シアター・クリティック・ナウ 2022――太田省吾を未来形で受け継ぐ
シアター・クリティック・ナウ 2022
第27回 国際演劇評論家協会(AICT)演劇評論賞
受賞記念シンポジウム
「太田省吾を未来形で受け継ぐ」
【日時】2022年7月24日(日)
【会場】座・高円寺 けいこ場1(地下3階)
《パネリスト》
西堂行人(演劇評論家、明治学院大学教授)
岡本 章(演出家・俳優、錬肉工房)
笠井友仁(演出家、エイチエムピー・シアターカンパニー、近畿大学講師)
柴田隆子(シアターアーツ編集代表、専修大学准教授/司会)
■『ゆっくりの美学――太田省吾の劇宇宙』がつむぐ太田省吾との対話
【柴田】本日は、西堂行人さんの『ゆっくりの美学――太田省吾の劇宇宙』の第27回AICT演劇評論賞受賞を記念して、この本を中心に「太田省吾を未来形で受け継ぐ」と題しシンポジウムを行いたいと思います。西堂さんは22年前にも『ハイナー・ミュラ―と世界演劇』で第5回AICT演劇評論賞を受賞しています。このシンポジウムでは、2つの受賞作で扱われている二人の演劇人に造詣の深いパネリスト、岡本章さんと笠井友仁さんをお招きし、演劇革命の系譜と21世紀に続く未来形としての演劇革命について語っていただきます。
まずは、お二人に『ゆっくりの美学――太田省吾の劇宇宙』についての感想を伺いたいと思います。
【岡本】今日の記念シンポジウムは、「太田省吾を未来形で受け継ぐ」というタイトルで、太田さんの仕事、そしてハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を手掛りに、演劇の今後のあり方を考えるという大きな課題です。大変ですが重要な問いであり、僕も演劇の現場に携わっていますので他人事ではないわけで、皆さんと少しでも探り、捉え直し、考えてみたいと思っています。
それで今回の受賞作、西堂行人さんの『ゆっくりの美学――太田省吾の劇宇宙』についての感想なんですが、非常に面白く読みました。太田省吾さんの長年にわたる演劇作業の核の部分が明瞭に浮かび上るとともに、西堂さん自身の思索の深まりの軌跡が見えてきて、いろいろと刺激や示唆をもらいました。今回の著作は、西堂さんがこれまで書いてきた、太田さんに関する論考、劇評、対談などがまとめられたもので、そのことが上手く活きていた。もちろん書き下ろしの評伝、論考という方向もありますが、こうした長期間の試みの集大成という形をとることで、太田さんの仕事の全容が多面的に照らし出され、厚みを持って展開されていると思いました。
それとともに何より興味深かったのは、実際に対談も含まれていますが、全体が太田さんの仕事と西堂さんの間での粘り強い対話になっていることでした。非常に重要な問題だけれど、普段抑え込まれ、見えなくなっている〈わからない〉ものへの探求がスリリングで、こちらも引き込まれ、一緒に思考していた。それが可能だったのは、太田さんの演劇作業が、例えば晩年の著作『なにもかもなくしてみる』の中で、〈目明き〉と〈盲目〉や〈能弁〉と〈訥弁〉、そして〈わかりやすさ〉と〈わからない〉という形で対比し、自分の仕事は後者に力点があると述べているんですね。だからこそ、太田さんと西堂さんの間の共同作業、対話が可能になったんだと思います。
それとともに、西堂さんも「あとがき」で書いているように、現在のコロナ禍で、この『ゆっくりの美学』という著作の刊行は、時宜にかなったものだと思います。コロナ禍で、これまで当たり前にしていた様々な問題が露呈してきて、問い直さざるを得なくなっている。まさに『ゆっくりの美学』の「ゆっくり」の大事さですね。太田さんの長年の演劇作業には、我々の普段の前のめりの姿勢ではなく、一度立ち止まって事態を根底から捉え返してみる根源性がある。そして、そこからアクチュアリティも浮上するわけで、西堂さんのこの著作から、そうした根源性とアクチュアリティの課題が見えてきて、刺激を受けました。そんな感想を持ちましたね。
【笠井】大阪を中心に演劇活動を行っている劇団、エイチエムピー・シアターカンパニーの笠井友仁と申します。劇団名の「HMP」は「ハムレットマシーン・プロジェクト」の略で、わたしが近畿大学在学中に西堂さんの授業でハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』を知り、どうしてもこの戯曲を上演したいと思い、同学年の学生を中心につくった研究会が劇団の母体になっています。当時、西堂さんたちが行なっていた「ハムレットマシーン・プロジェクト(後に、ハイナー・ミュラー・プロジェクト)」、略して「HMP」から名前をいただき、当初は劇団名を小文字で「hmp」と名乗っていました。今日は会場に多くの大学生が来ているように思います。わたしも皆さんと同じくらいの頃、もうだいぶ昔のことになってしまいましたが(笑)大学3回生で『ハムレットマシーン』の研究会をはじめ、4回生になって初めて演出を担当するようになりました。そのさいに演出した演目が『ハムレットマシーン』です。
太田省吾さんには、2回生まで演劇を教えていただきました。学生のみなさんから見れば、自分はもう若くはありませんが、みなさんのためにも「未来形」で太田省吾を受け継いでいきたい。今日はそんな話ができたら嬉しいです。
西堂さんの著書を読ませていただき、太田さんの作品、そして太田省吾さん自身の姿がよくわかりました。とくに太田さんとの対話の中で、太田さん自身が幼少期からの出来事を語っており、そこから太田作品の背景を探ることができます。また本を読んでみると、西堂さんの演劇に対する考え方や演劇論の多くが太田さんとの対話によって生まれたものであることに気づかされ、太田さんとの対話がいかに大切だったかをこの本で知りました。ですから、太田さんと西堂さんにとって大変に重要な本だと思います。
【柴田】ありがとうございます。お二人のお話を受けて、西堂さんいかがでしょうか?
【西堂】近畿大学には太田省吾さんに呼んでいただいて、1998年から勤めることになりました。当時の近大は実技中心のカリキュラムだったため、学生はあまり座学を重視していなくて、結構、戸惑いました。ここにいていいのだろうかと、最初の一年はかなり悩みました。それが解消できたのは、今、笠井さんが言われたように、学生との付き合いが生まれたからです。授業では手応えがなくても、実はいろいろ考えていることが、笠井さんらと話すことでわかってきました。それで、1998年から18年間も近畿大学に勤められました。関西という場が僕の水にも合ったのか、とても気持ちよく過ごしました。
先週、『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本家の大江崇允さんを明治学院大学にお呼びしてトークをしたのですが、彼は20年前の近大の卒業生です。大学で学んだことを映画創作にどう活かしたのかを語ってもらったのですが、彼の学生時代の僕の記憶は、『ハムレットマシーン』の話がすごく豊かで楽しかったということでした。例えば「世界演劇史」の授業でキーワードとしてハイナー・ミュラーを使っていたんですね。僕がやってきたことはそういうことだったんだと改めて認識しました。
2000年代初頭はハイナー・ミュラーについて、学生たちと4~5時間ぐらい普通に話し合っていました。近大の演劇専攻ではミュラー指数はきわめて高かったですね。その中で太田さんのエッセンスも発見していったという気がしました。
僕が太田さんの『小町風伝』を観たのが1977年の1月で、大学の3年生の時です。この大学3年というのは、僕の演劇人生にとって演劇元年のような年で、紅テントや黒テント、天井桟敷や早稲田小劇場など、現代演劇の主だったものを一通り観て、更に流山児祥や山崎哲ら後続世代の舞台も観ました。それで『小町風伝』で何かトドメを刺されたという感じがしました。初めて『小町風伝』についての批評を書いたのが1979年の1月――実際に書いたのは78年ですが――事実上、僕が演劇評論家を志して最初に書いた劇評が『小町風伝』だったと言っても過言ではないです。それから四十数年間、断続的にですけど、太田さんに付き合いながら、個々の舞台について見続け、書き続けていった。それは途切れぬ線のように続きながら、ときどき大きなピークがあったり、あるいは転形劇場の解散劇など非常にショッキングなことがあったり、湘南台市民シアターの芸術監督での仕事があったりしました。
近畿大学に来た翌年の1999年、湘南台市民シアターで「日本の演劇 1909―1999」という大がかりなシンポジウムをやりました。これは太田さんが湘南台で最後に企画したイベントだったんですけど、その時に僕は司会で太田さんのお手伝いをさせてもらいました。そんなことが走馬灯のように蘇り、僕の四十数年間の演劇人生の節目節目に、太田さんの作品やイベント等、折に触れていろいろなものが投影されていたんだということがわかりました。
例えば、2012年に両手を骨折するという僕の人生にとっての最大のピンチがありました。そのピンチの時に悶々としながら考えていたのが太田さんの作品だったんです。自分の危機的な状況の中で、どうやったら解決できるかを探っていた時に、太田さんの作品が不意に浮かび上がってきた。危機的状況と太田作品は呼応しているんです。
『小町風伝』の老婆のモノローグ、内的対話というものがありますが、実は僕の母親が亡くなる頃に見舞いにいくと、ほぼしゃべれないんです。しゃべれないけど、この人は何を考えているのか、まったく何も考えていないわけではないだろう、と思ったときに、『小町風伝』の老婆のことを思い出しました。歳を取って、もう死を間近にしているけれど、実は頭の中でいろいろなことが鮮明に渦巻いているのではないか、と。母親を見たときに『小町風伝』を思い出すというのは、奇妙な連想かもしれないけれど、人生の折々の中で太田作品の体験が沸き上がってくるんです。太田さんの作品というのは、すくってもすくってもすくい切れない深みと示唆に富んでいる。それを通じて『小町風伝』を改めて読み直してみると、人間がすべて流されていくということを、まるで他人事のように語っている老婆の台詞があります。実は、東日本大震災、あの津波の大災害が太田さんによって予見されていたのではないかと思うんです。その意味でも太田さんは、何回も何回も立ち返って考えてみるに値するすごい作家だったのではないかということが、この本を集大成してみて感じるところです。