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『日輪の翼』 KAAT神奈川芸術劇場/やなぎみわステージトレーラープロジェクト 撮影=bozzo
『日輪の翼』 撮影=bozzo

オバたちの視点に集約した舞台が見せる芸能の漂泊

 原作小説の視点はオバたちと美青年ツヨシとの間を交互に行き来している。オバたちは行く先々で土地の神々に祈りを捧げるが、その浮浪者のような風体は、土地の人から見ると、さながら定住農耕民の共同体の周りをうろつく薄汚い他郷の者である。話のこのパターンはどこへ行ってもあまり変わらない。
 一方ツヨシの恋のアヴァンチュールは波乱に富んでいるし、叙述の分量としてもこちらの方が多い。ことに一宮でツヨシに出会い、諏訪から琵琶糊の瀬田まで一緒に旅をするタエコ、瀬田で出会う4つの乳房を持つララの存在は圧倒的である。
 舞台がこうしたディテールを詳しく語り出すと、翌朝までかかってしまうであろう。脚本は視点をオバたちの方に集約して、物語を巧みにまとめている。すべての出来事は彼女たちが三味線を弾きつつ自分たちの漂泊を語る時、そのなかの挿話として畳み込まれていく仕掛けだ。道行唄の旋律は御詠歌に似て、詞章は説経節の素朴さを思わせる。すなわちこの道行は、オバたちの先祖が漂泊した中世をなぞっている。
 オバたちには重森三果(和楽アーティスト)、SYNDI ONDA(歌手)、ななな(クラウン)、檜山ゆうこ(ボイス・パフォーマー)、南谷朝子(俳優)が参加している。役としては年老いた女性だが、演者たちは若く奇麗で、生き生きとした光彩を放っている。

「ステージトレーラー」『日輪の翼』 KAAT神奈川芸術劇場/やなぎみわステージトレーラープロジェクト 撮影=bozzo
『日輪の翼』 撮影=bozzo

 芸能の漂泊を華やかに演出するために、さまざまな工夫が加えられている。随所にポールを立ててポールダンサーが、ステージトレーラーの傍らに駐車した巨大なクレーン車から地上まで長く伸びたロープを使ってサーカスパフォーマーが、客席の背後から投げかけられる照明を受けて、蛇のように体をくねらせている。4つの乳房を持つ女性も舞台ではララのほかにもう1人キキを用意し、藤井咲有里と松本杏菜が胸元を開いてデュエットを踊る。

「ステージトレーラー」『日輪の翼』 KAAT神奈川芸術劇場/やなぎみわステージトレーラープロジェクト 撮影=bozzo
『日輪の翼』 撮影=bozzo

 オバたちの視点が前面に出て、ツヨシのエピソードが背後に沈むのに伴い、中上健次の他の2作品、1つは『紀伊物語』の中の「聖餐」、もう1つは『千年の愉楽』からの引用がなされている。前者は兄妹相姦を語り、後者は「路地」から出て、ブエノスアイレスのダンスホールで歌手デビューをした「オリエントの康」を描く。そのとき三味線の道行唄ではなく、バンド演奏が行われ、音楽面の効果は大きい。また兄妹相姦は「路地」を暗く彩る記憶である。
 ドラマの陰影はそれだけ濃くなるが、「オリエントの康」の挿話はやや唐突かと思われた。彼が白のスーツで颯爽と梯子の上に現れ、「路地」の歴史と地勢に関する長ぜりふを言い出すとまごつく。文章の構成が複雑なので、口頭で聞いても意味を追いにくい上に、そもそも文字で書かれた物を読んでも分かりにくいのだ。

母子神信仰

 『日輪の翼』の構造は母子神信仰だと考えられる。
 柳田國男は「一寸法師」や「桃太郎」の昔噺の背後に、今は忘れられた神話を想定した。この神話の根底にあるのが母子神信仰である(『桃太郎の誕生』)。これら「小さ子」は水のほとりに出現し、生まれた時は小さくやがて見事に成人する。母と子で一対の神である。桃太郎の母は姿を見せない。「小さ子」が出現するのが海に近い場合は、「海神少童」と名づけられ、背後に母が姿を見せる。母は大海原の竜宮城にゆかりを持っている。日本人の先祖が海辺に漂着し、海辺から山の中へ入って行くに連れて、母の姿は見失われていった。
 『日輪の翼』のオバたちは、合わせて1人の人格を形作っている。オバは川へ洗濯に行って、桃を拾うお婆さんであり、辻本佳扮するツヨシは桃から生まれてお婆さんに育てられる桃太郎である。オバたちの話ではツヨシは生まれた時ひ弱で、生母が養育を放棄したので、代わる代わる面倒を見てもらったという。今では彼女たちでさえ彼に名前を呼ばれると、胸がときめくほどの美青年に成長した。ツヨシの周りにはトレーラーの運転を交替する上川路啓志の田中さんと、トレーラーに伴走するワゴン車を運転する2人の若者がいるが、この3人はツヨシの分身である。

「ステージトレーラー」『日輪の翼』 KAAT神奈川芸術劇場/やなぎみわステージトレーラープロジェクト 撮影=bozzo
『日輪の翼』 撮影=bozzo

 柳田國男の研究を引継ぎ、世界的視野で神話を比較検討した石田英一郎は、桃太郎の昔噺では姿を見せず、「海神少童」の背後には見え隠れする女性を「大地母神」だと考えた。その傍らにいる「小男神」は大地母神から生まれた穀物神である。この一対の母子神が水辺にあらわれるのは「大地はその豊饒力を水に負う」からにほかならない(『桃太郎の母』)。
 ツヨシの運転するトレーラーは、オバたちの少女時代の記憶をとどめる一宮を除いて、伊勢、諏訪、唐橋、日本海ルート、恐山、東京と、海辺あるいは湖畔の土地を経巡っていく。近江の琵琶湖畔唐橋に現われた4つの乳房を持つララこそが物語の核心を突いている(舞台のララとキキの2人はやはり合わせて1人の人格である)。この時ツヨシはまさしく琵琶湖という「淡水の海(あはみづのうみ)」(近江)にたたずむ「海神少童」であり、ララはその母親にほかならない。
 ツヨシの母は乳飲み子を置いていずこかに去った。ツヨシは母が兄の子を産んで、罪の意識から子の自分を捨てたのではないかと疑っている。ひ弱だったので母親が育児放棄したというのは、オバたちがそう言いつくろっているだけなのではないか。彼は自分を捨てた母を捜すために、冷凍トレーラーを駆ってオルフェのように黄泉の国を巡って行く。彼の過激すぎる恋のアヴァンチュールがこのことを物語っている。
 ツヨシとララは、アヴァンチュールのなかで巡り会っている。瀬田の唐橋は、「路地」で歌われる「兄妹心中」の故地でもあった。ツヨシを捨てた母は唐橋の上でわざと兄に撃たれて、琵琶湖の竜女になった妹だったのかもしれない。その竜女がララになって、捨てた我が子に逢いにきた。兄妹相姦が母子相姦になって繰り返されている。
 こうした思いに浸りながら客席に身を置いていると、時は過ぎ空を雲が流れ、汐の香が濃く薄くなる。ふと自分がまだ幼く、亡き父や母がそばにいて、舞台に立つ俳優もまた昔なじみの懐かしい人びとのような気持ちに襲われる。人は何処から来てどこへ行くのか。こうした感慨を誘う舞台に逢うことは滅多にない。それがこの夜のかけがえのない体験だった。

幕切れに向けて――「夏芙蓉」

 ツヨシはララと3日間の至福の時間を過ごした後、再び冷凍トレーラーの運転台に戻って、さすらいの旅をつづける。旅は果てがなく、舞台には終わりがある。その時彼はどうするのか。さらに旅をつづけるのか。唐橋のララの元に戻るのか。だがそこにララは果たして存在するのか。舞台はすべてを観客の想像力に委ねて終演を迎える。
 いま見たことは幻だったのか? ただひとつ確かなことは、ひとつひとつの公演がどこで催されようと、終演がどういう結末になろうと、夏芙蓉は影の形に添うように彼の側を離れることはない。ステージトレーラーは再び蝶番をきしませ、開演の時と反対の順序で天板と両側面と後尾を奇麗に折りたたみ、運転台と荷台を別々にくねらせて走り去った。次の公演地新宮で、天板の内側を飾る夏芙蓉を再び高く掲げるために。
 「路地」の歴史は定住農耕民から疎外されつつ始まった。それ以来夏ごとに裏山で花開き、馥郁たる芳香を放ちつつ何百年の樹齢を重ねてきた夏芙蓉が、人びとの思いのなかにだけあって現実には存在しないのは、本来は定住農耕民の信仰の対象だったことを物語っている。だからこそこの木は、山に分け入って母神を見失った「路地」の「小さ子」の憧憬と矜持を担う役割を今も果たしている。
 夏芙蓉とは大地母神にほかならない。