シアター・クリティック・ナウ 2022――太田省吾を未来形で受け継ぐ
■否定性の先にあらわれる楽天性
【柴田】ありがとうございます。危機的状況と太田さんの作品が呼応しているというご指摘は、岡本さんのいう根源的でアクチュアルな問題にも続くお話かと思います。この部分をもう少しお話いただけますか。
【西堂】太田さんはいつでも最悪の事態や危機の時代を想定して作品を創作しているんですね。なので本当にその事件が起こった時に、ほとんど動じない。阪神淡路大震災の時に太田さんは関西におられて、実際に被災されているわけですが、あらかじめ自分の中にそういうことがあり得るということを織り込み済みだった。だからそのことについての対応策も作品の中で書かれている。
『更地』は1992年に書かれているんですが、そこに出てくる中高年の夫婦は寝間着姿で出てくるんです。なぜ寝間着姿で出てくるのか、最初は気づかなかったんですけど、震災を経験してから振り返ってみると、もしかしたらそういう大災害があった後に、食うや食わずで投げ出された夫婦が、過去のことを――逆に未来のこと――を回想しているんじゃないか。そんなことを考えると、つねに極限状況の中の人間の在り方というものを自然体で彼は語っていたんではないか。そのことを改めて感じます。
【柴田】岡本さん、今の西堂さんの発言を受けまして、いかがでしょうか?
【岡本】そうですね、震災やコロナ禍といった、思いもかけないことが起こるわけですよね。その時にそれとどのような関係を取るのかということが、毎回、問われているわけです。思いがけないことが起こると、どんな人もあたふたするし、先にも述べたように、当たり前にしていたことがもう一度問われてくる。そのことをちゃんと受け止めて問い直していくと、思いもかけない発見も出てくるのではないか。
このところのコロナ禍の状況で、僕も実害があって公演が中止になりました。いろいろなところで皆さんも格闘されてきたと思います。そういう中で、当たり前にしていた社会や政治のシステムの不備などが露呈し、そして何より一番大きなことは「死」。多くの方が亡くなり、あからさまに、普段は見ないようにしている自身の「死」という問題が日常の中で露呈してきた。これはあたふたしますよね。いつか死ぬということは皆わかっているけれども、そのことが身近に迫ってくる。この「死」の問題はからだ、身体の問題で、そのことが浮き彫りになってきて問われている。
演劇がコロナ禍で大きな被害を受けたのは、生身の俳優と観客の間で何事かが起こる、という「出来事性」がその基本構造としてあるからですよね。身体の問題は、「生老病死」、病や死と繋がるもので、我々を躓かせるものであるとともに、一方で存在の基盤、根底でもある。震災やコロナ禍といった危機的状況は、我々を躓かせるとともに、その事態をどう受け止めるかで、同時に存在の基盤、根底のあり方に戻し、気付き、生き直す回路がそこに生じてくると思うんですね。
先ほど、西堂さんが太田作品は危機的状況と呼応していると言われたけれど、太田さんの演劇の仕事には、危機的状況の中で、単にあたふたするのではなく、躓きながらも本来の無一物であるような存在の、身体の基盤、根底に戻る回路があるんじゃないか。コロナ禍の最初の頃は、「不要不急」と盛んに言われましたよね。そこで演劇がなぜ必要なのかということが問われた。その中で普段の経済優先の「必要至急」とは違った物差し、尺度としての演劇の意義や価値、可能性が問われ、浮かび上ってきたと思うんですね。二項対立ではない、要でも不要でも、急でも不急でもない行為、演劇のあり方、価値。
太田さんはずっと、普段当たり前にしている演劇のあり方を根底から捉え直し、そして深い身体性の回路を探求されてきた。そして、危機的状況の中で躓くと同時に基盤、根底に戻る、根源的でアクチュアルな回路を見出したのではないか。その作業の究極の一つが、ゆっくりした緩慢な動きであったり、「沈黙劇」にまで行くわけです。そうした身体の徹底した探求の作業の成果として、あのような様式――形式と言ったらいいのかな――が発明、発見されたのだろうと思いますね。
【柴田】ありがとうございます。笠井さんは、いかがでしょうか?
【笠井】太田さんの作品について私が思うのは、2014年に金沢で太田省吾さんの作品を朗読するという企画がありまして、『更地』も演出させていただいたんですけど、その中で提案があり、太田さんの戯曲集の中から男女のシーンだけ抜き出して、オムニバスの形にして朗読劇にしたものを上演したんです。その際に、『更地』もそうなんですが、夫や妻など男女のシーンを見ていくと、男女に対するユーモラスな目線が見えてきた。しかもそれがどこか温かいところがあるんですね。この温かさというのが、燃え上がる炎のような温かさではなくて、人肌のような、36度ぐらいのような温かさなんです。
そこまでは温かくもないし、冷たくもない。確かに手で触るとそこにほんのり温かさが残るような感触を戯曲から得たんですが、その温かさがどこから来るのかということをずっと考えていました。そこで西堂さんの本の中で、こういうこともひょっとしたら関係あるかも知れないと思いました。
それは太田さんと西堂さんの対話の中で、太田さんが幼少期の頃、中国から引き揚げて来た時のエピソードを語っているところです。これは『更地』の「なにもかもなくしてみる」に繋がると思うんですけど。この本の中で、太田さんが引き揚げの体験を振り返りながら、「引き上げの体験は今考えてみると、二つの面があるような気がします。一つはとにかく手にしているものを手放す、なくなってしまうということ。しかし一方では、こういうふうにして始まった少年時代というのは非常に楽天的になりますね。何とかなるんだ、全部捨てても何とかなるというような楽天性がある。」と語っているんです。ひょっとすると太田さんの幼い頃の体験というものが、人に対するまなざしに大きな影響を与えたんじゃないかと思う。それが太田さんの作品にやはり影響しているのではないかと思うんです。
【西堂】そうですね、引き揚げた体験の話にある、どんどん捨てていく――太田さんの中には引き算の思想というものがあると思います。いろいろな要素を削り落として、本質だけを残していく。それは「裸形」という言葉に集約されていくと思うんですけど、同時にそのように失くしていく中で、楽天的になっていく。その楽天性を僕は注目したわけです。
エッセイにも「楽天性」という言葉を挙げていますが、これは太田さんが結婚を決意したときの話です。親に反対されながら結婚した時に、先行きの見通しが暗い。その時に、原稿依頼が来た。1枚1000円で5枚の原稿だから、たかだか4000~5000円ぐらいにしかならないけれども、その時に「ほうら、上手くいくだろう」って。それはおそらく奥さんに呼びかけたと同時に、自分にも呼びかけていったのではないか。この楽天性というのが、太田さんの持っているユーモラスさというか、何とか生きていけるよ、もっと苦しまずに楽天的に生きていこうよ、という呼びかけであったんじゃないか。
2000年代に入る手前に、僕は世田谷パブリックシアターでさまざまな企画に関わっていて、その時に太田さんに5回の講座を頼んだことがありました。そこで太田さんは、「新しい祝祭劇」をテーマにしたいと言われた。祝祭劇とは何だろうと思いましたが、楽天的にものを見ていく、ある種の前向きなパワーというようなものが、彼自身の人生哲学だっただろうし、絶望を見ながら、楽天的にものを考えていこうというのが一つの姿勢だったと思いました。それが他人に対する人肌の感覚だったんじゃないかと思います。笠井さんの話を聞いていて、そういう優しさのまなざしは、太田さんの幼少期の体験や結婚の頃の問題など、いろいろなことを加味しながら作品に結晶化されていったという気がします。
【岡本】太田さんとは長くお付き合いさせていただきましたので、今、笠井さん、西堂さんが話されたまなざしは納得出来ますね。お付き合いの中で、そうしたまなざしや、ある種の楽天性を感じましたし、それが作品に反映しているところもあると思います。しかし、それとともに大事だと思うのは、具体的な演劇の作業の格闘の中で、それが培われ、さらに深まり、展開していったところもあるのではないかと思うんですね。そうした問題について、太田さんの演劇作業の展開を追いながら、少しお話出来ればと思います。
僕は太田さんの作品は1973年くらいから観ていますが、初期は、割と身体性の強い台詞劇、不条理劇を上演しておられた。また、沖縄という言葉は直接出さないけれど、沖縄についての社会的なテーマを探求するような作品もやっておられて、初期はゆっくりでも沈黙でもなく、一部で熱っぽく語る場面もあったと思います。
その当時、『飛翔と懸垂』という太田さんの最初の演劇評論集が刊行されて、示唆的で、刺激を受けて読みました。そのタイトル通り、飛翔するためには懸垂が必要なわけです。そのことに対するまなざしというは我々の存在が、即、肯定されているというよりも、抑圧の部分に目がいき、ある種の否定性、無化の方向で考えられていた。そして、その果てに飛翔ということがある。それは一つ解放に繋がっていくものではあるけれども、そういう格闘のプロセスの作業がある。
それでですね、太田さんと初めてじっくり話したのは、1977年の『小町風伝』を観に行った時でした。その時太田さんが、上演した矢来能楽堂で、岡本さんの感想や意見が聞きたいということで話しました。僕は1970年代の初めから、能を現代に活かす実践と理論の活動をしていて、太田さんもそれをご覧になっていたので、いろいろ話を聞きたかったんだろうと思います。その時、丁度佐伯隆幸さんも来ておられて、近くの喫茶店で三人でしゃべったことを覚えていますね。
その時話したことで記憶しているのは、舞台の設えの見事さについてでした。能舞台の何もない空間に、様々な家財道具を背負った人々が登場し、いつの間にか舞台中央に、老婆のアパートの一室が出来上るんですね。能では、男の演者が若い女の能面を着ける時に、わざわざ男の顎が少し見えるようにします。普通ならすっぽり被った方が化けるにはいいんだけれど、わざわざ虚構であることを見せるわけです。そうした虚構と現実の二重構造が貫かれているんですが、『小町風伝』では、その二重性が見事に視覚化、空間化されていて、斬新で刺激を受けましたね。
この舞台で老婆は終始無言でしたが、最初は台詞があったんですね。でも能舞台でしゃべってみたらぜんぜん通用しなかった。太田さんは「能舞台に蹴られた」と書いておられるから、そこで演技の作業の格闘、工夫があったと思います。そして、老婆の台詞を内語にすることで、深い集中と強度のある身体性を獲得し、ここで大きな展開をされるんですね。
この『小町風伝』は、展開しながらもまだ『飛翔と懸垂』の演技論の流れの中にあったと思われますが、80年代になっての『水の駅』では、内語で台詞を語らなくても成立するような沈黙の演技、身体性が現出してくるんですね。ここで太田さんにとって、次の大きな展開があった。どうもこの頃から太田さんの書くものの語り口が変ったと思いました。それまでは、ある抑圧があってそこから飛翔していく、という構造があったんですが、先程の楽天性の資質や引き揚げ体験の話に繋がってくるような、ある肯定性の方向に明確に行かれたんですね。それは簡単に行ったのではなく、今話したように、そこにはあるプロセス、演技の徹底した格闘の作業があったはずです。だからこそその肯定は、もちろん、二項対立的な否定の否定からくる単なる現状の肯定とはまったく違ったものですね。大変な格闘のプロセスのある「肯定」ですから、舞台時空にある大きな開かれがあり、存在や生の肯定の方向も説得力を持ってくる。
その後も太田さんの舞台はよく観させてもらいましたし、僕の舞台もご覧いただいてきた。柏のアトリエ公演にも来てもらいましたね。そんな折には、いろいろ話しましたし、カルチャーセンターの講座で対談の機会などもありました。僕が最後にお会いし、じっくり話をしたのは、亡くなられる一年前の2006年の夏でした。当時、今もそうですけれど、前衛とか、実験とか呼ばれている演劇は、厳しい演劇状況にあったから、皆で論じたり考えたりする場、集まりを作りたいという話があって、僕もそこに少し関わりました。それなら是非太田さんにも参加していただきたいと思い、会ってお願いしたんですね。
そうしたら、そのことに興味を持ってもらい、手応えがあり良い感触だったんですが、その時に印象的に覚えているのが、太田さんの当時の演劇状況に対する危機意識でした。〈わかりやすさ〉を重視したある方向の演劇ばかりで、〈わからない〉という方向の演劇の置かれ方は、本当に厳しい状況にある。実験や前衛と呼ばれる演劇は、そうした〈わからない〉ことに繋がってくるわけで、もちろん〈わからない〉と言っても、単に難解であるという意味ではなくて、自明性ではなく、演劇を根底から問い直す視座の必要性ですよね。だから、そうした問題を議論したり、考えたりしていく場が必要だという話を太田さんとしました。残念ながらそうした場、集まりは、足並みがそろわず実現しませんでしたが、その時に、僕の勝手な感覚だけれども、太田さんは何か期するものがあるな、という感じがしたんです。太田さんは次の年に大学を退官された。そういう重責から解放されて違った仕事をしていこうということもあったんだろうと思うんですね。
2000年ぐらいになってからの太田さんの仕事というのは、ヨン・フォッセ(『誰か、来る』)など、他の作家の作品を演出するようになっていたんです。一番最後はベケット(『ある夜―老いた大地よ』)を観世榮夫さんでやっていました。太田さんは、そういう違うところに踏み込んで行こうとしているんだ、止まっていない人だな、ということをその時話しながら思いましたね。絶えず格闘しながら作業しておられた。前衛とか実験というのは、そういうことだと思います。だから、亡くなられたのはすごく残念でした。
【西堂】確かにそれまで自分の作品を改作するということはあったけれど、ヨン・フォッセやベケットなど、いわゆる外国の作品を演出するということはなかったですね。それを初めて手がけたというのは、本当に何か期するものがあって、つまりもう一つ、大きな展開を考えられていたのかなと、今の岡本さんの話を聞いて、改めて思いました。
【岡本】西堂さんの『ハイナー・ミュラーと世界演劇』の中で、太田さんが1990年頃のシンポジウムで、ハイナー・ミュラーの戯曲は、文体自体が濃度が高すぎて、この圧縮度はいまの自分では扱えない、と言っておられたというのが出てきますが、存命ならばその後の作業の中で、ひょっとしたら先々で、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』に挑戦され、踏み出されるようなことがあったのかな、と勝手な想像ですが、そんなことを思ったりしていますね。