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3.回帰する意志

 1966年に『勝負の終わり』のエピローグとして『言葉なき行為II』が上演されて以後、ベケットの無言劇『言葉なき行為』は『言葉なき行為I』と表記されるようになった。同様に『果てこんII』が上演された後には、『果てこん』は『果てこんI』として認識される。作品自体は変わらなくとも、観客は当然IIを前提として再度Iに向かい合うことになる。1991年の初演以来、利賀の野外劇場で花火のスペクタクルと共に幾度も再演を重ねてきた『果てこんI』は、利賀村という空間とそこを拠点とするSCOTの集団的特殊性を最もよく象徴する作品と言ってよいだろう。

 『果てこんI』についてはすでに多くの評が書かれており1)以下の資料を参照。寺尾前掲論文、山村武善「「戦前」と「戦後」の〈間〉で考える―『世界の果てからこんにちは』の方法的視座」『鈴木忠志演出・台本集III 世界の果てからこんにちは 帰ってきた日本』(劇団SCOT、2012)、本橋哲也「車椅子の葬送行進、花火の永続敗戦」『利賀から世界へ No. 7』(公益財団法人舞台芸術財団演劇人会議、2015)、渡辺保『演出家鈴木忠志 その思想と作品』(岩波書店、2019)、菅前掲書。、内容についてここで改めて確認することはしない。DVDとして販売されている初演(『鈴木忠志の世界』2011)を現在上演されているバージョンと比較すると、いくつかの部分2)内容上最も重要と思われるのは、伊藤久男の歌う『海行かば』が加えられている点だろう。圧倒的な歌唱力によって観客と舞台を情緒的に結びつけるこの歌曲は、撃墜される特攻隊機を思わせる花火と相まって、「日本の男」のファナティックな幻想を過剰なほどの演劇的効果として現出させる。鈴木自身は「何回目かの時に新しく挿入した」と書いている(『鈴木忠志演出・台本集III 世界の果てからこんにちは 帰ってきた日本』)が、具体的にいつのことか分からない。ご存じの読者はご教示いただければ幸いである。を除いて同じ構造と展開だが、キャスティングの変更に従って造形が大きく変化している役もある。車椅子に座る「日本の男」(初演では蔦森皓祐、以後高橋等、新堀清純などが演じ、近年は一貫して竹森陽一)の介添え役として登場する人物は、初演ではアメリカ人俳優の演じる「料理長/シートン」であり、久保庭尚子演じる世話女房風の女性を経て、近年長らく中村早香演じる「子ども」だったが、2021年には加藤雅治演じる「(竹森の「親分」に対する)子分」に変化した。その他の登場人物がキャスティングの変更に関わらず基本的に同じ造形であるのに対して、この役の大きな変化には鈴木の意図が感じられる。『果てこんI』は上演される度にアクチュアルな政治的・社会的状況を鋭く映し出すが、この介添え役がその調整弁を果たしているのではないか。つまり、基本的な構造を変化させずとも、絶えず主人公的な人物に同行し、何より「ニッポンがお亡くなりに」という決定的な一語を発するこの人物が上演の度にその様態を変化させていくことによって、観客は社会的な背景をより作品に反映させることが容易になるのである。

 『果てこんII』上演以前に中村早香が演じていた「子ども」は、『劇的なるものをめぐってII』において高橋美智子が演じた娘のように、中心人物を外部世界に接続する役割を持っていたと言える。何より「子ども」という存在には未来がある。それに対して加藤演じる「子分」は、竹森の「親分」と同じ内的世界に閉じこもる。ちょうどハムとクロヴのように、親分と子分という完結した関係には外部も未来も存在しない。そして島倉千代子の『からたち日記』が流れる場面で、加藤は跪き、両手を合わせて歌詞を読経する。9月5日「鈴木忠志対談」での鈴木の発言によれば、コロナ禍で通常の劇団活動が行えない状況で、複数の俳優が料理修行などに派遣されたが、加藤は数か月間寺で座禅を組んだという。その成果を生かすという訳でもあるまいが、ともかく加藤の読経は「日本の追悼」という主題を浮かび上がらせる。つまり『果てこんII』を経て、『果てこんI』もまた、最初からすでに「日本がお亡くなりに」なっているという破局以後の世界において、「日本」を想起しようとする絶望的な情動をめぐる物語へと、決定的に変化したのである。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅠ』
劇団SCOT提供

 「日本」を想起し、記憶しようとする(無益な)試みにおいて、「日本」の死が繰り返し語られ、認識される。院長が軽侮を込めて「あんたらはなかなか死なない、逝去せられない」と述べる養老院の入院患者たちとは対照的に、「日本」は何度も何度も「お亡くなりに」なるのである。「反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである」とかつてキルケゴールは言った。「追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである」3)キルケゴール『反復』桝田啓三郎訳(岩波書店、1993)8頁。。つまり反復(キルケゴールにとってそれは贖罪による許しと再生というキリスト教の問題と不可分である)とは、同じ現象の単なる繰り返しではなく、未来の創造と人間の救済を目指す運動を前提とするものである。しかし『果てこんII』以後の『果てこんI』において反復される「ニッポン」の死は、戯画的な「勝負の終わり/エンドゲーム」に他ならない。

 しかし、ここで再び「極限値」という概念を思い出そう。関数における変数がある数に無限に近付いていくとき、関数が示す値は「極限値」には決して到達しない。無限に繰り返される反復の果てに、救済の瞬間が訪れることは決してない。しかしその無限の運動性こそが、芸術の力に他ならない。反復は絶望すなわちキルケゴールに従えば「死に至る病」ではあろうが、無為や諦念ではない。ニーチェは、万物一切が永遠に回帰し続けるという虚無の深淵において、それでも「よし、もう一度!」と生を求める意志の力を肯定した4)ニーチェのいわゆる「永遠回帰」については、氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(岩波書店、2009)の解説を参照。。繰り返し「お亡くなりに」なり続ける「日本」の想起という主題は、生の無常と歴史の虚無を認識しつつ、それでも芸術とそして人間の生の力を信じようとする鈴木自身の芸術的な態度表明であるだろう。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅠ』
劇団SCOT提供

 以上のような点から、鈴木忠志『世界の果てからこんにちはI』および『II』は、アイロニカルな日本人論としての祝祭悲喜劇というだけではなく、困難な時代において希望を求める終わりのない試みである。人と人との密接な接触こそがリスクであるという状況において、演劇上演はそれ自体が「民衆の敵」になりかねない。それでもあえて上演とフェスティバルの実施に踏み切った鈴木とSCOTの、芸術と人間に対する信頼を表現するのに、これ以上の演目はなかっただろう。近年のSCOTは劇団の敷地で農業も行っているというが、農業もまた絶えざる反復の中で、生の無常を知りつつ肯定的な意志の力によって貫徹される行為に他ならない。生きることがすなわち演劇であり、その逆もまた然り。半世紀近く前の利賀入り時代の初心が、コロナ禍において、改めてこの集団を突き動かすエネルギーになっているかのようである。

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1. 以下の資料を参照。寺尾前掲論文、山村武善「「戦前」と「戦後」の〈間〉で考える―『世界の果てからこんにちは』の方法的視座」『鈴木忠志演出・台本集III 世界の果てからこんにちは 帰ってきた日本』(劇団SCOT、2012)、本橋哲也「車椅子の葬送行進、花火の永続敗戦」『利賀から世界へ No. 7』(公益財団法人舞台芸術財団演劇人会議、2015)、渡辺保『演出家鈴木忠志 その思想と作品』(岩波書店、2019)、菅前掲書。
2. 内容上最も重要と思われるのは、伊藤久男の歌う『海行かば』が加えられている点だろう。圧倒的な歌唱力によって観客と舞台を情緒的に結びつけるこの歌曲は、撃墜される特攻隊機を思わせる花火と相まって、「日本の男」のファナティックな幻想を過剰なほどの演劇的効果として現出させる。鈴木自身は「何回目かの時に新しく挿入した」と書いている(『鈴木忠志演出・台本集III 世界の果てからこんにちは 帰ってきた日本』)が、具体的にいつのことか分からない。ご存じの読者はご教示いただければ幸いである。
3. キルケゴール『反復』桝田啓三郎訳(岩波書店、1993)8頁。
4. ニーチェのいわゆる「永遠回帰」については、氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(岩波書店、2009)の解説を参照。