パンデミックにおける意志の未来(Will)について――SPAC『アンティゴネ』静岡駿府城公演2021に寄せて/三井武人
2.ムーバーとスピーカーにより強調される物語の悲劇性
あらすじの説明を終えた俳優たちが、再び手持ち太鼓と鉦を鳴らしながら、舞台の縁を沿って下手へと捌けていくと、今度はスチールパンや木琴のやわらかい音色(音楽:棚川寛子)が会場全体を包む。すると、その音色に誘われるかのように、いかだに乗った僧侶(貴島豪)が上手後方からゆっくりと現れる。舞台の中央で静かに止まった僧侶が小さく手招きをすると、グラスハープを持った俳優たちが僧侶にゆっくりと近づいていく。僧侶は俳優からグラスハープを受け取り、衣装と統一された白い色のカツラ(ヘアメイクデザイン:梶田キョウコ)や木製の長い杖を順々に渡していく。この場面で描かれているものは、先ほどまで統一された衣装を纏い「個」を持たなかった俳優たちが、僧侶から特定の小道具(カツラや杖)を受け取ることにより、それぞれの役柄を引き受け、それぞれの「意志(Will)」を持った悲劇の登場人物たちへと姿を代えていく過程である。
役柄の演じ分けに関して言えば、古代ギリシアの時代、悲劇は三人の俳優とコロスと呼ばれる合唱隊によって演じられており、俳優は仮面を着け替えることにより役を演じ分けていた。要するに、古代ギリシアの劇場では、登場人物たちの「意志」はそれぞれの俳優が纏った仮面を介することによって、舞台上で表象されていた。一方、本作も、仮面の代わりにカツラを纏う姿を観客に見せることによって、時代や文化を超えて古代ギリシアの演劇の伝統(仮面を介することによって登場人物の「意志」を表象する演劇手法)を受け継いだ上演であることを示そうとしているのだろう。
プロロゴス(序章)はアンティゴネとイスメネ二人の姉妹の会話から始まるが、白いカツラを纏い、中央に置かれた岩の上に立つ姉妹の役者は言葉を発することはない。代わりに、二人から一段低い位置に膝を付いて座る俳優が台詞を紡いでいく。すなわち、宮城版『アンティゴネ』では、まるで人形浄瑠璃のように、身体をもって役を演じるムーバー(動き手)と、台詞を担当するスピーカー(語り手)に役割分担がされている。(この上演形態は宮城演出のシェイクスピアの『冬物語』や『オセロ』等の作品にもみられる手法)このような一役を二人の俳優(ムーバーとスピーカー)で演じる手法は、通常の身体と言語が一致したものと違い、ムーバーの役者には体の動きを台詞に合わせるという新たな作業が加わる。
この演出は、一見すると、言葉を発しないムーバーに視点を置いた時、ムーバーの自立性がスピーカーによって制限されているように映り、ムーバーの演じる幅を狭めているように感じられる。しかし、実際はアンティゴネとイスメネの会話が進むにつれ、一役を二人の俳優で演じる演出に多くの観客は引き込まれていく。なぜなら、アンティゴネを演じるムーバーの役者(美加理)がスピーカー(本多麻紀)の発する台詞に導かれていく姿は、身体と言語の不合理な関係を浮き彫りにすることによって、悲劇的な「運命」を辿るヒロインとして観客に映るからだ。つまり、この二人一役の演出によって、観客は強い「意志」を持った登場人物たちが、実のところ、悲劇に内包された決してあらがうことができない「運命」に導かれていると気づかされる。
この「運命」は、アンティゴネの父オイディプスから引き継がれてきた血族的かつテーバイの王族の一員であるという社会的な束縛のうちに宿るものであり、アンティゴネを含む登場人物たちは決してこれにあらがうことはできない。例えば、それを悟っているかのように、命を賭けてまでも兄ポリュネイケスの遺体を弔うことを望むアンティゴネは「それで死罪になるならそれこそ本望。私は神々の掟に従って、人間の法に背いてやります。」とキッパリと言い切る。このようなアンティゴネの強い「意志」を持った言葉(スピーカーの台詞)は、身体的表現(ムーバーの動き)と観客のうちで融合するという過程を経て認識される。この過程は、二人一役(ムーバーとスピーカー)というお互いの役割が制限された宮城独特のドラマトゥルギーによって生み出されたものである。ただ、これは言葉と身体が独立しているということを意味している訳ではなく、作品の成立ためにはお互いが常に呼応し合わなければならないことを示している。加えて、言葉と身体がお互いに制限され合うようなこの演出は、登場人物たちの「意志」が強い「運命」に導かれるという悲劇の構造と重なり合わさることによって、作品が内包する悲劇性をいっそう際立たせる効果も生み出している。したがって、本作『アンティゴネ』では、政治的言説の網の目に囚われた登場人物たちの悲劇性を強調すると言った点において、特に二人一役の演出が巧みに機能していると言えるだろう。