世界がジェンダーについて中立的でない以上、男と女は常にホームとアウェーの立場に置かれている。たとえ男と女の関係が奴隷と主人で、二人が愛し合っている場合でさえも。

『金色の砂漠』の明日海りお ©宝塚歌劇団
『金色の砂漠』の明日海りお ©宝塚歌劇団

 1 新進演出家・上田久美子の夢幻能的世界

 古代中東の砂漠をキャラバンが行く。上弦の月は砂嵐にまみれて西へ傾き、人びとは疲れ果てている。行き倒れの男女のむくろが転がっている。誰かがつぶやく。

「葬ってやりましょう」
「放っておいてもすぐ砂に埋もれる。こんな砂漠では」

男が隊列を離れて屍に近づき、女がそれに従う。二人はジャー(芹香斗亜)とビルマーヤ(桜咲彩花)。ともにイスファンの王族で、故国を追放されている。サンドベージュ色の衣装の「砂の男」と「砂の女」たちが、二人の目の前でむくろを頭上に差し上げ、上手袖へ運び去る。むくろはこうしてすぐに砂に埋もれていく。ジャーはわずかに後を追おうとするが、思い止まり、ふと振り返る。
 そのとき舞台上の盆が回り出し、ジャーはせり下がる。盆の反対側から、砂に埋もれていった男、ギイ(明日海りお)の亡魂が、バルバト(琵琶)を抱いて正面先へせり上がってくる。彼は美しい主題歌「金色の砂漠」を歌う。

この砂漠のどこかに
美しい場所があるという
金色(きんいろ)の砂の海に
この命 砕け散る 砕け散る
(作詞・上田久美子 作曲・青木朝子)

或る場所を訪れた人(ワキ)が死者の幽霊(シテ)に出会い、その場所にまつわる過去の出来事を聞くという夢幻能の形式が、花組公演『金色(こんじき)の砂漠』(2016年11~12月宝塚大劇場、2017年1~2月東京宝塚劇場)にある。
 作・演出の上田久美子は新進の演出家で、これが大劇場作品の二作目になる。第一作の雪組公演『星逢一夜』(2015年)では、円環する時間の中で、愛し合う二人を夢幻能的に出会わせ、同年の読売演劇大賞・優秀演出家賞を受賞した[1]。それにしても、中世に始まる劇形式がどうして現代の作品にまで影響をもたらすのか。能狂言研究家小田幸子は「幽霊がいっぱい」(『銕仙』536 /2005年)で「伝統演劇の水脈が無意識にせよ若手劇作家の心の底につながっているかもしれないと思った」と説くが、宝塚歌劇花組公演『金色の砂漠』もまた、その地下水脈から丈高く咲き出て、現代劇における夢幻能の形式の有効性を証し立てている一例である。

2 男役優位主義の転倒

 正面先にせり上がったギイの亡魂が「砂の男」「砂の女」たちと踊る内に、砂漠にイスファンの王宮の広間のセットが現われる。するとそこは客をもてなす宴会の場である。この国のジャハンギール王(鳳月杏)には世継ぎの王子がなく、三人の王女がいた。そこで王は娘たちの求婚者として、近隣の国から三人の王子を招いていた。バルバドを弾き語りするギイは第一王女タルハーミネ(花乃まりあ)付きの奴隷である。この国では、王族に女子が生まれれば男子を、男子が生まれれば女子を赤子の時から一緒に育て、特別な奴隷として身の回りの世話をさせる。ギイは自分が何者であるかを知らぬままに、そういう奴隷として成長した。今宵は宴席の楽師としての勤めを果たしているが、貴人の前では許可がなければ口も利いてはならない身分である。
 第一王女が大きな輿に乗って登場する。ギイは踏み段の代わりに輿の前に四つん這いになり、王女はその背中を踏んで広間に降り立つ。男役優位主義の宝塚で、娘役が男役の――しかもトップ男役の――背中を踏みつける光景を初めて見た。明日海りおの凄絶な美貌が、娘役に背中を踏まれて耐える屈折に似合っていた。
 宴が果て王女は再び輿に乗ろうとして、求婚者にも同乗をすすめる。このときギイが二人の踏み段代わりになるのをわずかにためらう。それを見た王女は、こう言い置いて去る。

「先ほどからの不機嫌の仕置きに、そこでそうしていらっしゃい」

この光景は何を意味するか。宝塚では基本的に「男と女の愛」を描く。愛には身分の違いというような障壁が伴い、それを男役の主導によってどう乗り越えていくかがドラマになる。男役は誇り高く、娘役は健気に振る舞う。しかしこの場面ではジェンダー的振る舞いが、従来の男役娘役のパターンと逆になっている。そのとき娘役の誇りは屈折する。王女の誇りは奴隷への愛を認めることを許さない。奴隷は王女を愛すれば愛するほど、誇りがずたずたに切り裂かれる。娘役が男役の背中を意地悪く踏みつけ、男役がそれに耐える光景は、ドラマの主題を語っている。ここでは人の誇りという心理が愛の障壁となっているのである。
 社会的なジェンダーの役割分担は、個人の内面に誇りという形でセットされて機能している。男はマジョリティとしての面子を重んじ、女はマイノリティとしての矜持を保って対抗する。男と女は性愛によって惹かれつつ、誇りの性格の違いによって対立する。男と女の関係が奴隷と主人である時、表面上の倒錯は水面下の本来の葛藤をいっそう鋭くする。
 世界はジェンダーについて中立的でない。ことに砂漠(正確には砂漠周辺)では男の方に大きく傾いている。キャラバンでは、これを率いる族長の判断ひとつでオアシスに導かれるか、砂嵐のなかで命を失うかが分かれるために、男の権力は絶対的である。この地域に生まれたユダヤ教・キリスト教の男権的性格はそのことを反映している。演出家が舞台に砂漠を選んだ理由もたぶんそこにある。

3 すべてを見ている者

 人びとが去った後、残されたひとりの男が観客に話しかける。

「今夜は僕らの恋の話をしましょう。それに、王妃様が作ったあの歌のお話をしたいと思います。なぜ僕が語り部なのかって? 仕方ありません、皆もういなくなってしまいましたから。ほら。砂まじりの熱い風が吹いてきました。砂漠からの風が吹くこんな夜には、懐かしい人たちの魂が戻ってくるような気がするのです」

こう語りかけるのは、幕開きに砂嵐の中にいた男、ジャーである。その時一緒だったビルマーヤは第二王女で、ジャーは彼女の奴隷だった。「王妃様が作ったあの歌」とはギイが歌っていた『金色の砂漠』を指す。「皆もういなくなってしまいましたから」とは、皆この世からいなくなって魂になったという意味である。この男ジャーと第二王女ビルマーヤだけが生き残ったのだ。
 このせりふはワキの名乗りにほかならない。ワキがシテの亡魂に出会い、彼の懺悔話を聞く。それがドラマ『金色の砂漠』の骨組みを形作っている。「僕らの恋」のカップルは二組ある。第一王女タルハーミネとその奴隷のギイは互いを激しく求め合い、第二王女ビルマーヤとその奴隷のジャー(この物語の語り部)の愛は互いを労わりあった。
 ドラマの時制は三つに分けられる。ワキが観客に語りかけている時点を現在とすれば、求婚の宴は既にシテの懺悔話の中の過去である。さらにそれに先立つ大過去があり、そこでは主人公たちはまだ少年少女で、樋口一葉の『たけくらべ』における美登利と信如のように、気の強い第一王女タルハーミネはギイの誠実さに惹かれつつ、その控えめな態度を歯がゆく感じている。
 タルハーミネは、少女の頃、王妃アムダリヤからこのように聞かされていた。

「そこでは金の砂が太陽の欠けらのように熱して降りそそぎ、その輝く砂嵐の中で肉体は消え、人は魂だけになる。そこは美しくて苦しい、得も言われぬ場所で、金の砂漠から戻った者は誰もいない」

「戻った者は誰もいない場所」とは死の世界にほかならない。だからもちろん王妃だって金の砂漠に行ったことなどない。ただ『金色の砂漠』という歌にすることだけができただけだ。しかし少女のタルハーミネは、恐らく無意識にだろう、ギイの気を引くために、彼が必死に止めるのも聞き入れずに「金色の砂漠」を探しに出かけて砂嵐にまかれてしまう。ギイはやむなく美少女の額に傷を負わせるほど強く引っぱたいて、王宮に連れ戻す。
 王族を害した奴隷は死罪になる。しかし王女は数学の教師に濡れ衣を着せてギイを庇い、代わりに自分が受けた傷と同じ箇所のギイの額に、ナイフで同じだけの傷を刻む。ギイはその夜、奴隷の長老ピピ(英真なおき)に嘆きを訴える。

「本当は嫌なんだ。あいつに着替えをさせたり、同じ部屋で番をして寝たりするのも。だって、そんなのおかしいじゃないか」
「はは。女というのはだんだん美しくなるものだからな。私も子供の時からアムダリヤ様のおそばにいて、そう思ったことがある」

長老ピピはやはり幼い頃から奴隷として長く王妃に仕えてきた。その歳月が彼を賢者にした。

「ギイ。愛というのには2つあって、相手を自分のものにしたいという愛と、相手の幸せに尽くす愛がある。尽くすことだ」

 

[1] 『星遭一夜』については、拙稿のレビュー「時間は円環し過ぎ去った時が甦る」がウェブ版シアターアーツに掲載されている。大劇場デビュー以前のやはり優れた2つのバウホール作品、月組『月雲の皇子(みこ)』(2013年)と宙組『翼ある人びと』(2014年)のレビューは雑誌『宝塚イズム』27と28(青弓社)に掲載されている。