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■挿入と切断――『水の駅』と『ハムレットマシーン』

【西堂】今思い出したのが『水の駅』の冒頭のシーン。芝居が始まるとトロトロと水が流れている。そこに一人の少女――安藤朋子さんが出て来て、コップをゆっくりと差し出した瞬間に、ダッーと耳に残っている音が一瞬消えるんですね。だいたい測ると17秒くらいなんです。この17秒間、劇場にいた僕らは息を止めるんです。皆、一斉にその時間だけ息を呑んで、17秒間を体験する。それでコップに水があふれると、また水が溢れ出し、時間が戻ってくる。あの17秒間というのが、何とも言えず――まさにそこが沈黙なんですね。そこでいろいろなことが考えられる間が出来て、想像されていく。これこそが太田さんの仕掛けだと思います。

 日常に流れている時間をいかに断ち切ってみせるか。これが20~30秒だと息を止めるのが困難なので、あれが適切な時間です。経験的にそれをやったのかはわからないですけど、コップの容量に水が溜まるのが17秒ぐらいとすると、そこで本当に世界が変わって見えてくる。それが『水の駅』を観たときの衝撃で、40年経った今の学生たちも、その場面で息を止めます。ここに変わらない不変性があるんじゃないかと思う。

【岡本】私も演出をしているのでよくわかりますが、『水の駅』のあのシーンは本当に上手い仕掛けだと思いますね。それまでは、流れ落ちる水の音が現わしているような、持続する時間の流れがずっとある。そこにコップを差し出すことで切断が入るんですね。そして、そこにもう一つ違った時間の相が立ち上ってくる。ある種の「永遠の今」のような根源的な時間が演者とともに立ち上ってくるんですね。時間の持続が切断されることで、もう一段深いところで繋がってくる。そういう仕掛けを、我々は見える形で行なわなければならない、それが演劇ですからね。

 そうした仕掛けを太田さんは工夫してこられた。評論やエッセイで書くこともあるでしょうが、実践として現場でそれをどのように現前させることが出来るのか、何よりそれが大事だと思いますね。ハイナー・ミュラーのテクストのあり方にも、そのような問題、工夫、仕掛けがあると思います。

【西堂】時空間性に楔を打ったということですね。笠井さんが紹介してくれた『ハムレット/マシーン』は1990年6月に、ドイツのフランクフルトで上演されたもので、上演時間7時間半の舞台を僕は2日続けて観ました。これ以上の作品をこれから観られるだろうかというぐらい大きな体験でした。その中ですごく衝撃だったのは、『ハムレット』が4部構成になっていて、その3部に『ハムレットマシーン』が挿入されていることです。『ハムレットマシーン』はたった30分ぐらいで、あと5時間は『ハムレット』の上演です。けれど、この30分の挿入により、今までハムレット劇だったものが、ガタガタっと揺さぶりをかけられるんです。つまりスパイスが一つ挿入されることによって、従来あった劇がガタガタっと内部から変わっていく。これがハイナー・ミュラーのある種のドラマトゥルギーだと思うんです。

 これは『ハムレットマシーン』というテクストをただ上演すればいいというものではなく、それをどういう仕掛けの中に入れるかということがすごく重要なんじゃないかと思います。僕は「ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド」というフェスティバルを2002年と2003年に、金沢と東京で企画しました。その時に、皆どこにこのテクストを挿入するのかにすごく腐心していました。

 この方法はいろいろな演劇に使えるんじゃないかと思う。例えば、野村萬斎が上演した『マクベス』――僕はこれを優れた『マクベス』だと思い、当時編集長をやっていた『シアターアーツ』に上演台本を掲載をしました――にはいろいろなものが入って来るんです。そのことにより従来の『マクベス』が読み換えられていく。台詞を書き換えるということではなく、そういうスパイスが入ることによって、演劇自体の文脈が完全にずらされていく。僕はこれを「マシーン劇」と呼びました。

 笠井さんが昨年上演した『マクベス』は今まで観た『マクベス』の中で一番面白かったですね。笠井さんの相棒として、上演テクストを作ったのは劇作家のくるみざわしんさんですが、これほど踏み込んだ『マクベス』をこれまで観たことがなかった。くるみざわさんから話を聞くと、ハイナー・ミュラーの『マクベス』をすごく利用したと言っていました。

【笠井】昨年、エイチエムピーシアター・カンパニーで、『マクベス』を改作して『マクベス 釜と剣』(伊丹市のアイホール)というタイトルで上演しました。リーアン・アイスラーという学者がいまして、この人のジェンダー問題を扱った著書『聖杯と剣』から「釜と剣」というタイトルを取っています。「釜」は女性の、「剣」は男性の象徴になります。釜を扱う魔女たちが、剣を扱う男性社会にいかに立ち向かうかという問題を、『マクベス』のあらすじに少し手を加えながら作品を作っていきました。

 そのさい、劇作家のくるみざわしんが『ハムレットマシーン』を書いたハイナー・ミュラーの視点を借りて改作したと言ってもいいかもしれません。つまり『ハムレットマシーン』がどういうプロセスで、どんな思いで書かれたのだろうかということを考えながら、くるみざわさん自身が感じたことを『マクベス』に投影していった。そのような形で書かれた作品です。

【岡本】1990年に上演された『ハムレット/マシーン』は、『ハムレット』の上演の中に、『ハムレットマシーン』が挿入されるのですが、これはそこに切断が入って、作品世界に斬新な接合と変容が起ったわけですね。ここでも切断の仕掛けの意味が浮かび上ってきます。先ほど太田さんの沈黙劇にいたる演技やテクストの格闘の作業、プロセスの話をしましたが、それはハイナー・ミュラーも同様だったと思います。

 ヨーロッパの、アリストテレスが『詩学』で理論化したドラマ演劇の重い歴史を背負い、それと格闘しながら同時に、東欧の体制の中で上演中止や除名処分を受け、追い込まれ、古典の翻案作業をする過程で、『ハムレットマシーン』が創り出されたわけで、この中にも徹底した政治、歴史、演劇の枠組みの問い直しの作業、プロセスがあったと思われますね。あの独自のテクストの仕掛け、発明、発見には、ドラマ演劇の歴史、そして世界に繰り込まれた自己の存在のあり方にも刻々切断が入るような、そうした格闘の作業がそこで行なわれていたはずです。

 ここで、太田さん、そしてハイナー・ミュラーの演劇の仕事について考えてみた時、どちらの世界にも根源性とアクチュアリティがあると思うんですよね。それで太田さんの作業の場合は、『更地』がいい例ですけれど、日常生活の場面の中で、突然白い布が運び込まれ、舞台全体を覆い尽くしてしまう。そこで切断が入って、社会的な存在、世界が一度無化されて、本来の無一物であるような根底の生命的な存在、身体に戻っていく。それはある意味でタテ軸、垂直軸というか、そこで脱自の根源性が大事にされているのですが、同時にそこから現実世界が照らし返され、アクチュアリティも生じてくる。

 一方、ハイナー・ミュラーの場合は、ヨコ軸、水平軸というか、歴史の流れ、政治や社会状況が色濃く反映されたテクストで、強いアクチュアリティが感じられます。しかし、そこに刻々切断が入り、揺さぶりがかかることで、空無化、冷えの果ての「熱」、非業の死者たちの声、視線も届いてきて、ある根源性が浮かび上ってくる。太田さん、ハイナー・ミュラーのどちらにも、独自の根源性とアクチュアリティがあって、それは言うまでもなく、長期間にわたるプロセス、演技やテクストの徹底した格闘の作業がそこにあったから生じたのだと思います。そこから、それぞれの仕掛け、方法が発明、発見されてきた。だから、例えば太田さんの「ゆっくり」の演技や「沈黙劇」をやる人がいるかもしれないけれど、それを一つの手法として、アイディアとして使ってしまうと違うと思いますね。やはり、それは格闘の作業のあり方、プロセスをこそ学ぶべきで、すると、そこから思いがけず新しい仕掛け、発見も生み出されてくる可能性もあるはずです。

【西堂】ハイナー・ミュラーはギリシア悲劇からシェイクスピア、近代古典、そういう演劇史というものを背負い込んでいる。その中で何がどう出来るかということを1977年の『ハムレットマシーン』という作品で問うた気がするんです。そこを垂直に掘っていくとギリシア悲劇、シェイクスピア、イプセン、チェーホフ、ブレヒト…… さまざまなものが実は組み込まれている。短いテクストなんだけど、ものすごく勉強しないと読み通せない。だから、従来の手法ではとても太刀打ちできないんです。

 太田さんの場合、彼の作品にも歴史的なまなざしというのが実はあると思う。それは近代史だけを捉えてみても、例えば『小町風伝』などにも、昭和に対する庶民の側から見た批判というのが随所に取り込まれている。より深く言えば、近代史だけでなく、もっと人間の大きな歴史の中で捉えられることを太田さん自身が望んでいました。例えば、カントールの『死の教室』は、ポーランドでアウシュヴィッツの歴史に対抗して創られた作品ですが、彼らが評価されているのは、歴史的な過去を非常に抽象化した形で出来上がっていることです。太田さんも同じまなざしで創っていただろうと思います。震災に関する彼のエッセイでも、阪神淡路大震災の時に関東大震災について書かれたものを想起しながら、関係づけて論じている評論もあります。

 そういう歴史の中に人間が置かれ、否応なく巻き込まれざるを得ない。その中で何ができるのかということを、実は彼はすごくシンプルな形でやったのではないか。だから太田さんは「普通であること」が一番難しいということを言われているんだと思う。一見何もないようなことの裏側に、膨大な、先ほどの岡本さんの言葉を借りれば、非業の死のうめきみたいなものを聞き届けていたのではないか。そういうものを一切おくびにも出さない感じで表現のところでやっているから、二重構造ですよ。ものすごく手ごわい作家です。

 太田さんのそういう思想を体に溜め込んでいないと、とてもじゃないけれど太田作品はやれない。『水の駅』も『更地』も、ちょっとしたアイディアでやろうとしたら失敗してしまう。最近上演された太田作品の中でも、やはり手法として、あるいは太田さんをちょっと摘まんでやったものは、手ひどいしっぺ返しを食らっていると思います。

 今回のシンポジウムのタイトル、「太田さんを未来形で受け継ぐ」としたのは、単に太田作品の上演回数が増えればいいということではなく、太田省吾的な思考の一番根元にあるエッセンスというものを取り出すということです。別に太田作品を使わなくてもいいんです。それはさっきのハイナー・ミュラー作品の「マシーン」と同じように、演劇を考えていくときの非常に有効な武器に成り得る――そんなことを考えています。

【笠井】太田さんの作品とミュラーということを考えてみると、先ほど岡本さんがおっしゃた切断――この切断を岡本さんに確認したいんですけど、つまり切断した結果、何と繋がるための切断ということでしょうか?

【岡本】そこが難しいところで、繋げようと思った「切断」は駄目なんです。図らずも繋がっていかなきゃ駄目なんですよね。『水の駅』でふっとコップを差し出すあのシーンでも、あれを型としてやっても、またこれで集中させようと思ってやっても駄目なんですよ。これは難しい。誰でもあの仕掛けがあれば出来るわけではなくて、かなり深い集中と呼吸の自在なコントロールがいるんですよね。だから、安藤朋子さんはやはり上手かったんですね。

【笠井】そのような意味で言うと、太田さんの作品づくりにしても、ミュラーの作業にしてもやはりプロセスというか、過程を非常に重要視していて、結果を期待しない。過程を積み上げたら結果は出てくるだろうという思いはあるかもしれません。しかし、結果を望むわけではない。過程をどのように積み上げていくかという意味では、『ハムレットマシーン』を上演するための創作と、太田さんの作品を創り上げていくプロセスは非常に似通っているんじゃないかと思います。

【岡本】その通りだと思いますね。結果を狙って作り上げてしまったら、それは近代劇的な方向なんですよ。やはりプロセス、過程が大事で、そのような作業の仕方、そして演技や身体のレヴェルの様々な工夫が必要なんですね。太田さんもハイナー・ミュラーもそこで格闘していた。現在、そこがどうも見えなくなっている気がしますね。

 僕はこれまで他の現場の作業について、あまり語ってきませんでしたが、それは、自分の舞台の仕事で具体的に示し、批評していけばいいと思ってきたからです。ただ今日は、「未来形で受け継ぐ」ということですので、少し話してみますと、僕も自分より若い世代の期待している人々の仕事は観るようにしています。先ほど西堂さんが言っていたように、残念ながら、太田さんやハイナー・ミュラーの仕事が、手法やアイディアとして使用されていることが多いと思います。やはり、一度<わからない>ところに飛び込んで、自前で格闘する必要がある。

 80年代末に転形劇場が解散する際の記者会見で、太田さんは、「今は機嫌のいい芸能ばかりがはびこり、芸術は壊滅した」とおっしゃっていますが、現在はもっとそうかもしれない。もちろん、啓蒙的なもの、物語性のあるもの、また娯楽的な作品などいろんな演劇があっていいと思うんですね。ただ、そればかりになってしまうと演劇は確実に衰退していく。〈わかりやすい〉ものだけではなく、自明性となっている演劇の枠組みを、根底から問い直すような試み、そのような〈わからない〉方向の作業、演劇も一方で重要なはずです。太田さんもハイナー・ミュラーも、そうしたところで踏ん張って、格闘していたと思います。