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2.破局後の試み

 『果てこんI』で「お亡くなりに」なったはずの「日本」が、『果てこんII』において執拗に連呼されるのは、日本国籍を保有し日本語を母語とする大半の観客にとって、いかにも奇妙に、また脅迫的に響く。果たして、この連呼される「日本」の内実は一体どのようなものなのか? 端的に言えば、その内実は明らかにならない。と言うよりも、そもそも内実などというものは存在しない。この連呼は、前作『果てこんI』において、やはり執拗に連呼される「歴史にもおさらば、記憶にもおさらば」というフレーズと響き合う。ベケット『カスカンド』からの引用であるこのフレーズは、「歴史」の中断と忘却を求める言葉の集積が「物語/歴史」となり、そして「物語/歴史」の内実はそれ自体の否定の反復に他ならないという、アイロニカルな構造を示している1)この観点については、以下の資料を参照。寺尾恵仁「余白としての演技―鈴木忠志演出『世界の果てからこんにちは』上演分析」『利賀から世界へ No. 8』(公益財団法人舞台芸術財団演劇人会議、2016)140-153頁。。同様に『果てこんII』において「日本」が語られれば語られるほど、その言説の内実と、それを語る人々の空虚さが浮き彫りになるのである。こうした構成は、鈴木の得意とする「精神病院」という枠構造と深く関わる。

 「世界は精神病院、人間はみな精神病患者」という鈴木の演出的着想は、「世界は劇場、人間はみな役者」という古典古代以来の伝統的な世界観2)西洋における「世界劇場」の観念は古代ギリシャまで遡るが、それが演劇表現における重要な比喩的世界観となるのが、たとえばカルデロンの『世界大劇場』である。世界劇場の比喩は、その世界内部における生の無常観を浮き彫りにすると同時に、生のあらゆるプロセスがミクロとマクロの両面において(神などの超越的存在によって)あらかじめ決定されているという意味でヒエラルキーの固定化に寄与する。Andreas Kotte: Theatergeschichte. Böhlau 2013, pp. 201-208.の一つの読み換えであり、それは鈴木のベケット理解に基づいていると考えられる。〈独立した主体→意図や感情→行為〉という合理的な因果関係が解体され、あらゆる人物はアイデンティティの危機的状況の中で不合理な行為を反復するという絶望的な情景を、鈴木はベケットから読み取り、それを「精神病院」という形で演劇的に形式化する。鈴木はその活動の初期からベケットのテクストを繰り返し扱い、またシェイクスピア、チェーホフ、ゴーリキーといった作家のテクストを、ベケットを通じて読解してきた3)たとえば宮城聰が、鈴木との対談においてそれを指摘している。鈴木忠志+宮城聰「「見えないものを見せる」ということ」『演出家の仕事 鈴木忠志読本』(静岡県舞台芸術センター、2006)68-77頁。。同様に本作も、ベケットのテクストを使わずに、その世界観によって「日本(人)」を描き出したと言える。言い換えれば、『果てこんII』においては、何らかの破局によって「日本」という国も「日本人」というナショナル・アイデンティティもすでに失われている。それにも関わらず、と言うよりそれゆえにこそ、登場人物たちは失われた「日本(人)」を語ることで再構成しようという試みを絶望的なまでに繰り返しているのである。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅡ』
構成・演出=鈴木忠志
2021年9月4日(土)、9月5日(日)/利賀大山房
劇団SCOT提供

 ベケットの劇作の中で、破局後の世界を描いたものと言えば、もちろん『勝負の終わり』が挙げられる。鈴木も、『幽霊―別冊イプセン』『シラノ・ド・ベルジュラック』そして『果てこんI』など複数の作品で、「まだ幻を見るのかい」で始まるやり取りを同作から引用している。承知のように、『勝負の終わり』は核戦争で人類が死滅してしまった後のシェルターが舞台である。盲目で車椅子に座るハムとその従者のようなクロヴは、延々と堂々巡りの議論を繰り返す。ついにクロヴが主人であり父親でもあるハムを見捨て、外に出ていこうとするが、やはり彼はシェルターにとどまる。チェスの終盤戦を意味する「勝負の終わり Fin de partie」がさらに続くのか、それともいずれかの(あるいは両者の)死によって決着がつくのかは明らかにされない。ベケットのこの戯曲を、哲学者テオドール・W・アドルノは、サルトルに代表されるフランス実存主義と対立させ、近代的個人とそれに基づく市民社会という幻想を打ち破る作品として読み解く。

 

キルケゴール、ヤスパース、それに実存主義のサルトル版とのあいだの共通点といえば、個人の実体性とか個人の絶対性であったのだが、こうした個人を粉々に打ち砕いたのがうちつづく破局である。これら破局が『勝負の終わり』にもインスピレーションを与えている。サルトルの実存主義はごたいそうにも、強制収容所の犠牲者に加えられた拷問を内面的に受け入れる自由、それを内面的に拒否する自由を犠牲者に与えた。『勝負の終わり』はその手の幻想をすべて打ち破ったのである。4)テオドール・W・アドルノ「『勝負の終わり』を理解する試み」『アドルノ 文学ノート1』三光長治他訳(みすず書房、2009)所収、366頁。

 

 アドルノは、サルトルはじめ実存主義の作家が主体的な個人という観念を絶対的なものと捉え、それに依拠したことを手厳しく批判する。と言うのも、永続的なカタストロフ状況(アドルノにとってそれは端的に言えば「アウシュヴィッツ以後」ということになる)においては、もはや主体的な個人などというものは失われてしまっているからである。近代という時代を成り立たせていた「個人の自律性の要求や存在の要求」5)同書、366頁。は、もはや信頼に値しない。ただし芸術は(フィクションであるとしても)主観や主体といった観念を完全に捨て去ることもできない。今日の芸術は、こうした主観性・主体性をめぐる二律背反に直面しているのであり、そうした二律背反を、先送りされ続ける終末という形で戯画化するのがベケット『勝負の終わり』だという訳である。

 そもそも近代の出発点における個人の自由・自立すなわち「啓蒙」の理念に、それ自体の崩壊の予兆が含まれているというのが、ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』のテーゼである6)「進歩の力への適応の中には、権力の進歩が含まれており、その都度ふたたび退化への営みが含まれている。つまりその退化は、不成功に終った進歩なのではなく、まさしく成功した進歩こそが、じつは進歩の反対であることの証拠になる。止まることを知らない進歩のもたらす呪いは、止まることを知らない退歩である。」ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳(岩波書店、2015)77頁。。「フランス実存主義は歴史に取り組んだ。ベケットにおいては、歴史が実存主義を吞み込んでいる」7)アドルノ、358頁。というように、アドルノはベケットの劇作に、歴史から意識・想起・記憶といった力が失われ、全てが崩壊へと向かっていく「無常さ・はかなさ Vergängliches」を読み取る。演劇それ自体が、文字通り「歴史におさらば」し、沈黙へと向かっていく過程である。しかし決して沈黙には到達しない(「ベケット劇の極限値は沈黙」8)アドルノ、384頁。)。ベケットは、世界の崩壊や意味の不在を投げやりに受忍するのではなく、崩壊へと至るぎりぎりの地点でどうにか踏みとどまろうとする絶望的な情動を描く。それは「人間性 Humanität」の喪失であると同時に、人間性の否定へと無限に接近しつつ、永遠に到達しない「極限値」9)「数列の項の番号を限りなく大きくするとき、または関数の変数の値をある値に近づけるか正・負の無限大にするときに、数列や関数値が限りなく近づく一定の値」(大辞泉)。「関数で、独立変数の値が、ある一定の値に限りなく近づくとき、それに対応して関数値が限りなく近づく値」(日本国語大辞典)。「一定の法則に従って変化する数がある値に限りなく近づくとき、その値」(明鏡国語辞典)。の身振りである。

 『果てこんII』におけるベケット的世界観は、スクラップとなった自動車や車椅子といった小道具のみならず、「日本」という空虚な内実へと無限に接近しつつ、永遠に到達しないという絶望的な運動性によって表現される。その結果、前作『果てこんI』にはまだかろうじて存在した「車椅子の老人の幻想」という主軸が、本作では完全に失われている。次々と現れる車椅子の人物たちは、「日本(人)」という言葉の周囲を取り巻き、その概念的な空虚さを埋めようと無益にあがく亡者たちといった様相である。若干趣を異にするのは、第III・IV場の竹森陽一である。彼は廃車の中でラーメンをすすり、敗戦後の日本人の「反省」について語り、養老院の院長らしき人物を演じる。竹森が近年『果てこんI』で車椅子の老人を演じていること考えれば、この人物が『果てこんII』における一応の中心人物と考えられなくはない。しかし今作の彼は主人公と言うよりも、「日本(人)」という概念の空虚さを浮かび上がらせる狂言廻しと言う方がふさわしいだろう。第IV場の彼は、入所者との対立を「お互い日本人ではないか」という詭弁によって煙に巻くが、彼の言うところの「日本人」の定義とは、「ラーメンが好きです」という程度のことに過ぎないのだ。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅡ』
劇団SCOT提供

 それにしても、俳優・竹森陽一が「世界は精神病院」という鈴木の演出的着想をなんと力強く支えていることか。『カチカチ山』(1996年初演)、『病院長屋の日本人たち』(2005年初演)、そして『果てこんI』などで、竹森は繰り返し「院長」と思しき役柄を演じてきた。もちろん「世界は精神病院」なのだから「院長」らしき人物もまた狂人に他ならないのだが、竹森はそのどこか滑稽さを含んだ重厚な演技で、そうした役どころの高慢さ、うさんくささ、いかがわしさ、バカらしさを十二分に表現する。『病院長屋の日本人たち』で、正面を切って「アケミちゃんの踊りを見てみようか!」と絶叫する竹森演じる院長の異様な迫力は、いまだに筆者の記憶を去らない。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅡ』
劇団SCOT提供

 竹森と並ぶベテランである塩原充知は、第I場で初演の加藤雅治に代わって登場する。飄々とした軽みある演技が魅力の加藤に対して、塩原は端正でありながら腹の底に激しい歪みやねじれを感じさせる。竹森が「院長」として精神病院としての世界を支えているとすれば、塩原はそこに閉じ込められる「患者」の側からこの世界の異様さを体現していると言える(初演では塩原は第IV場で患者役として登場した。キャスティングの変更によって両者の共演場面が失われたのは惜しい)。その塩原の本領が発揮されるのが、第VI場での佐藤ジョンソンあきとのセッションである。ヒッピー風の出で立ちの塩原は、ブリキ缶やフライパンなど廃品からなるドラムセットが装着された車椅子で登場し、佐藤の歌/語りに対してハチャメチャなドラムや奇声で応じる。あるいはその姿は、かつてのカウンターカルチャーとしての「アングラ」という観念自体を「日本」と共に哀悼するものでもあるかもしれない。しかし絶叫を交えた二人のセッションは、哀感を伴う歌の内容に比してあまりにも過剰でキッチュである。とてもしみじみと「日本」を悼む気にはなれない。塩原に対する佐藤の姿は、齊藤真紀主演による新版『トロイアの女』(2014年初演)の幕切れに登場する「花売りの少女」に他ならない。しかし彼女がバラの花を投げつける神像は存在しない。「戦争になると神も仏もないということだな」10)鈴木忠志ブログ「見たり・聴いたり」(2014年7月18日)より。https://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2014-07/180/ 『鈴木忠志演出・台本集IV トロイアの女/「からたち日記」由来』(劇団SCOT、2014)所収。とは1988年に鈴木演出『トロイアの女』を見た一人の観客の言であるそうだが、そのセルフパロディとしての『果てこんII』の最終場面には、ほんとうに神も仏もない。それらを拝んだり呪ったりする日本人も、彼らの国家日本も存在しない。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅡ』
劇団SCOT提供

 塩原と佐藤の過剰で滑稽な歌/踊り/語り/演奏は、ハムとクロヴのように、破局によって失われたものへと無限に近づこうとする、極限値の身振りである。身も蓋もないことを言ってしまえば、それはすでに遅きに失した、「ないものねだり」の身振りであるかもしれない。しかしこれは、鈴木によって仕掛けられた虚構の枠組みの中での身振りである。それを見る観客席の我々の多くは、いまだ日本という国家に生きている。世界を覆ってしまうかのような感染症も、国家や民族を全て消し去るには至っていない。少なくとも、我々はまだ、ほんとうにあらゆるものが遅きに失した世界には生きていないのである。

SCOTサマー・シーズン2021 SCOT『世界の果てからこんにちはⅡ』
劇団SCOT提供

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1. この観点については、以下の資料を参照。寺尾恵仁「余白としての演技―鈴木忠志演出『世界の果てからこんにちは』上演分析」『利賀から世界へ No. 8』(公益財団法人舞台芸術財団演劇人会議、2016)140-153頁。
2. 西洋における「世界劇場」の観念は古代ギリシャまで遡るが、それが演劇表現における重要な比喩的世界観となるのが、たとえばカルデロンの『世界大劇場』である。世界劇場の比喩は、その世界内部における生の無常観を浮き彫りにすると同時に、生のあらゆるプロセスがミクロとマクロの両面において(神などの超越的存在によって)あらかじめ決定されているという意味でヒエラルキーの固定化に寄与する。Andreas Kotte: Theatergeschichte. Böhlau 2013, pp. 201-208.
3. たとえば宮城聰が、鈴木との対談においてそれを指摘している。鈴木忠志+宮城聰「「見えないものを見せる」ということ」『演出家の仕事 鈴木忠志読本』(静岡県舞台芸術センター、2006)68-77頁。
4. テオドール・W・アドルノ「『勝負の終わり』を理解する試み」『アドルノ 文学ノート1』三光長治他訳(みすず書房、2009)所収、366頁。
5. 同書、366頁。
6. 「進歩の力への適応の中には、権力の進歩が含まれており、その都度ふたたび退化への営みが含まれている。つまりその退化は、不成功に終った進歩なのではなく、まさしく成功した進歩こそが、じつは進歩の反対であることの証拠になる。止まることを知らない進歩のもたらす呪いは、止まることを知らない退歩である。」ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳(岩波書店、2015)77頁。
7. アドルノ、358頁。
8. アドルノ、384頁。
9. 「数列の項の番号を限りなく大きくするとき、または関数の変数の値をある値に近づけるか正・負の無限大にするときに、数列や関数値が限りなく近づく一定の値」(大辞泉)。「関数で、独立変数の値が、ある一定の値に限りなく近づくとき、それに対応して関数値が限りなく近づく値」(日本国語大辞典)。「一定の法則に従って変化する数がある値に限りなく近づくとき、その値」(明鏡国語辞典)。
10. 鈴木忠志ブログ「見たり・聴いたり」(2014年7月18日)より。https://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2014-07/180/ 『鈴木忠志演出・台本集IV トロイアの女/「からたち日記」由来』(劇団SCOT、2014)所収。