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2019年12月に新橋演舞場で新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』が、菊之助の主演で昼夜の通し狂言として上演された(原作=宮崎駿、脚本=丹羽圭子・戸部和久、演出=G2)。これは「死と再生の物語」であり、舞台化を企画した菊之助の意図は充分に理解しつつ、脚本と演出に問題があると思った。

(撮影=西尾和子)
南仏の5月を彩るコクリコの群生。和名はヒナゲシ、あるいは虞美人草。人の命は死と再生を繰り返す。小さなヒナゲシのように。「Comme un p’tit coqu’licot」(ムルージ)。「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す/君も雛罌粟われも雛罌粟」(与謝野晶子)。

▼台本成立のいきさつ

 丹羽圭子は上演プログラムで次のように語っている。彼女はスタジオジブリで『ゲド戦記』『借りぐらしのアリエッティ』『コクリコ坂から』『思い出のマーニー』などの脚本を手掛けた人である。

スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーから脚本のお話をいただいたのは2年半ほど前のことでした。(中略)映画の経験はあるものの歌舞伎はもちろん舞台も初めて、しかもこの複雑難解な物語に、一体どうやって手を付ければよいのか……途方にくれていると、鈴木さんから救いのアドバイスがありました。『仮名手本忠臣蔵』は、全十一段すべてが見せ場。ナウシカもそのように作ったら?

脚本家はこのアドバイスに従って執筆し、歌舞伎の伝統的な表現方法は松竹の戸部和久に託した。「2年半ほど前」というと、ちょうど菊之助が2017年10月に歌舞伎座で『マハーバーラタ戦記』(脚本=青木豪、演出=宮城聰)を企画・主演していた頃である。菊之助は既に次の作品の手当てをしていたことになる。2つの作品は「死と再生を通して人間の命のあり方を問う」という共通の主題で貫かれ、いわば姉妹編をなしている。

▼古典歌舞伎の器に

 この主題を古典歌舞伎の器に盛ろうとした。菊之助はこう語っている。

歌舞伎が絶頂期を迎えた江戸時代の方たちがこの作品に出合ったら、どういう手法で歌舞伎に取り入れたか。そのことがベースになりました(2020年1月12日BS朝日「密着3000日! 尾上菊之助新たなる挑戦~ナウシカ歌舞伎の壮絶舞台裏~」)

この言葉に菊之助の矜持がうかがわれる。彼は若手俳優の中で最も正統な道を歩む者であり、そういう人が『風の谷のナウシカ』の主題に惚れて、これを舞台化しようと思い立った時、当然こう考えるであろう。またその意図を実現するために衣装、装置、音楽、振付から小道具に至るまで、スタッフが様々な工夫を凝らしている。
 しかしそれら全てを一つに束ねるべき台本が弱い。漫画の筋を追って見せ場を並べていくだけである。
 原作者宮崎駿は天才的アニメーターであり、菊之助はまだ若く、ことに立役については修行中なので、天才とまで言うのは控えるが、素質の良さは若手俳優の中では随一である。ただ江戸時代と違うのは、原作者と俳優をつなぐ鶴屋南北や河竹黙阿弥のような天才的狂言作家がいないことだった。
 こういっても決して丹羽圭子を貶めることにはならない。彼女もまた先に挙げた一見弱みを吐くような談話の裏側に、誰にも侵されない自負を示している。

私は舞台の台本を書くのは初めてなので、そのノウハウをよく知らない。しかし映画の脚本ならずいぶん仕事をしてご覧にいれましょう。

2020年2~3月になって、各地の映画館で上映された「ディレイビューイング」を見て、初めて談話の裏側に潜む意味に気づいた。映画のシナリオは舞台の台本とは違う方法論で書かれる。ビューイングで図らずもその一端を見ることが出来た。クシャナに扮した七之助のクローズアップは、水玉を散らすように美しい。
 これだけの才能を揃え、優秀なスタッフを擁する舞台が、あまり面白くなかった。端的に言えば、ここには全体を統括する天才的なプロデューサーがいなかった。

▼アニメ版と漫画版

 『風の谷のナウシカ』は宮崎駿監督によって1984年にアニメ版が制作され、その素晴らしさは今も圧倒的である。この時点では原作漫画は月刊『アニメージュ』にまだ連載中だった。アニメは原作の最初の部分を映画用に再構成している。
 人類は産業文明を発達させたあげく、戦争によって地球の環境を破壊しつくす。大地は有毒の瘴気を出す菌類の森「腐海」で覆われ、虫たちは巨大化し、ことに「王蟲」は凶暴だとして恐れられている。
 生き残った人々は、なおも戦争をやめず、北のトルメキア王国と南の土鬼(ドルク)帝国が、2つの陣営に分かれて戦う。北の小国「風の谷」は、古い盟約を楯にトルメキア軍への参加を強要され、病中の族長ジルに代わって娘のナウシカがガンシップの指揮を取る。トルメキア軍は二手に分かれて攻撃をしかけ、凡庸な3人の皇子は正面攻撃を受け持って戦果をあげる。皇女クシャナは頭が切れて、父王と兄たちに警戒されていたので、腐海を越える困難な搦手からの攻撃を命じられていた。
 ナウシカは皇女クシャナの軍に動員される。2人は初め反発し、やがて尊敬しあうようになる。土鬼帝国側はクシャナ軍を「酸の湖」のほとりで捕捉し、奇襲攻撃をかける。すなわち王蟲の幼虫を痛め付けて囮に使うのである。怒る王蟲の大群はクシャナ軍の宿営地に殺到する。ナウシカは王蟲の前に立ち、彼らの怒りを宥める。それは彼女だけに出来ることだった。王蟲は実は社会的弱者のメタファーであり、ナウシカは弱者に深いシンパシーを抱く者だからである。
 アニメ版はここで終わるが、漫画はその後も描き続けられ、1994年に完結し、全7巻の単行本にまとめられた。舞台版はこれによっている。

▼さらに遠い海へ

 舞台版のナウシカは、アニメ版の物語を序幕で語り終えると、メーヴェに乗って、さらに南を目指し、遂に土鬼帝国の聖都シュワに至る。そこには「世界の秘密」を隠す墓所があった。
 これは筆者の記憶に基づく舞台の要約である。実際はもっと多くの挿話が唐草模様のように組み合わされていて、その見せ場並列主義が観客を飽きさせる。原作漫画がそう書かれているというのは言い訳にならない。原作は読者一人ひとりが好きなだけの時間をかけて読む一冊の(7巻にわたる)読み物として、「戦記」の方法論で書かれている。戦記の面白さは戦う両陣営の内部における権力闘争である。しかも『風の谷のナウシカ』の場合、作者の視点はあくまでトルメキアの側にある。トルメキア王国内部の権力闘争が、人間同士の争いとして、普遍性を持っていることは、例えばシェイクスピアと同じである。これに対して土鬼帝国内部に展開されるのは、皇帝の超能力や僧たちの呪術がものを言う権力闘争で、人間の理解を超えている。
 この視点は新型コロナウィルスの世界的流行の時に不意にリアリティを帯びる。アメリカのトランプ大統領が「これは戦争で、私は戦時下の大統領だ」と言うのをテレビで見た。「戦争」の敵国はウィルスであり、暗黙の裡に(というよりも公然と)中国を指している。折からアメリカの権力闘争が、次期大統領選挙のための民主党内の候補者選びという分かりやすい形で進んでいる時に、中国内部の権力闘争は、誠に土鬼帝国のものと変わるところがない(トランプ大統領がそのように描いて見せる)。
 敵対する片方の側に視点を置く面白さは、しかし『風の谷のナウシカ part 2』として、べつの芝居に仕組み、この舞台の主題は「世界の秘密」に絞ってもらいたかった。