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リンカーンの轟悠(左) フレデリック・ダグラスの柚香光
リンカーンの轟悠(左) フレデリック・ダグラスの柚香光 ©宝塚歌劇団  禁転載

近年の宝塚歌劇の変化はめざましい。ひとつには演出家の世代交替が進んでいるからである。ドラマの持つ思想性が以前のままではない。ドラマの変化は男役の姿に端的に映し出される。今年2016年2月に梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ、続いて3月にKAAT神奈川芸術劇場で上演された花組公演『For the People ――リンカーン 自由を求めた男――』は、南北戦争時代のアメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンを描く優れた評伝劇である。その評伝劇が改めてそのことを考えさせる。

作者の原田諒は宝塚の若い世代を代表する34歳の演出家で、リンカーンが奴隷解放のために命を懸けて闘った姿を通して、人が持つべき正義感や矜持というものに真正面から取り組んでいる。硬派そのものというべき作品が観客の支持を集めた。

リンカーンを演じる轟悠は専科に属し、5つの組の5人のトップよりさらにワンランク上の位置にある。リンカーンの剛毅なたたずまいは、過去の男役のお手本ともいうべき植田紳爾脚本・演出『風と共に去りぬ』(1977年初演)の主人公レット・バトラーと鮮やかな対比をなしている。バトラーのダンディズムは『For the People』によって否定される南部の奴隷制のうえに成り立っていた。リンカーンとバトラー。2人の男役の対比が宝塚歌劇の変化そのものである。

バトラーはどういう男役だったか。1984年雪組公演の麻実れいのバトラーが忘れ難い。スカーレットは退団していく遥くらら。アシュレは平みちだった。宝塚版『風と共に去りぬ』には幾つかのヴァージョンがあり、この時はスタンダードの「バトラー編」だった(他に「スカーレット編」、両編を併せた「総集編」がある)。「バトラー編」は、着飾った南部の若い男女が平和と繁栄を歌い踊るプロローグの後、ただちに時間が飛んで、南北戦争戦時下のジョージア州アトランタの駅頭を描き出す。ドラマはここから始まり、バトラーは黒い喪服に身を包んだスカーレットに再会する。スカーレットは大農場主の娘で、バトラーがタラの農場で初めて出会った時、彼女はアシュレに夢中で、積極的に言い寄っていた。しかしアシュレに振られ、物の弾みでチャールズと結婚する。そのチャールズも南軍に志願して戦場で死んだ。それも敵弾に倒れるのではなく、はしかにかかって。バトラーはこうした事情をすべて知っていたので、あけすけにスカーレットをからかって嫌がられたあげく、「君はマグノリアの花の如く」を歌いながら宝塚大劇場の銀橋を上手から下手へ回って行く。

月の雫をほのかに浴び
気高く甘き香り
いつか知らずに心ひかれ
我が胸はときめく
 (作詞・植田紳爾、補作詞・藤公之介、作曲・都倉俊一)

銀橋のセンターを過ぎたあたりで歌い終わると立ち止まり、左手の肘を折り、掌を覗きこむようにしてふっと微笑む。「いつか君をこの手に」というように。これは原作のバトラーからは想像もつかないほど遠く離れた姿である。そこにはスカーレットを大きく包み込む優しさだけがあって、一かけらの欲望もなかった。観客は皆その姿に痺れた。それは宝塚の男役独自の美しさであると同時に、やはり奴隷制に基づく南部の文化(正確にはその崩壊)のうえに成立していた。だからこそかくも郷愁を誘って止まない。

リンカーンの轟悠
リンカーンの轟悠 ©宝塚歌劇団  禁転載

轟悠も実は名うてのバトラー役者で、ただ一度だけ上演された「総集編」に主演し、2015年には中日劇場の月組公演でバトラーを演じたばかりだった。しかしここは麻実がぴったりのニンだった。逆にそのことが轟のリンカーンの魅力を語っている。

『For the People』第1幕のプロローグは、奴隷商人が、鎖に繋がれた黒人奴隷たちを鞭打つという、宝塚らしくない場面から始まる(逆に宝塚の様式の中でこそ可能だと言えるかもしれない。あまりリアルだと見ていて鼻白んでしまう)。リンカーンは開拓農民の息子としてケンタッキー州の田舎の丸太小屋で生まれ、19歳の時ルイジアナ州ニューオリンズで奴隷市場を目撃して衝撃を受け、奴隷解放を心に誓ったという。プロローグはその光景にほかならない。奴隷のひとりフレデッリック・ダグラス(柚香光)の手鎖が、激しく鞭打たれた弾みにはずれ、彼はとっさに恋人アンナ(桜咲彩花)の手を取って走り去る。フレデリックこそ後に『数奇なる奴隷の半生』を書き、リンカーンの盟友になった黒人開放運動家である。柚香のまなざしの輝きは、2012年のロンドン・オリンピックの金メダリスト、女子柔道家の松本薫選手を想起させずにはおかない。それは強い意思を宿し何者も恐れず、真っ直ぐに伸びていく。フレデリックとアンナが下手客席通路へ逃げ去ると、舞台上手に置かれている階段の上にリンカーンが現われ、一条のサスペンション・ライトを浴びて歌う。彼のドラマはここから始まる。

神よ 私は誓う
たとえ大きな壁が立ち塞がろうと
必ず打ち砕いてみせると
 (作詞・原田諒、作曲編曲・玉麻尚一)

あなたは人間を等しくおつくりになられたはずだ。命の重みに変わりはないはずだ。神よ。

『風と共に去りぬ』と比べると、ドラマの始まり方がまったく違う。それはそのまま男役の担う意味の違いを語っている。ここにはひとかけらの郷愁も感傷も入り込む余地がない。まさに轟悠のニンにぴったりだった。

松井るみの装置・勝柴次朗の照明が精緻を極めている。センターに四角の壇を置き、壇と同じ高さの階段を左右に配置してある。階段はそれぞれ13段を数える(13という数字は何を意味するか)。主人公は神の前にただ独り立っている。彼の矜持はそこからきている。この優れた演出はKAAT神奈川芸術劇場でいっそう効果的だった。ここは舞台の天井が高く、上手階段上にすっくと立つリンカーンに降り注ぐ一条の長く鋭いサスは、神の光を思わせた。

星条旗の大階段 中央はリンカーンの轟悠
星条旗の大階段 中央はリンカーンの轟悠 ©宝塚歌劇団  禁転載

彼は独力で法律を学び、イリノイ州スプリングフィールドで弁護士として働く。中央の四角の壇のなかから引き枠が押し出されると、そこに机や椅子などが置いてあって、たちまちジョン・スチュアート(高翔みず希)の経営する弁護士事務所になる。やがてリンカーンは政治家をこころざし、ホイッグ党の州議会議員に選出され、メアリー・トッド(仙名彩世)と結婚する。メアリーは民主党の連邦下院議員スティーブン・ダグラス(瀬戸かずや)に求婚されていたが、思想を共有する人を夫に選んだ。

この評伝劇は「アメリカにおける奴隷解放運動」を語る思想劇である。この主題を展開するために、演出家はリンカーンを主役にしつつ、民主党のスティーブン・ダグラス、黒人活動家フレデリック・ダグラス、この2人のダグラスを巧みに動かして、リンカーンに絡むサブストーリーを形作っていく。

膨大かつ錯綜した資料のなかから、立体幾何学の図形のように奇麗に整った1個の劇的構成を取り出すのは、いつに変わらぬ演出家の優れた手腕である。第一のダグラス、民主党のスティーブン・ダグラスは、同じイリノイ州選出の政治家として、ホイッグ党のリンカーンと対立していた。またメアリー・トッドの求婚者のひとりだった。ここから出発して演出家は、スティーブンをリンカーンの公私にわたるライバルとして、具体的に物語を進めて行く。一方で第二のダグラス、黒人活動家のフレデリック・ダグラスは折に触れてリンカーンと対話し、ドラマの思想的側面を担う。アメリカ合衆国の領土に新しく加わった西部諸州に奴隷制を認めるか否か。リンカーンとスティーブン・ダグラスはこの点を巡って論戦を闘わせた。スティーブンはリンカーンの奴隷廃止論に対して人民主権論者として知られている。

スティーブン 住民自治に委ねるのだ。奴隷を認める州、認めない州、そのふたつでバランスを取れば、アメリカは永遠に、そして平和に存在することができる。

リンカーン 国民の半分が奴隷、半分が自由――それで国家は成り立たない。

リンカーンのこの主張は、新約聖書「マルコ福音書」の「分かれたる家は立つこと能(あた)はず」を引用し、「分かれたる家の演説」として、よく知られている。リンカーンは雄弁家だった。轟の最大の魅力も声にある。夏の樹影のように克明な輪郭を持ち、地上に深い陰をおとしている。相手を論破する芯の強さ。自分の内面を見つめる孤独な愁い。2人は1860年の大統領選挙を闘い、ホィッグ党を解体して新しく共和党から出馬したリンカーンが勝利した。

大統領就任祝賀パーティから第2幕が幕を開け、南北戦争が始まる。アメリカは嵐に揉まれる。装置がこのことを反映して、左右一対の13段の階段はそれぞれ2つに分かれ、センターの壇と合わせて5つのブロックが移動し、位置を変え、形を変えていく。合衆国軍総司令官に任命された名将リー大佐(英真なおき)は、階級章を大統領に返上して故郷バージニアへ戻り、南軍の指揮を取る。英真は専科のベテランで、その悠揚迫らざる大きな間こそ男役の理想である。戦況は逼迫し、北軍不利の報告がホワイトハウスの執務室に次々にもたらされる。長男ボビー(亜蓮冬馬)は軍に志願する。リンカーンの4人の子の内3人は幼い内に死に、彼ひとり成人した。大統領は多忙で、あまり子供を見てやれなかった。

リンカーン お前はまだ若すぎる。

ボビー 父さんも母さんも、親らしいことなどひとつもして来なかったじゃないか。僕は軍に入隊する。僕自身の意思で。父さんが大統領の権限で僕を除籍するのならばすればいい。だがここへは戻らない。

メアリー あの子の入隊を許可しないで。

リンカーン それは出来ない。

メアリー あなた。それでも父親なの。

大統領執務室を出ていく母子の後ろ姿をじっと見送るリンカーンの孤独感の深さ。ここもまた轟の独壇場である。

リンカーンは合衆国憲法に奴隷廃止の条項を追加しようとする。合衆国は南部の独立を認めていないから、この条項は法的には南部諸州を縛り、南北戦争の思想的側面をいよいよ明確にする。憲法改正には議会で3分の2を超える賛成が要る。共和党だけでは20票足りない。第一のダグラス、民主党のスティーブン・ダグラスが議会工作に協力する。彼は南部と戦うことには反対していたが、開戦すると最大の協力を惜しまず、過労のために体を蝕まれていく。メアリー夫人はセントジョンズ教会で祈りを捧げていて、スティーブン・ダグラス――かつての求婚者に出会う。

スティーブン ゲティスバーグの戦いは北軍の大勝利に終わりましたよ。息子さんも無事だ。

メアリー 戦争は、あなたほどの方をも変えてしまうのですね。

スティーブン 私を変えたのは戦争ではありません。大統領閣下です。ミセス・リンカーンーーいや、メアリーさん。素晴らしい男をあなたは夫に持たれた。

公私共に終生のライバルだった、リンカーンとスティーブンのドラマの私的側面は、北軍の勝利と平仄をあわせるようにここに結実している。1人の娘役を巡る2人の男役の対立と友情は、宝塚の切り札である。瀬戸かずやの竹を割ったようなたたずまいは星組の名トップだった瀬戸内美八を髣髴させる。この切り札は、娘役に魅力がなくては利き目がない。メアリー夫人については、演出家は彼女が悪妻だとする従来の説を排して、聡明な女性に描いている。ただ、3人の子を失ったことが彼女を苦しめた。この役の仙名彩世は歌唱に優れ、演技も確かで、聡明な雰囲気を帯びている。

リンカーンがペンシルベニア州ゲティスバーグの国立墓地の開所式で行なったのが、名高い「人民の人民による人民のための政治」の演説で、この作品の題名もそこから取られた。市民たちは「For the people」を合唱する。

Government of the people,
By the people, for the people

1865年4月3日に南軍は南部連合の首都バージニア州リッチモンドを撤退し、つづいてアポマトックス・コートハウスの戦いで、リー将軍が降伏して戦争は終結する。

リンカーン ボビーはもうすぐ帰ってくる。しばらくは家族水入らずで過ごそう。

メアリー あなた。

リンカーン 長い道のりだった。これからはもっと険しい道のりだ。ついてきてほしい。

しかしそれは叶わず、終戦から6日後リンカーンは暗殺者の凶弾に倒れることになる。

終幕、5つのブロックに分かれていた装置は1つの大きな階段の形にまとまっている。センターの引き枠は既に第2幕の半ばから180度回転して、裏側に背負う13段の階段を見せていた。今は上手下手の階段の真ん中にぴたりと嵌って、一続きになった。嵐の航海を終え錨を下ろした船が港に入っている。ただ岸壁に完全には横づけにはなっていなくて、上手を奥に下手を前に船体を斜めに振っている。

大階段を上手から下手にかけて、有村淳衣装の焦げ茶のフロックコートに長身を包んだリンカーンが袈裟懸けに上って行く。もうすぐ上りきるところで銃声が響き彼はゆっくり倒れる。人びとが大階段に1段置きに赤い布を敷いていく。赤い布が8段。白い段が7段。計13段。階段の段数の意味が一挙に明らかになる。これは星条旗(スターズ・アンド・ストライプス)の条(ストライプス)の数だった。星を散りばめた青色の長方形が右肩に浮かび上がり、大階段は星条旗になる。上手向きに振っていた角度はゆっくりと正面を向く。ひとつの歴史に終止符が打たれ、合衆国は再生した。

階段が地上の光景ならば、背景は天空である。第1幕の間はそこは黒のカスミ幕で覆われ、漆黒の夜を示している。その奥には空を描いたドロップが隠されている。第2幕になると、黒のカスミ幕はアイリスカーテンになり、その中央の部分をアイリス(虹彩)のように縦横にすこしずつ開けていくと、奥のドロップに描かれている昼の明るい空が、背後から照明を当てられ、すこしずつ全容を見せていく。あたかも未来の希望のように。凶弾に倒れ天に召されたリンカーンが白のフロックコートに着替え、星条旗のなかを下りて来る。背景の絵は今はフルサイズになり、山の端が朝日に赤く染まり、アメリカの空は次第に輝きを増していく。これほど簡潔で含意に富む装置・照明をほかに知らない。KAATの華麗な空間にもよく似合っていた。

ちょうどこの作品の上演と重なり合うようにして、アメリカでは次期大統領の予備選挙がたけなわだった。アメリカ国内だけでなく、世界中の耳目を集めたのが、共和党候補者指名争いで、破竹の勢いで勝ち進んで行くドナルド・トランプだった。この大富豪は轟の姿を逆の角度から照らし出している。彼がイスラム教徒の入国禁止や、1100万人に上る不法移民の強制送還、あるいはメキシコからの不法入国を阻止するための国境の壁の建設などを口にするのを聞くと、『For the People』の冒頭のリンカーンのせりふが耳によみがえる。

あなたは人間を等しくおつくりになられたはずだ。命の重みに変わりはないはずだ。神よ。

2人が示しているものは正反対である。トランプは大衆迎合的なマジョリティの傲慢。リンカーンは社会の少数派と共に闘ったマイノリティの矜持。轟悠のリンカーンは美しい郷愁を誘うのではなく、現実の歴史と真っ向から切り結んでいる。

宝塚の男役はそこまで来ている。