狂信の果てに服喪の可能性はあるのか――山の手事情社『タイタス・アンドロニカス』ウェブ配信/野田学
狂信の在処
山の手事情社の代表作と言ってもよい『タイタス・アンドロニカス』(安田雅弘=演出)が6月30日までEUジャパンフェスト日本委員会の支援により、無料配信されている。2010年9月、吾妻橋にあった今はなきアサヒ・アートスクエアでの公演の録画だから、もちろん、コロナ禍の下で作られた舞台ではない。しかし、この作品には、コロナ禍の現代だからこそ響く要素がこんなにあるのかと、いささか驚いた次第なのだ。
このコロナ禍で、政治指導者の資質があらためて問われることになった。どうしてこの人についていくと決めちゃったんだろうという事態が、世界のいくつかの場所で起きている。リーダーがふらふらするだけなら、よくあることだ。「君子豹変す」で構わない。しかし反省もなく、言い訳と罪のなすりつけ合いばかりをしているようでは、絶望的ではないか。民主国家であれば、最終的には選んだ人の責任だ。それにしても、あの時にどういう狂信がそうさせたのか、選ばれた人に票を入れていようがいまいが、その問いかけは結局有権者一人一人に跳ね返ってこなければならない。「なぜあいつらは」と他人の愚かさを嘆くだけでは、分断しか生まれないだろうからだ。少なくとも現在の分断のありようは建設的な批判の可能性を孕むものと思われない。ならばその先にあるのは侮蔑と憎悪だけである。
山の手事情社の今回の配信は、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』もそういう狂信の物語であることを思い知らせてくれる。シェイクスピアの中でも最も残酷度の高い作品だが、帝政ローマという国家体制において、愚帝サターナイナス(山田宏平)を選ぶ過程の責任が、最終的にローマの民にあることをシェイクスピアは隠そうとしない。ゴート族との戦いを率いて、身内にも多大な犠牲を出しつつ帝政ローマ軍を率いたタイタス(浦弘毅)は、次期皇帝にという声があったにもかかわらず、民衆の一任を得て、先帝の長男サターナイナスを皇帝に推す。サターナイナスは、ひとたび皇帝となると、自分の後ろ盾となったタイタスの一人娘ラヴィニア(山口笑美)を妻に迎えようとする。彼女はサターナイナスの政敵である弟バシエーナス(野々下孝)の許嫁だから、完全な横恋慕であるばかりではない。彼はタイタスの忠誠を試しているのである。皇帝との縁組みをタイタスの息子達に反対されると、新帝は自分の後ろ盾であるタイタスを即座に切り捨てる。それでも飽き足らず、ローマの宿敵だった美貌のゴート族女王タモーラを妻に迎える。自分の息子をタイタスに生け贄にされたタモーラ(倉品淳子)一派によるアンドロニカス一族への復讐は、そこから始まる。
タイタスはなぜ、娘の許嫁であるサターナイナスの弟であり政敵でもあるバシエーナスを推さなかったのか。それこそ民衆の声に従って、自分から皇帝になっても良かったではないか。しかし、タイタスはそのようなタイプではない。彼はひとえに、高潔イデオロギーを狂信していたのだろう。自分は権力欲から軍功を立てたのではない。ローマの秩序は守られねばならない。ならば長幼の序は尊重されるべきだ。まして身びいきとみられては、はなはだ迷惑だ。かくして彼は、あくまで民衆に決断を託された者として、娘の許嫁ではなく、先帝の長男であるサターナイナスを推す。推した以上、忠誠義務が生じる。その義務を果たすべく、サターナイナスの横恋慕に異を唱えた自分の息子まで、新帝への無礼を廉に殺害してしまう。これを狂信的高潔と呼ばずしてなんとしよう。