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0.はじめに

 2021年9月初頭、富山県南砺市利賀村で「SCOTサマー・シーズン2021」が開催された。開催直前に公演期間が縮小されたものの、昨年に引き続きコロナ禍での「SCOTサマー・シーズン」開催には、鈴木忠志とSCOTの集団的力量と、それに裏打ちされた並々ならぬ覚悟が感じ取れる。今回SCOTは、『世界の果てからこんにちはI』(1991年初演)と、『世界の果てからこんにちはII』(2020年初演)を、初めて連続上演した。これによって、近年の鈴木の演劇的日本人論と言うべき一連の作品群は一応の完成を見たと言ってよいだろう。本稿では、初演から一年が経過した『世界の果てからこんにちはII』(以下『果てこんII』)を改めて読み解くと共に、それによって『世界の果てからこんにちはI』(以下『果てこんI』)を新たな観点から再検討し、コロナ禍という特殊な状況下における鈴木とSCOTの活動の現在的意義を解き明かすことを試みる。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅠ』
構成・演出=鈴木忠志
2021年8月28日(土)、9月4日(土)/野外劇場
劇団SCOT提供

1.反復される「ニッポン」

 『果てこんII』は、『果てこんI』と同様、明確な筋や一貫した状況設定を持たず、複数の独立した場面の緩やかな連関から成る。初演は野外劇場だったが、2021年の今回は廃校の体育館を改装した「利賀大山房」で上演された。舞台上には『廃車長屋の異人さん』(ゴーリキー『どん底』原作、2005年初演)にも用いられていた、スクラップとなった自動車が複数据えられている。各場面を使用されるテクストと歌に基づいて整理すると次のようになる。なお、より具体的な内容については菅孝行『演劇で〈世界〉を変える』(航思社、2021)にも詳しい(若干の変更あり)。

 

I:チェーホフ『三人姉妹』。
松原史明作詞、杉本眞人作曲『紅い花』および吉田旺作詞、杉本眞人作曲『冬隣』。

II:長谷川伸『沓掛時次郎』および『関の弥太っぺ』(初出は2010年初演『新・帰ってきた日本』)。
藤田まさと作詞、遠藤実作曲『旅鴉』および星野鉄郎作詞、中村千里作曲『仁義』。

III:徳富蘇峰『敗戦学校』。
オオガタミヅオ作詞・作曲『こまどりのラーメン渡り鳥』。

IV:梅崎春生『砂時計』(『果てこんI』とは別の場面)および唐木順三「おそれという感情」。
保富康午作詞、猪俣公章作曲『今日の我に明日は勝つ』。

V:イプセン『人形の家』および秩父重剛『忠治、赤城落ち』。
筑紫竜平作詞・作曲『面影しぐれ』および西沢爽作詞、遠藤実作曲『未練ごころ』。

VI:門谷憲二作詞、杉本眞人作曲『別れの日に』。

 

 台詞の中で重要な人名はしばしば「日本人(ニッポンジン)」に置き換えられる。この手法は長谷川伸のテクストを用いた一連の作品(2010年『新・帰ってきた日本』、2011年『新々・帰ってきた日本―「瞼の母」より』、2013年『新釈・瞼の母』、2016年『ニッポンジン―「瞼の母」より』)ですでに用いられているが、本作ではそれがより徹底される。重要と思われる台詞の改変をまとめると、以下のようになる(2021年版上演台本1)SCOT提供。記して謝意を表する。による)。

 

第I場:「人」「文官」「男」「ロシア人」→すべて「日本人」(『三人姉妹』)

「昔の自分」「疲れた自分」→「昔の日本」「疲れた日本」(『紅い花』)

「そこからわたしが…あなたを怨んで」→「そこから日本が…日本を怨んで」(『冬隣』)

第II場:「中ノ川一家の六ツ田の三蔵」→「大和一家の日本のダイスケ」

「沓掛の時次郎」→「中国のハルオ」

「大野木の百助」→「韓国のケンタロウ」

「苫屋の半太郎」→「ベトナムのヨシツグ」

「磯目の鎌吉」→「朝鮮のユウキ」

「親分」→「アメリカの親分」(以上『沓掛時次郎』)

第V場:「あなたは私を立派な女に教育できるような人じゃありません」→「日本はわたしを立派な女に教育できるような国じゃありません」

「夫も子供も捨ててか! …世間が何て言うか!」→「日本の夫を捨ててか! …日本中が何て言うか!」

「夫と子供たちに対する義務」→「夫と日本に対する義務」

「第一にお前は妻であり母親」→「第一にお前は日本人」(以上『人形の家』)

「勘助」「浅太郎」→ともに「日本人」(『忠治、赤城落ち』)

「あなた」→「日本」

「男ごころ」→「日本ごころ」(以上『未練ごころ』)

「二人で生きるしあわせ」→「日本と暮らすしあわせ」(『面影しぐれ』)

第VI場:「大した男じゃなかったけれど…おまえを愛した」→「大した国じゃなかったけれど…日本を愛した」

「俺にしかない歴史といえば おまえと生きたことだけ」→「二人にしかない歴史といえば 日本と生きたことだけ」(以上『別れの日に』)

 

 これほど執拗な「日本(人)」の連呼は一体何なのか? つぶさに見ていくと、キーワードの置き換えという手法の意味付けが作品内で微妙に変化していくことが分かる。第I・II場では、その意味上の連関は比較的分かりやすい。第I場では、『三人姉妹』のヴェルシーニン、マーシャなどによるロシアの後進性についてのやり取りが、「日本人」の未来についての「空想」と現状の生活への愚痴という具合に変化する。第II場では、渡世人沓掛時次郎が一宿一飯の恩義から、時流に乗り遅れ凋落したやくざ者を斬るという筋が、「アメリカの親分」の命を受けた韓国・朝鮮・ベトナムそして中国によって「日本」が斬られるという、東アジア国際政治の戯画となる。つまりどちらも現在の日本および国際的な政治社会状況への風刺として、比較的シンプルに了解することができる。

 ところが第III・IV場では、看護婦たちの『ラーメン渡り鳥』の弾き語りおよび梅崎春生による養老院の院長と入院患者とのやり取りという喜劇的な場面を中心に据えて、徳富蘇峰と唐木順三による日本人論が展開される。ここに「日本」への置き換えは見られない。風刺でありフィクションであったはずの日本(人)が、いつの間にか現実の日本(人)の問題へとスライドしているのである。「外国崇拝」「自国卑下」による「己惚根性」を「精神の荒廃」とし、日本人に「反省」を求めるような言説は一見もっともらしいが、それまでの風刺によって、観客はそのもっともらしい言説を額面通り受け取ることができない。第I・II場が日本(人)の戯画化だとすれば、第Ⅲ・IV場はいわば日本(人)論の戯画化によって、日本(人)に対する言説そのものを異化してしまう。

 さらに第V場では、主体と客体の関係自体が「日本」という観念に引きずり込まれる。「あなた」すなわち「夫」が「日本」に置き換えられるのかと思えば、「お前の夫」が「日本の夫」に、「夫と子供に対する義務」が「夫と日本に対する義務」になる。どうにか論理の筋道を追っていた観客も、この辺りで完全に筋道を見失ってしまう。つまり第V場は、国家や民族アイデンティティへのアイロニーとして理解されていた「日本」が、そうした意味論的なレベルを超えて、直接観客にグロテスクな作用をもたらす演劇的なダイナミズムへと転化する場面であると言える。「浅太郎を殺す勘助」が「日本人を殺す日本人」に置き換えられるに至ると、それは日本人である観客の大半にとって、自らの分身(ドッペルゲンガー)に遭遇したかのような、フロイトの言う「不気味な」2)フロイトはドイツ語の「不気味な unheimlich」という概念に、よく見知っている馴染みのものが何らかの原因によって抑圧され、にもかかわらず再び回帰して現れるような不安が隠されていると指摘した。すなわちフロイトによれば「不気味なもの」とは、完全に未知な他者ではなく、ある意味では自身の一部であるような何かが他者の姿として再び現れてくるという含意を持つ。そこでは「反復」という概念が極めて重要な役割を果たしている。フロイト「不気味なもの」『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳(光文社、2011)所収、127-216頁。現象として経験される。

 そして第VI場では、それまでの「日本」をめぐる力学がすべて哀歌の枠組みの中に集約され、「日本」への挽歌が歌われるのである。それは自分で自分の葬礼を見つめるような、いかにも居心地の悪い経験である。初演ではそれでも圧倒的な花火の迫力が(強引に)情緒的共同体を生み出し、ある種のカタルシスを生み出していたが、屋内で上演された2021年版では、その居心地の悪さはさらに際立っている。菅孝行は、こうした作劇を演出家の「世界に対する逞しい悪意」3)菅孝行『演劇で〈世界を変える〉 鈴木忠志論』(航思社、2021)263-264頁。の現れと評したが、本稿では異なる観点からこの居心地の悪さを検討してみたい。

   [ + ]

1. SCOT提供。記して謝意を表する。
2. フロイトはドイツ語の「不気味な unheimlich」という概念に、よく見知っている馴染みのものが何らかの原因によって抑圧され、にもかかわらず再び回帰して現れるような不安が隠されていると指摘した。すなわちフロイトによれば「不気味なもの」とは、完全に未知な他者ではなく、ある意味では自身の一部であるような何かが他者の姿として再び現れてくるという含意を持つ。そこでは「反復」という概念が極めて重要な役割を果たしている。フロイト「不気味なもの」『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳(光文社、2011)所収、127-216頁。
3. 菅孝行『演劇で〈世界を変える〉 鈴木忠志論』(航思社、2021)263-264頁。