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3.時間が溢れ出てくる

 前シテ里女が姿を消した後、僧が旅寝の夜を明かしていると、後シテ佐用姫の霊は透冠(すいかんむり)、狩衣に大口袴、腰に太刀を帯びた男装で現われ、約束どおりに携えてきた狭手彦の形見の鏡を正面先の鏡台に安置する。しかし僧が向かい合うと、そこに自分の姿はない。

不思議やなこの神鏡を拝すれば、向かふ面は映らずして、さもなまめける男体の、冠正しき面色なり

鏡は僧を映さず、狭手彦の姿を宿している。女の執念が男を鏡の中に呼び出すのか、あるいは男の未練が今でもそこにとどまっているのか。
 僧は恋慕の罪を逃れ仏果を得るように説く。後シテは男装を解いて、佐用姫の昔の姿を現す。ここからが圧巻だった。

シテ 承り候ひぬさりながら、今宵一夜の懺悔を果たし、昔の有様見え申さんと

ワキ 云ふかと見れば沖に出づる唐土船(もろこしぶね)に鬨(とき)つくる

シテ 声は波路に響き合ひて

ワキ 松浦の山風

シテ 灘の汐合ひ

ワキ 千鳥

シテ 鷗の

ワキ 立ち立つ

シテ 気色に

地謡(地頭=浅見真州) 海山も震動して、海山も震動して、心も昏(く)れてひれ伏すや、地によって倒れ、地によって、立ち上がり跡を見れば、船は煙波に遥かなり。せん方並木の松浦山の上に登りて声を上げ

       [立廻り]

シテ なうその船しばし

降り積もった雪が月光の下で燻し銀の輝きを帯びる松浦潟の夜更けに、佐用姫の幽霊と旅の僧が向かい合っている。するとまるで唐十郎の紅テントで舞台の奥のカンバスがさっと開くように、目の前に大海原が豁然と広がり、唐土船がともづなを解いて出て行く。漕ぎ手の喊声が海山を震動させている。
 この光景の圧倒的現実感は過ぎ去った昔の出来事とは思えない。過去の時間が現在の時間を押しのけて目の前にあふれ出て来る。佐用姫はその時間に巻き込まれ、昔のままに白絹の領巾を「あげては招き、かざしては招き」するが、漕ぎ行く船は戻らない。そのまま狂乱して山を下り、形見の鏡を抱いて海士の小舟から身を投げ、千尋の波に沈んでいく。すると夜は白々と明けて、松浦の浦風が旅寝の僧の夢を覚ます。

4.ウロボロスの蛇

 僧が最後に見たのは、渦に巻き込まれるように橋掛かりを退いて行き、揚げ幕の側でなおも激しく領布を振る佐用姫の姿である。「彼女は少しも煩悩から救われていないではないか」とも思う。しかしそれが夢幻能の仕掛けである。佐用姫はまさに恋の渦に巻き込まれ、無明の闇に沈んだ。だからその幽霊が現われて救いを旅僧に願い、袈裟を授かる。それが前場の光景だった。
 その後でシテは約束どおり鏡を持ち出すまでしたが、いつのまにか無明の闇に戻っている。いつのまにかではなく、唐土船がともづなを解いたとき過去の時間が溢れ出てきてしまった。ドラマを支配する時間にゆがみが生じて、前場に続く後場が前場を呑み込もうとしている。あたかも自分の尻尾を呑み込もうとするウロボロスの蛇のように。
 『松浦佐用姫』の後場におけるダイナミックな展開は、数ある夢幻能のなかでも他に例を見ない。元々世阿弥の台本にそう書かれている。だがそれだけではなく、鵜澤久が演技・演出の工夫を加えた効果が大きい。この曲は室町時代には上演された形跡がなく、江戸時代以降も上演は稀だった。1963年に復曲され、2001年になって観世流の現行曲に編入された。復曲の歴史が浅いので、演出には未整理のところが残されている。そうした部分については「創りあげる」仕事をしたと久はプログラムに記している。この言葉に1人のアーティストの精神の輝きを思った。
 演出は「時間のゆがみ」に焦点を置いている。目の前が豁然と開けて大海原が出現し、佐用姫が狂うという展開は、侠手彦の形見の鏡が媒介している。その鏡はこれに向かい合う人を映さず、侠手彦の姿を宿している。鏡の前に立つ男装の後シテはまさにその姿にほかならない。後シテの扮装については、世阿弥自筆本には女姿の演出注記が見られ、復曲では「男装の女」の出立ちが多かった。今回の男装はしかし、確立された型に従ったのではなく、新たに全体の演出を検討する中から得られた。鏡が現実を映すのではなく、現実が鏡の中の仮象を映し出す。現実と仮象が反転している。それが佐用姫の男装の意味である。
 これをきっかけに時間と空間がゆがみ始める。正面先に安置された鏡が大きく膨れあがって大海原になり、侠手彦は唐土船に乗って遠ざかって行く。すべては鏡の中の男が――すなわち女の執念が演出している。前シテと後シテは男装の回転ドアを通り抜けて、異なる時間に身を置く者となる。前シテの郷愁を誘う蠱惑的美しさ。後シテが揚げ幕の側まで退きながらなお激しく領布を振る情念の深さ。その対比が久は誠に鮮やかだった。
 こうして終曲を迎える。僧の前から佐用姫は消え去る。
 一体この能は何を言いたいのであろうか。解脱は束の間の幻想なのか。観客は救済された前シテと救済されざる後シテのどちらを信じたらよいのか。