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ゴーシャ・ヴォドヴィック『Wstyd(Shame)』(フランクフルト劇場カンマーシュピール、7月2日観劇)

Wstyd (Scham)
Gosia Wdowik
©Maurycy Stankiewicz

 作・演出のマウゴジャーダ(愛称ゴーシャ)・ヴォドヴィックは、ポーランドとドイツを拠点に活動する演出家である。ドイツ・ギーセン大学、ポーランドのワルシャワ演劇アカデミーを経てアムステルダムのDAS劇場の修士課程に進んでいる。修了制作を元にした作品『彼女は誰かの友達だった(She was a friend of someone else)』(2022)は2023年5月のブリュッセル国際演劇祭クンステン・フェスティバル・デザールに招聘され話題となっていた。
 『Wstyd』(2021)はポーランドのノヴィ劇場のワークショップ作品『ガールズ』(2017)を展開した自伝的三部作の第三部にあたる。この三部作は感情に基づくコミュニティ構築をテーマとしており、『恐怖(Fear)』『怒り(Anger)』に続きポーランド語で「恥」を意味する本作は、社会的不平等を生み出す機能やツールとしての羞恥心に注目する。『ガールズ』では女性であることや演劇現場において「女の子」として男性より格下に見られることへの葛藤、怒りの発露を恥ずかしいと感じることに対する参加者の意識を扱ったのに対し、本作では親族関係のコミュニケーションにおける「恥」がテーマとなっている1)Macelina Obarska, “Wstyd”, reż. Małgorzata Wdowik. Culture. pl, Institut Adama Mickiewicza.

 本作はフランスの社会学者で作家でもあるディディエ・エリボンの小説『ランスへの帰還』に着想を得ている2)Powrót do domu. Powrót do teatru. – rozmowa z Małgorzatą Wdowik i Agatą Baumgart wokół spektaklu “Wstyd” Hejnał teatralny/Boska Komedia TV, 07.12.2021. Kraków 50-20.。2009年に刊行され、2019年にはドイツ版もベストセラーとなった同書は、父親の死後に郷里に戻り母親との再会を果たす著者の半生を描いており、同性愛や労働者階級の出自への自身や家族に対する羞恥がテーマにある。ヴォドヴィックはフランスとポーランドとでは労働環境や社会構造も異なることから、自身の父母や祖父母の軌跡を辿りながら描くという枠組のみを採用している。ヴォドヴィックの母や祖母を実際に取材し、コロナ・パンデミックで会えなかった時間とその後の再会を軸に、家族やコミュニティにおける羞恥の問題を扱っている。

 舞台ではヴォドヴィック(Jaśmina Polak)とその母親(Ewa Dałkowska)を演じる俳優が家族のエピソードを演じ、時に語り手としてのヴォドヴィックMagdalena Cieleckaが別の視点からそれを語る。母娘のコミュニケーションツールはSNSで、頻繁に交わされるたわいない会話はコロナ禍の隔離生活を思わせる。服の連想から子ども時代の母親とのやりとりが再現され、それらを当時はどのように感じていたかが語られる。下手には部屋の⼀⾓のように空間が区切られている。ヴォドヴィックを演じる俳優は、時に日常の雑貨で飾られた机に向かい、ノートパソコンで舞台上のシーンを編集するかのように座る。後半では映像作家でもあるアゴタ・バウムガルトの協力を得て作成された、祖母の家でのヴォドヴィック本人の映像が挟まれる。光に溢れる祖母の家は明るい。映像に映る祖母はワンピースを着て少女のようにくるくると回る。笑顔でその姿を見つめるヴォドヴィックの視線は優しい。談笑しながら調理をする祖母のいる台所には、孫娘だけでなく母親の姿もある。孤独なパンデミックの隔離期間を経た再会は、三世代の女性が家族としての結び付きを取り戻したかのようだ。

 本作のテーマとなる「恥」だが、理解できた範囲では、皆と同じような服が着られなかった、食べ物が食べられなかった、物事を知らなかったなど、程度の差こそあれ誰もが子ども時代に経験していそうなエピソードに感じられた。母親のとるにたらない日常についての会話自体が煩わしく、恥ずかしさを感じることも、成⼈した娘にとってはよくある話に見えてしまう。身近な親族への不満を「恥」とするか、それとも新たな絆として結び直すかがこの舞台で描きたかったことなのだろうか。舞台にも映像にも会話にも男性親族の姿はなく、三世代家族という親密圏が実質女性で構成されている。この家族構成は、昭和の価値観を持つ筆者にとっては既視感がある。劇中ではヴォドヴィックの母は娘の感じている「恥」を認識していない。テーマである「恥」が何なのかがよくわからなかったのは、筆者が作中の母親や祖母の世代に属するからかもしれない。そうであれば本作は、親密圏にこそ感じる羞恥について再考を促そうとしているのかもしれない。

 

市原佐都子(Q)『バッコスの信女—ホルスタインの雌 (Die Bakchen. Holstein-Milchkühe)』(キャピトル劇場・オッフェンバッハ、6月29日・30日観劇)

Die Bakchen. Holstein-Milchkühe
Satoko Ichihara
©Aichi Triennale Organizing Committee
Photo: Shun Sato

 『バッコスの信女—ホルスタインの雌』は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に委嘱された作品で、2019年に初演され、第64回岸田國士戯曲賞を受賞している。本作は2020年デュッセルドルフで開催予定であった「世界演劇祭 2020」の国際共同制作作品である。ロックダウンを受け、演劇祭が翌2021年にオンライン含む形で縮小開催となり上演されなかったため、今回がヨーロッパ初演である。

 エウリピデスの原作に発想を得た本作は、すべて男性で演じられていたという古代ギリシア劇を反転させ、すべて女性の俳優が演じる。物語の筋は大きく改変されている。舞台はカウンターキッチンのあるリビングルーム。牧場で人工受精師の仕事をしていた「主婦」(兵藤公美)の元に愛犬「ハワイ」(永山由里恵)を保護したと訪ねてきた娘は、かつて精子バンクで入手した日本人男性精子を雌牛に人工受精して産ませた「獣人」(川村美紀子)である。彼女は主婦を母と慕い、母に種牛としての自分の精液を注入し自分を産み直してもらいたいと願う。主婦は言葉巧みに誘われ牧場に向うも、襲ってきた獣人の男性器を切断し持ち帰り、愛犬と一緒に焼き肉にするところで幕となる。

 「主婦」は人知にのみ信頼をおく王ペンテウスでありその母アガウエでもある。「獣人」は神ゼウスと人間の娘の子であるディオニュソスであり母アガウエの子ペンテウスでもある。母と名指しされる「主婦」は生物学的につながりのない「獣人」を我が子とは認識せず、「獣人」は人間としてのアイデンティティを保つために同族である牛の肉を食べる。「獣人」の性自認は女性だが、生殖可能な精子を持つことから生殖の観点からは男性にカテゴライズされる。が、そもそも下半身は牛なので、男女や人間と動物の二項対立の矛盾を内包する存在である。よって本作では神―人間―動物のヒエラルキーや、親と子の親族関係がフラットなものとなっている現代社会を批判しているように思える。

 2019年の時点で岩城京子は、本作をギリシア悲劇に描かれた対立を液状化する試みとみなし、「現代社会における「公空間/私空間」の役割転換を、明敏に汲み取る反応」だと評価している。日本ではギリシア悲劇の神に相当するのが「世間」であり、その「無責任な世間=神」が個々人に内在化され再生産される「歪んだ神話」として綴られていると読み解く。しかし一方で岩城は、西欧社会には神―人間―動物の区別とヒエラルキーが厳然としてあり、西欧演劇界ではポリティカル・コレクトネスに知覚過敏になっているからと、市原のテキストにある「〈西欧の正解〉から倫理的に逸脱する言葉」への誤読を懸念していた3)岩城京子「ギリシャ悲劇の「対立」を液状化する」『悲劇喜劇』2019年9月号、早川書房、132-134頁。

 この懸念の半分は当たっていたと言って良いだろう。『ディ・ヴェルト』誌デジタル版は愛玩犬との獣姦などハードコアなポルノ的表現を楽しむのはポルノ中毒のティーンエイジャーくらいだと断じ4)Jakob Hayner, Am Ende wird der Megaphallus lecker gegrillt. Welt Kulture, 01. 07. 2023 .、『フランクフルター・ルンドシャウ』誌は倒錯的な性描写に加え「私はアイロン台」と抵抗すらしない主婦が作品の批評性を減じているとする5)Sylvia Staude, „Die Bakchen“ bei Theater der Welt – Die Seele der Holstein-MilchkuhFrankfurter Rundschau, 30.06.2023.筆者はそうした性描写は聞き流していた。コーラスのはきれいな旋律であった。愛玩⽝ハワイの猥雑な倒錯的語りも擬⾳まじりに早口で話されたこともあり、意味ある⾔葉として捉えていなかった。むしろドイツの現代演劇では舞台上で裸体や性器の露出もあるのに対し、本作では獣人の巨大なペニスは明らかに作り物であり、視覚的に性的な場面はほとんどないように感じていた。⽇本語を理解しないドイツ語話者の観客にとって、字幕で性描写が強調された部分もあっただろう。しかしこうした性描写への感度の鈍さ
は、巨乳の少女など「エロ」が公共の場所に日常的にあることに筆者が馴化している面が大きいのだろう。

 本作は環境問題への警鐘としても受けとめられた。ドイツでは、成長促進のために肉骨粉を食べさせたことで起きた狂牛病パニックはそう昔のことではない。コロナ・パンデミックでは食肉工場でのクラスター感染が問題となり、食に関する環境意識の高まりに牛の排出する温室効果ガス問題にもコロナ禍以前よりも関心が寄せられている6)「ドイツ連邦食糧・農業省BMELレポート」Bundesministerium für ernährung und Landwirtschaft, Deutschland, wie es isst: Der EMEL-Ernährungsreport 2020. 。そのため先の『ディ・ヴェルト』誌では、
本作の結末は菜食主義であるビーガンらがトレンドの今日には相応しくないと書かれたりもした。日本では四つ足の獣を食べる文化が江戸時代にはなく、肉食は19世紀半ばに西欧が日本に持ち込んだ文化であることを指摘した上で、肉と牛乳の消費量が増えていることを問題とする『フランクフルター・アルゲマイネ』誌も7)Sandra Kegel, Revolte des besamenden Bügelbretts. Frankfurter Allgemeine, 02. 07. 2023.、環境問題への警鐘としてこの作品を捉えている点では同じである。世界的に増えた肉や牛乳の消費を支える技術として人工受精があり、そこに焦点が当たった受容はドイツの社会的文脈により得られたものと言える。

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1. Macelina Obarska, “Wstyd”, reż. Małgorzata Wdowik. Culture. pl, Institut Adama Mickiewicza.
2. Powrót do domu. Powrót do teatru. – rozmowa z Małgorzatą Wdowik i Agatą Baumgart wokół spektaklu “Wstyd” Hejnał teatralny/Boska Komedia TV, 07.12.2021. Kraków 50-20.
3. 岩城京子「ギリシャ悲劇の「対立」を液状化する」『悲劇喜劇』2019年9月号、早川書房、132-134頁。
4. Jakob Hayner, Am Ende wird der Megaphallus lecker gegrillt. Welt Kulture, 01. 07. 2023 .
5. Sylvia Staude, „Die Bakchen“ bei Theater der Welt – Die Seele der Holstein-MilchkuhFrankfurter Rundschau, 30.06.2023.
6. 「ドイツ連邦食糧・農業省BMELレポート」Bundesministerium für ernährung und Landwirtschaft, Deutschland, wie es isst: Der EMEL-Ernährungsreport 2020.
7. Sandra Kegel, Revolte des besamenden Bügelbretts. Frankfurter Allgemeine, 02. 07. 2023.