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5.夢を見ているのは誰か

 だからそれが夢幻能のやり方であって、救済されたヒロインがもう一度僧の目の前に現われて救済以前の姿を懺悔して見せたのだということは、先に述べた。一応はそうに違いない。
 だがこのとき観客は自分の視点を僧に預けっ放しにしている。時間にゆがみが生じて、過去が溢れ出てくると思うのは僧から見た話である。時間はこの世にだけあってあの世にはない。ドラマを支配し観客をいやおうなしに並走させているのは僧の時間である。それは昼間里女に出会い、夜になって里女の昔の姿に出会うというように流れるが、死者に時間はない。視点を僧からシテに移せば前シテと後シテの間に時間の差はない。時間がゆがむことなど有り得ない。言えるのはただ、彼岸が此岸に侵入して来たことだけ。
 夢幻能の仕掛けをいうならこれである。その仕掛けにどういう意味があるのか。それがまさに人間が「夢を見る」という行為に見合っていることである。夢幻能という言葉は近代になって生まれ、世阿弥の時代にはなかった。また後場のワキもはっきり夢を見ていると語られる場合もあれば、『松浦佐用姫』のように、暗示にとどめられることもあり、目覚めていて読経している場合もある。しかしそのすべての場合に共通しているのは、およそ人が夢を見るという行為との類似である。すなわち夢は夢見る人の現実の時間の流れを無視して、異空間の光景が侵入してきて、これに抵抗する術がない。ワキが夢を見ていると明示されようとされまいと、観客は夢幻能の構造そのものによって夢の中に引き込まれる。夢を思い出し、夢を解釈するのは夢から覚めて後のことである。演奏が終わってシテが去りワキが去り、地謡と囃子方が退場して、舞台が開演前の白いカンバスの状態を回復するのを見ながら、私は「幽霊がいっぱい」の筆者にならって、この夢を「どう解釈するかは、作品の主題に直結することで、さまざまな見解がありうる」と断ったうえで、次のように考えた。「人は過ぎ去った恋を悔やみながら生きていく」

6.夢の中の懐かしい声

 鵜澤久の謡の声は私を痺れさせる。能は男性能楽師を前提に作られているので、久のような優れた女性能楽師は、男女のジェンダーを超えたところで演じ、当日の能もワキ、アイ、地謡、後見(主後見=野村四郎)は男性である。女性は地謡に一人(鵜澤光)、囃子方に一人(八反田智子・笛)が加わっていた。
 久の謡はジェンダーを超えている。しかもその輪郭の明確な、よく通る、低目の、紛れもない女性の声の魅力に抗しがたい。能楽堂全体が久の声を受け止めて共鳴しはじめる。私の心の中にも不意にドアが開き、そこに普段は忘れているものの影が潜んでいるのに気付く。それは今までに見聞きしたさまざまな舞台や小説の主人公たち、あるいは遠い昔に実際に出会った人びとである。彼らの舞台や小説や、実際の時間は既に完結しているので、目覚めたとき夢のなかに置き去りにしてきたイメージと同様、彼らは死者に等しい。
 久が舞う松浦佐用姫の霊と、私の心の中の死者たちが棹秤の両側で釣り合っている。彼らに本来時間はない。しかし佐用姫の霊はワキ僧の時間を、私の心の中の死者たちは私の意識の流れを利用して、その虚構の持続の中で、あたかも現実の時間を生きる者のように振る舞い、こう主張する。

人は過ぎ去った恋を悔やみながら生きていく

夢幻能の仕組みが彼らに時を超える切り札を与えている。「恋」を「戦い」に置き換えれば、この仕組みは長塚圭史の「悪魔の唄」に当てはまり、さらに広く「過ぎ去った時間」に置き換えれば、適用範囲はプルーストの「失われた時を求めて」にまで及ぶだろう。