「女性」の現在・過去・未来 〜「世界演劇祭(テアター・デア・ヴェルト)2023」フランクフルト-オッフェンバッハ/柴田隆子
「女性」の現在・過去・未来
今回取り上げた3作品は、女性をテーマとするアーティストによるものであるが、「女性」をどのように捉えているかは三者三様である。そして筆者にはこの3作品が「女性」の現在・過去・未来を表わしているように思えてならない。昭和の日本女性の親族関係を想起させる『Wstyd』には、世代間の違いによる女性の価値観の違いが見てとれる。家族の歴史を辿る枠組を採用していることもあり、語り手は現在であってもそこでテーマ化されているのは、過去の女性たちの姿である。それに対し『アンゲラ』はグローバル化の進んだ未来の世界を彷彿とさせる。そこでは人間もアバターも、声と身体は別々に再生され、個のアイデンティティさえ疑問に付される。そのような世界で出産という再生産に関与する「女性」の存在は、個を攻撃する自己免疫疾患のようなものなのかもしれない。
『バッコスの信女』で描かれる「女性」もまた、個のアイデンティティは侵食されているが、こちらは様々な二項対立を内在化させ、その飼い慣らしにまだ苦労している段階である。主人公である主婦はあえて複数の世界を持たない。彼女の単調で平凡な日常の世界の影に、過去の仕事のキャリアやハプニングバーの出来事や獣人の子育てなど複数の世界がある。しかしそうした世界は、彼女にとってなかったことにされている。『Wstyd』のヴォドヴィックのように過去と対話することもなければ、『アンゲラ』のようにループすることもない。彼⼥は現在の日本で「女性」をアイデンティティとした場合の立ち位置を示す代弁者である。そしてこの過去とつながりを持ちえず、未来に希望を見ることのできない存在が、「女性化」された存在なのである。
世界演劇祭での観劇は、客席にも複数の世界がせめぎ合っていることが体験できる稀有な機会となった。私たちは同じ時を⽣きているにも関わらず、人との距離感や家族との関係、性のモラルや規範意識、環境問題への意識の違いなどで、上演に別の世界を見る。本稿では3作品を取り上げたが、演劇祭には他にも女性性をテーマとする作品が上演されていた。ほかの作品を観劇すればまた異なった見方ができたのかもしれない。束の間の訪問による観劇体験ではあるが、世界演劇祭で複数の世界が、複数の可能性が、舞台や客席に開かれていたことは確かである。