パンデミックにおける意志の未来(Will)について――SPAC『アンティゴネ』静岡駿府城公演2021に寄せて/三井武人
1.はじめに
昨年、コロナウィルスの影響で中止されたSPAC(静岡県舞台芸術センター)による『アンティゴネ』(構成・演出:宮城聰、作:ソポクレス、訳:柳沼重剛)が駿府城公園の紅葉山庭園前広場に設置された特設野外劇場で2021年5月2日から5日まで上演された(筆者は5月4日に鑑賞)。本作は、2017年夏にフランス南部のアヴィニョンで毎年開催されている国際演劇祭のオープニング作品として、さらには2年後の2019年にはニューヨークのパーク・アベニュー・アーモリーでも上演されており、近年のSPACを代表する作品の一つである。
ただし、以前の公演とは違い、今回のコロナ禍の上演に際しては、観客数の制限、所属劇団員及び関係者に対する感染症対策など、多くの制約があったと推測される。また、私たちの社会生活に目を向けると、感染拡大防止という理由から、遺族や友人が大切な人との「最期の別れ」に立ち会うことができないほど、死者に対する尊厳が制限されるまで大きく変容してしまった。このような中を生きる観客には、作品の中でアンティゴネが一貫して主張し続ける「死者の弔い」の重要性がいっそう深い意味を持って受け止められただろう。つまり、今回の『アンティゴネ』の上演は、コロナ禍という制約の中での公演というだけでなく、「死者の弔い」に関する過去には無かった新たな意味を提示したという点でも特別なものであったと言えるだろう。本評では、宮城版『アンティゴネ』について、キーワードを提示しながら分析していくと共に、コロナ禍での『アンティゴネ』の上演、そして、それが新たに浮き彫りにした「死者の弔い」をめぐる問題を中心に議論していく。
開演30分ほど前の駿府城公園は、まだ日の光はあるものの、日中と同じ装いで屋外に立っていると少し肌寒さを感じる程度の気温だった。検温や手指消毒を終えた観客は、舞台と階段状に設置された客席最前列の間を抜けて入場していく。まず観客の目を引くのは、全体に水が張られた舞台(空間構成:木津潤平)である。夕刻過ぎの弱い日の光が反射する水面の深さは、ぼんやりとした火が灯されたグラスハープを奏でながらゆっくりと歩く俳優たちのくるぶし程度まである。さらに、舞台の中央に高く大きな岩、左右にはやや小ぶりの岩が積み上げられており、全体を三つの場(中央、上手、下手)に分割するかのように、それぞれが配置されている。この舞台を横目に見ながら観客は席に着く。すると、まず舞台後方の金網状の壁の高さに驚かされる。統一された白い衣装(衣装デザイン:高橋佳代)を纏って舞台を漂うように歩く俳優たちを呑み込んでしまうかのようである。客席に座り舞台を眺めていると、一枚の大きな壁、客席、そして水を分けながら歩く俳優たちの静かな水音とグラスハープの音色にこの空間が包まれることによって、オープンな野外劇場でありながらも、ここに緩やかな額縁舞台が形成されているようにも感じられる。このような周囲から淡く弱い仕切りで分けられた劇場空間で静かに開演を待っていると、突然騒がしい音が響き渡る。
6人の俳優たち(池田真紀子、石井萠水、加藤幸夫、佐藤ゆず、大道無門優也、吉見亮)が、手持ち太鼓や鉦を鳴らして、上手から舞台の縁の上を歩いて登場する。観客に対して「本日の来場の礼」を済ませると、本作『アンティゴネ』のあらすじを大袈裟な身振り手振りを交えながら滑稽に説明をしていく。シェイクスピアの『夏の夜の夢』に登場する「職人たちによる劇団」を彷彿とさせるこのコメディー劇によって、つい先程まで水音とグラスハープの音色によって創り出されていた張り詰めた場の空気は一気に緩み、マスクを着用した観客の間にも静かな笑いが起こる。
一見、ギリシア悲劇には似つかわしくないようにみえるこの劇中劇は、作品と観客との文化的距離を縮めるには効果的であっただろう。というのも、『アンティゴネ』を始めとしたギリシア悲劇の土台となる神話の大筋は、古代ギリシアの観客の間では共有されていたと考えられており、戯曲もその認識を元にして書かれているからである。本作の物語も古代ギリシアの国テーバイを舞台とした長く連なる神話の一部を抜粋したものであり、前提となる物語の大まかな知識は、本作を鑑賞する上で重要になってくる。したがって、この劇中劇は、ただ単に客席を和ませるという効果だけではなく、分け隔てなく全ての観客を作品の世界へと誘う重要な役割を担っていると言えるだろう。さらに言えば、冒頭に組み込まれたこの「ネタバラシ」は、演出家の宮城聰から、あらすじを追うことに慣れた現代の観客に向けられた、物語を追うことを止めて今夜は舞台演出全体(ミザンセーヌ)を体感して欲しいというメッセージなのかもしれない。