IDIOT SAVANT   『傾いでいる、筆先に佇てなんていうものだから。つまり、転んでいよう、人生が。』(作・演出・振付:恒十絲) (C) IDIOT SAVANT
IDIOT SAVANT  『傾いでいる、筆先に佇てなんていうものだから。つまり、転んでいよう、人生が。』(作・演出・振付:恒十絲) ©IDIOT SAVANT

死者の表象:絶望と叙情と

 イディオ・サヴァンというカンパニーがある。名前の由来でもある「イディオ・サヴァン(idiot savant)」とは、知的障害・発達障害を有し、かつ記憶力等の特定の分野に限って驚異的な才能を示す者を指すフランス語だ。このような聞き慣れない用語をカンパニー名に持つ彼らは、2005年の旗揚げ以来、独自の世界を追及している。
 イディオ・サヴァンの舞台を体験すると、主観的抒情の詩的ポテンシャルへのこだわりに驚きを覚える。テキスト、映像、音楽、照明を緻密に構成し、テンションの高い抒情で舞台を満たす構想力は、カンパニー独自のものだ。パフォーマーの感情の表出力も重視されている。この社会を生きることの希望と絶望を表現の問題として観客に突きつける姿勢がある。
 抒情が社会に向かうとき、社会の問題は表現のなかに織り込められ、同じ問題を共有する観客に届く道が開かれる。ここ数年カンパニーは、東日本大震災で亡くなった死者たちに心を寄せている。死んだ人々の想いを、舞台を通して、震災の当事者ではない観客と共有するにはどうすればよいのか。たびたび被災地を訪れながら舞台を作ってきた彼らの表現活動は、この問いかけの具現化であろう。
 彼らは台詞にもとづく近代劇を作らない。俳優が役柄を代理表象するという仕組みで作られている近代劇では、死者は幽霊や幻覚、夢などの、死にまつわる現象として登場したり、死を象徴する行為や場所・物を通して表現されたりする。けれども、大規模な自然災害のように、一人ひとりの生をはるかに凌駕する死が訪れる場合、代理表象では事態を十分に表現できないのではないか。被災地を巡り、その惨状を見た者がおそらく抱くにちがいない伝達可能性への絶望と、にもかかわらず体験した事実を表現しようと自覚する者が必然的に選ぶ抒情とを、私はイディオ・サヴァンの舞台に感じている。

IDIOT SAVANT  『傾いでいる、筆先に佇てなんていうものだから。つまり、転んでいよう、人生が。』(作・演出・振付:恒十絲) ©IDIOT SAVANT
IDIOT SAVANT 『傾いでいる、筆先に佇てなんていうものだから。つまり、転んでいよう、人生が。』 ©IDIOT SAVANT

海と死

 2017年7月7日、第12回シアターX国際舞台芸術祭(メインテーマ「北斎とかぶこう!」)に参加したイディオ・サヴァンは、『傾いでいる、筆先に佇てなんていうものだから。つまり、転んでいよう、人生が。』(作・演出・振付:恒十絲)というタイトルの作品を上演した。彼らは2013年5月末に夜7時から翌朝7時までの12時間公演を四日間連続で敢行したこともあるが(『いのちづたい』作・演出:恒十絲、タイニーアリス)、今回のシアターXでは上演時間は約45分と短かったが、彼らの特徴である、死者と向かい合うことは可能かという問いを舞台で追及する姿勢は明確に打ち出されていた。
 四隅に照明スタンドと奥に小さなベンチが置かれただけの簡素な舞台。冒頭、上下黒いスーツを着た一人の男(近藤康弘)と赤い服を着て赤い傘をさす二人の女(朱尾尚生、新井千賀子)が現れる。昔、自分は絵を描くのがうまかったが、今は海を忘れたと男が語ると、感傷的な音楽が流れ、二人の女の激しいダンスが始まる。国際舞台芸術祭のメインテーマは「北斎とかぶこう!」である。つまりこの男は北斎を連想させ、続くダンスの激しさは北斎の描いた海(たとえば『富嶽三十六景』の『神奈川沖浪裏』の大波)を連想させた。
 イディオ・サヴァンは海にこだわる。それは大地の鳴動とともに津波と化して、たくさんの人々を飲み込んだ海だ。総勢8名のパフォーマーが上下黒スーツ姿で舞台に現れ、激しく動き、客席通路を通って退場する。すると、舞台中央にいた赤い服の女の一人(朱尾尚生)が老婆に豹変し、唸り声を上げ、津波に飲まれた人々の無念の憤りを語り出すのである。突然重々しく響き出した彼女の唸り声は、死者たちの怒りそのものにも思えたほどだ。
 しかし、舞台上のパフォーマーが皆、海を象徴して動くわけではない。冒頭で北斎を連想させた男は、突然その場を動かずに全力でダッシュを始める。やがて汗が吹き出し、息が切れる中、彼は上司から解雇通告を受けた際の憤りを懸命に語り出す。他方、舞台上にはケイタイで淡々とゲームを始める一組の男女がいる。時を超え、怒りそのものとなる老婆、解雇通告を受けた男、ゲームを続ける男女。これらのパフォーマーが舞台に併存するが、互いの関係が打ち立てられることはない。
 けれども象徴としての海は、再び舞台を支配する。赤い服のもう一人の女(新井千賀子)が中央に立つと、数名のパフォーマーが彼女の体をバンドで固定し、そのもう一端を自分の手に握って順に飛び越える。このパフォーマンスの間に、濁流に飲まれた人々へ捧げる言葉が発せられる。巨大な防潮堤への罵倒も聞こえてくる。さらに、照明スタンドを舞台中央の床に集め、その傍らに赤い服の二人の女が身を横たえると、一人は流された女の子となり、もう一人は生き残った母親となる。死者と生者が想いを交わし合う。その会話を混ぜ返すように、東京の人への不満を方言でつぶやきながら、散らかった舞台を片付け始める男がいる。
 やがて女の子は老婆に戻り、他のパフォーマーたちが彼女の周りを全力で走り始める。老婆は泣きながら怒りを吐き出し、ついに倒れると、雨音が高まり、北斎を連想させた男が赤い傘と親子という題名の絵を描いた体験を語り、照明を消す。彼が描いたというこの絵こそが、ここで演じられたパフォーマンスの原風景なのだろう。
 再び照明が点くと、舞台上にはパフォーマーたちが倒れており、舞台奥のベンチに赤い服の二人の女と北斎男が気だるく座っているのが見える。何か決定的な出来事が起こり、人々は倒れ、すべての者が死んでしまったという風に。

死者と向きあう

 ここで強調したいのは、東日本大震災で亡くなった死者たちと表現を通して向き合う彼らの姿勢である。イディオ・サヴァンは近代劇の代理表象に依るよりも、詩的世界の構築を目指す方向に可能性を見出し、死者の言葉を舞台に響かすための方法を探っているように思う。絶対的な存在である死者を演劇の代理表象で演じることはできないという判断があるのだろう。そのため舞台は抒情に染め上げられる。
 イディオ・サヴァンは、かねてより三陸/震災/津波/死という主題にこだわってきた。2016年2月24日~2月28日まで日暮里のd-倉庫で上演された『手で触れられるくらいの鈍い空と 遠くに聴こえる潮音を哀しみが示すのならば かもめの眼ざしが飛びつかれてしまうまで 海が泣きだすなんて知らなかったんだ』(作・演出・振付:恒十絲)では、彼らが三陸沿岸で撮影した映像が舞台後方のスクリーンにいくつも投影された(今回の『傾いでいる・・・・・・』は別だが、もともとこのカンパニーは映像メディアを多用するのが特色なのだ)。そのなかには木の伐採の仕事をしていたり、道を歩いていたりする現地の人々が映っているものがあった。そこへ突然パフォーマーたちが現れ、道端や橋のたもとなどで奇妙な跳躍やダンスを始めるのだが、人々は何となく彼らを意識しつつも、普段通り仕事をしている。このような映像には日常と非日常を併存させようという意図が感じられる。そこがまさに三陸沿岸であることを思えば、パフォーマーたちのダンスは死と向き合う非日常への跳躍でもあった。彼らはこのような跳躍を、映像の中で示したのみならず、舞台上でも反復したのだ。
 劇場は私たちの日常世界の中に存在している。パフォーマンスには終わりがあり、抒情は永遠には続かない。シアターXの舞台に招喚された非日常世界の老婆は、物憂げにゲームを行う若者たちや解雇通告に苦しむ男と併存し、相対化にさらされる。死者である老婆が絶対的な永遠にいたることはない。
 もし永遠というものが存在するとすれば、そこには死者が憩っているのかもしれない。抒情は永遠を垣間見せてくれるが、そこでの「永遠」とは、あくまで詩が喚起する主観のなかに想起されるものに過ぎないとも言える。しかしイディオ・サヴァンはあきらめない。こうした彼らの、死者と向き合う粘り強い姿勢を通して、すべてが絶望に覆われているわけではないことが実感できると私は感じている。たとえば今回の短い公演中の一シーンに、死の世界から舞台に招喚された老婆が津波にさらわれた女の子になり、私たちの世界に生き残った母親と言葉を交わす場面があった。この世界が絶望に覆われていくことに納得できない私は、ここに希望を感じる自分に気づいていた。