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5.「鎮魂の祝祭」としての『アンティゴネ』

 最後の場面では、それぞれの役を演じ終わった俳優たちが、順番に纏っていたカツラをゆっくり脱いでいく。ここでは、俳優たちの身体が悲劇の登場人物たちの「意志」から解放される姿が描写されている。そして、役から解放された俳優たちが、他の演者たちの輪に混じって「円」を描きながら「盆踊り」をゆっくりと踊っているところに、僧侶が再び、いかだに乗って登場する。登場人物たちの「意志」を弔うかのように、僧侶は俳優たちが踊る「円」の中心でゆっくりと灯籠を流していく。
 本作のテーマに関して、宮城は演出ノートの中で「この戯曲をいわゆる「悲しい悲劇」ではなく「鎮魂の祝祭」として上演する。」と述べている。宮城が述べたように、本作が「鎮魂の祝祭」であることは、最後の場面で出演者全員による「盆踊り」が再び披露されることからも暗示されていると言えるだろう。さらに、この最後の場面について、演出ノートで宮城は以下のように説明する。「最後の場面では、生きていた人々は皆、あの世へ行く。アンティゴネやハイモンばかりではなく、クレオンも含めて、必ず皆「あの世」へ行きます。死なない人はいません。そして、死んだ後は「仏」になるわけです。仏になった魂をこの世からあの世へ送るのが「盆踊り」という踊りです。」別の言い方をすれば、カツラを脱いで役から離れた俳優だけでなく楽器を演奏していた俳優までもが踊りの輪に加わった結果、静けさの中で披露される最後の「盆踊り」は争いを排除した調和の象徴であり、この輪の中にはお互いが対立しあっていた登場人物たちの「意志」や「個」と言ったものは存在しない。したがって、この最後の「盆踊り」は、悲劇のうちにいる登場人物たちを供養しようとしているだけではなく、それぞれの役から解放された俳優たちが踊ることによって、私たちの社会における悲劇の連鎖を断ち切るために、全ての死者の魂を平等に供養をするという理想的な理念を提示していると言えるのではないだろうか。さらに、先ほどと同様に、観客という演劇に不可欠な要素を加えてこの場面を読み解くならば、平和や平等といった理想に基づく「鎮魂の祝祭」が、この最期の「盆踊り」に観客(物語の外を生きる私たち)が参与することをもって、実際に成し遂げられるかもしれないという私たちの社会に向けられた「未来(Will)」への希望が明示されているのではないだろうか。
 これに加えて、僧侶もまた悲劇の中に閉じ込められた登場人物たちの「意志」を引き受け、そして彼らを平等に弔おうとしているのだろうか。なぜなら、舞台芸術は一回性をもったものでありそれぞれの上演は区別されるべきものである一方、登場人物たちの「意志」は、この悲劇(戯曲や舞台演出のうち)に内包された普遍的なものでもあるとも言え、上演毎に俳優の身体を通してそれぞれの登場人物たちが具現化されることが繰り返される(輪廻を連想させるような)「円環」のうちで、同じ悲劇を繰り返すことから逃れることができない存在だからだろう。(この「円環」は、最後の場面で出演俳優全員が踊る「盆踊り」の隊形が舞台いっぱいに広がりながら「円」を描いていくことにも象徴されているとも言えるだろう。)つまり、この最後の場面で、登場人物たちの「意志」を憐れむ僧侶は、「盆踊り」の「円」の中心で灯籠を流すことによって、この悲劇の「円環」のうちに囚われている登場人物たちの「意志」の鎮魂、さらには解放を試みながら、上演毎に繰り返される悲劇を少しでも鎮めようと努めているのだろう。
 特に『アンティゴネ』に代表されるような、それぞれの登場人物たちが互いに強く対立し理解し合えないなかで悲惨な結末へと突き進むギリシア悲劇においては、この「円環」が登場人物たちの悲劇性を強調する重要な要素になっている。別の言い方をすれば、登場人物たちは「円環」の中で、悲劇的な「運命」を決定づけられており、彼らの「意志」もまたそこから逸脱することは許されないということがこの悲劇を悲劇たらしめているのである。また、登場人物たちの「意志」は、利己的な考えなどというものではなく、社会的な地位のために自己が制限された「運命」の中で、それぞれが信じる「正義」によって突き動かされていくことから、彼らを簡単に色分けすることは難しい。そのような中で、善や悪、男や女といった区別無く、平等に登場人物たちの「意志」を弔う僧侶の姿は、悲劇の鎮魂を試みる唯一の存在として観客のうちに鮮明に残るだろう。さらに付け加えるなら、この僧侶の姿もまた、私たちの社会において現実に繰り返される悲劇を鎮めるために、分け隔てなく死者(仏)の鎮魂を願うことの必要性をやはり説こうとしているのではないだろうか。