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3.第一のドラマトゥルギー解釈:錯乱と混乱

 ムヌーシュキンは「東洋には俳優の技芸があり、西洋にはドラマトゥルギーがある1)Béatrice Picon-Vallin (Introduction, choix et présentation des textes par), Ariane Mnouchkine, Actes Sud-Papiers, 2009, p. 52.」とも述べる。ところが、この作品のドラマトゥルギーについて観客が抱く最初の印象は、錯乱と混乱のそれであろう。

 セノグラフィが優れていることは先述したが、多くの批評家はドラマトゥルギーに弱みがあることを指摘している。『ル・モンド』の批評家ブリジット・サリノ(Brigitte Salino)は「ムヌーシュキンはシークエンスをつなぎ合わせるが、それらはひとつの全体をなすのに困難を抱えており、狂言から着想を得て、確かに喜びに満ちているのではあるが、もっと深掘りされればよくなるはずの場面によって、さらに過ちを犯す。単純にすぎるのだ」と指摘する。『リベラシオン』の批評家アンヌ・ディアトキン(Anne Diatkine)は「全体の筋立てが(あまりに)緩い」と述べ、「盛り込みすぎて失敗している」(Qui trop embrasse, mal étreint)と結論づけている。

 しかし本来、作品の主筋は簡単に要約できるはずである。コーネリアが夢見て想像し、束の間存在するこの島において、熱心に演劇祭を支援する女性市長の山村(ニルパマ・ニチヤナンダン、Nirupama Nityanandan)が、彼女と敵対し、カジノ建設によって金儲けを企む男性の助役らを相手に、最終的に勝利する、というものである。ところが、両方の陣営には少なくとも5、6人の登場人物が存在するために、実は主筋の把握さえ容易ではない(太陽劇団のお約束といえばそれまでだが、全員の俳優に一つないし複数の役/出番をつくらなければならないので、ドラマトゥルギーが要請する以上に登場人物が増えるのだ)。カジノ構想を推進する側にいた助役の高野(ジョルジュ・ビゴ、Georges Bigot)が女形に扮しては、さらにレバノン、ベイルートへの逃亡を図る場面(カルロス・ゴーンを想起させたかったのだろう、だがなぜ?)や、カジノ構想の協力者であるフランス人ジャン=フィリップ(セバスチャン・ブロテ=ミシェル、Sébastien Brottet-Michel)がブラジルに活路を見出す場面などは、むしろない方がよかったと思うほどに、ドラマトゥルギー上の必然性も必要性も感じられない。

© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO

 この「詰め込みすぎ」の印象は、副筋であるはずの演劇祭に世界各地から劇団——日本から2劇団、イスラエル=パレスチナ、香港、ブラジルから1劇団ずつ、これも多すぎたであろう——が招聘され、次々に舞台に現れては、それぞれ多言語を用いて、リハーサルを行い、作品というよりは「一芸」を披露することによってさらに強められる。コーネリアの高校時代のフランス語教師スピノザ(シャホイエール・ベヘシティ、Shaghayegh Beheshti)は、詩的(poétique)であり政治的(politique)であるようなテクストを引用するが、混乱したドラマトゥルギーに光をもたらすには至らない。冒頭に始まって、作品中も携帯電話の呼び出し音がたびたび響くが、これもまた作品にリズムを与えて引き締めるというよりも、しつこさ、くどさの印象を逆に生み出してしまっている。

© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO
© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO

 

4.第二のドラマトゥルギー解釈:民主主義のユートピア

 演劇祭は政治演劇のフェスティヴァルであり、香港人、パレスチナ人、イスラエル人、アフガニスタン人から民主主義や平和のユートピアを求める主張がなされる。日本の夢に、ムヌーシュキンの民主主義の夢が重ね合わせられる。その出発点となるのは私たちの民主主義が危機的状況にあるという——いささか凡庸な——主張ないし事実である。劇中で台詞として発される習近平、プーチン、ボルソナロ、ネタニヤフに対する怒りは容易に理解できるが、これもまた容易な水準にとどまる。観客の大半は、ムヌーシュキンと同じ民主主義を擁護する立場から同様の危機感を抱いているにちがいなく、すでに同意している人を説得することに挑戦的な部分は存在しないからだ(とはいえ、イスラエル=パレスチナ劇団のように、2023年10月7日以降のガザ情勢と響き合って、強いメッセージ性を持つ場面もある。これは後付けされたものではなく、初演時から変わらずにある場面と台詞である)。

© 後藤敦司 ATSUSHI GOTO

 民主主義が危機的状況にあることは日本も変わりないはずだが、日本の政治家の名前が口にされることはない(もちろんカジノ構想は維新の会を思わせるし、実際、カジノに言及する場面では東京よりも京都の方が観客の反応は力強かった)。それが日本の劇場や観客に対する忖度であったかは分からないが、怒りは、より匿名的な家父長制、男性中心主義に向けられているともいえる。それは筋における男女の政治的対立だけでなく、男性を中心として成り立ってきた日本の伝統芸能における数少ない女性実演家の起用にも見られるといえよう。

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1. Béatrice Picon-Vallin (Introduction, choix et présentation des textes par), Ariane Mnouchkine, Actes Sud-Papiers, 2009, p. 52.