己肯定に終わるしかない。むしろ、その一歩手前にあるロザラインを軸にしたライン—全てが自己の問題として回帰する—が描かれたことによる幅の広がりによってこそ、認められるべきものであろう。

 恋愛することの前提となる自己認識。そのことを三浦はロザラインの存在によって担保したが、開幕ペナントレースは全面的に押し出して表現した。しかも、きれいな一本糞をするために大汗をかいて食料を調達に行くという、文字通り身体的な位相に落とし込んだ。糞を出すことに真剣になる行為が純愛に繋がるという展開は、バカバカしいだけではない深遠な思想が孕んでいるのである。