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「思考の種まき講座 演劇フォーラム」
市原佐都子の演劇世界

【日時】2023年1月29日(日)
【会場】座・高円寺 けいこ場2(地下2階)

トーク:市原佐都子(劇作家・演出家・小説家・城崎国際アートセンター芸術監督)
スペシャルゲスト=竹中香子(俳優)
聞き手:鈴木理映子(編集者・ライター)


■演劇との出会い

【鈴木】本日の講座は「市原佐都子の演劇世界」。劇作家・演出家でQ主宰の市原佐都子さん、そしてフランスと日本で活動されている俳優で、市原さんの創作活動に早くから並走されてきた竹中香子さんのお二人からお話をうかがいます。

お二人の出会いは桜美林大学の演劇専修(現・芸術文化学群演劇・ダンス専修)ですね。同級生ということですか。

【竹中】同級生なんですけど、年齢が違います。

【市原】竹中さんが一年間フランスで勉強していたので、一つだけ竹中さんの方が上です。

【竹中】そうですね、フランスに行って戻ってきて、卒業制作を一緒にやったという流れです。

【鈴木】では卒業制作までは知らなかった?

【市原】知ってました。

【竹中】市原さんは俳優として活動していたので、俳優同士で共演したりとかしていました。

【鈴木】それぞれに、演劇を始めたきっかけをお聞きしたいと思いますが、市原さんはなぜ、演劇をやろうと思われたのですか? 高校の時から演劇コースに通っていたそうですね。

【市原】中学までは演劇をしていなかったんです。クラシック・バレエを3歳ぐらいから習っていて、あまり勉強が好きじゃなかったということもあって、みんなが受験勉強となっていくのをすごく恐ろしく感じて、「もう勉強しなきゃいけないんだ」と思っていたんです。でも授業でクラシック・バレエをやる演劇コースがある高校を見つけて、「これだったら辻褄が合うぞ」と思ったのかは分からないんですけど、「舞台俳優になりたい」ということを親に言ってAO入試で入りました。だから受験勉強を逃れて入学して、そこで演劇を学んだんです。

 地元、北九州の小倉にある北九州芸術劇場で、高校生の頃からワークショップや講座を受けるようになって、そこで鐘下辰男さん、プロデューサーの能祖将夫さんに出会いました。お二人が桜美林大学で教えていたこともあって、桜美林大学を知り、そこを受けてみようと思いました。桜美林もAO入試で入って受験勉強を逃れたんですけど(笑)。

【鈴木】俳優になろうと思ってたんですか?

【市原】舞台を観に行った時に俳優というものが一番目について、自分に劇作や演出ができるとは思っていなかったので、クラシック・バレエをやっていたのもあり、俳優で舞台に立つことが一番近いものかなと思って、最初は俳優を目指していました。

【鈴木】その当時、どういう作品を観て、どういう舞台俳優をイメージしていたんでしょうか?

【市原】地元の劇団、あとは北九州芸術劇場にもいろいろな劇団が来ていたので、そういうものを観ていました。県外、東京にもよく観に行きました。だいたいその時に流行っている、観れるものを観ていましたね。それを全部おもしろいと思っていたかは、分からないです。ちょっと斜めに観ているような観客だったので――自分に自信があったんでしょうね、すごい俳優になれるって(笑)。何か漠然と俳優になりたいと思っていました。

【鈴木】竹中さんは埼玉のご出身ですよね。演劇とはどういう形で出会われたんですか?

【竹中】家ではよくテレビの国会中継が流れていたんです。それで子どもの頃、初めて劇場に行った時に、劇場と国会中継の感じが似ていると思ったんです。そこから、演劇や劇場で何かをするということは、社会の大きなことが決まったり、そこに疑問を持ったり、そういうすごいことだと思った。だから将来は劇場で働きたいと思って、いっぱい演劇を観に行ったんですね。

 私は市原さんとは逆で、結構勉強が好きで、学級委員などもやり、勉強も運動もちゃんとやるタイプの子どもでした。人前でしゃべったり、仕切ったり、そういうのが好きで、その延長線で、劇場や演劇の中だったら俳優という分野に興味を持ちました。私は浦和市の出身なんですけど、『鉄腕アトム』の声をされた清水マリさんが浦和で開いていた児童劇の教室で習い始めたのがきっかけです。

【鈴木】それはおいくつの時ですか?

【竹中】小学生です。

【鈴木】初めから演劇のミッションに気づいていたのはすごいことですね。普通は「私も歌いたい」「注目されたい」などではないですか?

【竹中】だんだん自我が芽生えて、中学生・高校生になった時に、演劇をやっている=目立ちたがり屋とか、自分に自信があるとか、そういう風なイメージが自分の中に降りてきて、すごく恥ずかしいと感じて、中学校・高校は演劇大好きキャラは隠して生きていました。

【鈴木】当時はどういうものを観ていたんですか?

【竹中】埼玉なので、蜷川幸雄さんの、彩の国さいたま埼玉芸術劇場のシェイクスピア・シリーズも全部観て、それこそ劇団四季の『ライオンキング』など、商業的な舞台もよく観ていました。

【鈴木】大学では演劇大好きキャラを隠す必要はなかった?

【竹中】世界の演劇フェスティバルに興味がある程度のことは言っていました。

【鈴木】俳優を目指して大学進学されたということなんですね。

【竹中】大学進学自体は、演劇の勉強が出来ればということだったんです。当時の桜美林大学の特徴として、ダンサーも俳優も、ダンスと演劇の実技のどちらも受けなくてはいけなかったんです。だから桜美林卒業の劇団というのは身体性が独特だと言われていました。

【鈴木】どういった先生方に習っていらっしゃったんですか?

【市原】ダンスは木佐貫邦子さん、演劇は文学座の坂口芳貞先生、THE・ガジラの鐘下辰男さん、今井朋彦先生など……。他にもいろいろな先生が授業に来ていました、コンドルズの近藤良平さんとか、伊藤千枝子さんとか、チェルフィッチュの岡田利規さんとか……。

【鈴木】当時、お二人は互いにどういう印象でしたか?

【竹中】市原さんは「トップを行く女」みたいな。桜美林は学内でのオーディション制だったんですけど、オーディション総なめ女優という感じでした。

【市原】先生が演出をして、オーディションで選ばれた学生が出演するという作品で、竹中さんもよく受かっていました。

【鈴木】かなり激しい役柄もよくやっていたとか?

【市原】そうですね。狂気を演じることが多かったです。

【鈴木】そういうものが好きだったんですか?

【市原】得意とはしていたんだと思います。もう10年以上前なんで記憶が曖昧なんですけど…… 爆発力を秘めていました(笑)。

【鈴木】竹中さんはそれをご覧になっていた?

【竹中】はい。鐘下さんの作品では、市原さんが狂気の女を演じるということがよくありましたね。

 

■ 『』(2010年) 

【鈴木】そこから市原さんは、卒業の単位が足りないということで、初めてご自身で書いて演出もされることになる。その時に、「自分は書ける」「書きたいことがある」という感覚があってその選択をしたということなんですか?

【市原】どうでしょうね。きっかけとしては単位が欲しいというのが一番でした。でも俳優として舞台に立っていく中で、たぶんいろいろな蓄積があったんだと思うんです。そういうものを共有している人たちを集めてやった感はあります。ただ台本を書くということはまったくその時には想像していなくて、もっと台詞のないパフォーマンスというか、体を動かしたりする作品を創るのかなと思っていました。

【鈴木】その作品が『虫虫Q』。これが後に第11回AAF戯曲賞を受賞する『虫』という作品につながります。

『虫』

【鈴木】女子大生たちの、互いの視線、感覚が交差するなかで、それぞれの生態が分かってくる。その中心になるのは、虫が夜這いしてくるのを待っている女性のエピソードです。この作品は、全部書いてから創作をスタートさせたんですか? 竹中さんは、まずい弁当屋さんでバイトをしている女子大生の役です。竹中さんも一緒に創作していく感じだったのでしょうか?

【竹中】私たちは、先生や外部の演出家と作るOPAP(桜美林大学パフォーミングアーツプログラム)をしていたので、創作にはすごく慣れていました。まだ完全に脚本がなくても、まず稽古日程を組んで、稽古場を予約して、取りあえず集まるということには長けていたと思うんですよね。それで市原さんが完全に書き終わる前の、アイデアがあるというところから割とみんなで参加していました。

【市原】本当にみんなとやりながら書いている感じでした。当時パソコンを持っていなかったので携帯で書いたりして。最初みんなに、虫が入ってきたというプロローグを配って、ここから展開していきたい、って言って、みんなが「こういう人物が出て来たら面白いんじゃないか」みたいな感じで進んでいきました。即興でシーンを演じながら創るというのは、その時には恥ずかしさがあったので、それぞれがプロローグから派生した架空の人物のことをただ語るということをみんなでやって、モノローグがたくさん出来てきたんです。それを集めて、いろいろ組み合わせたりとかして、台本が出来たのかなと思います。

【鈴木】最初に配ったというプロローグについては俳優としての市原さんを知っていたら「なるほど、こういうのを書くんだ」と、すっと入るような感じだったんですか?

【竹中】そんなことはないですね。何が書かれているかとか、それをどう読み解くかというような、権力的な稽古というのは一切なくって、「こんなの書いてみたんだけど」というような、全くヒエラルキーのない中でやっていました。それを単純に「ありがたいモノだ!」という感じでもらうのではなく、文章として受け取って――私はデパートの地下が好きなんですけど、デパ地下で美味しい物を買うとか、そういう自分の話など、それに対して何か出てきたものを話したりする、そういうことがすごく自由にできていました。

【鈴木】市原さんは当時、鐘下さん、坂口さん、文学座の高瀬久男さんの作品も出演されていますけど、そういう作品とは全然違いますよね。何を頼りに組み立てていこうか、何を書こうか、ということが、かなりはっきりとあったのでしょうか? 集団創作と言いますか、みんなで創っていくという方法は何となく信じていて、そこから始めたという感じですか?

【市原】まず、この人たちがいれば何かできるだろう、という感じで声を掛けて、やっぱりそれだけじゃダメだと思って最初のモノローグを書いたんですね。高瀬久男さんや坂口先生、鐘下さんの芝居では、この台詞でどうやって人を動かすか、ということを重視されていて、「言葉をこう吐いた方が良い」「それだと意志が伝わらない」「ここはこういう感情だからこういうことにはならない」というようなことをやっていたんです。けれど、それにすごく違和感があって、そんな風に日常生きていないなって思ったんです。

 様々な演劇の授業がありましたが、割合としては相手役と自分の意思を伝え合うという演劇が多かったんですね。それに違和感があったので、このモノローグという形式がすごくピッタリきたと思うんです。対話というものにあまりリアリティを感じなかったんですね。自分がどういう風だと居心地が良いかというところが、今まで勉強してきたことのアンチというか、そういうところから来ているのかなと思います。

【鈴木】テーマとしてはどうでしょうか? いわゆる〈物語〉の演劇を自分たちでも演じていて、対話に対する不信感というのはあっても、夜、起きたら虫にのしかかられていたという、虫の夜這いに遭うというモノローグは、どのような取っかかりから出来たのでしょうか?

【竹中】この後の『バッコスの信女――ホルスタインの雌』で、市原さんがギリシャ悲劇をやることになった時にすごくしっくりきたんです。ディオニソス祭で、ギリシャの演劇の役割というのが、酔っぱらったり、寝なかったり、日常での社会的ヒエラルキーが逆転し、普段言えないことが言えてしまったりすることが起源になっているというのを知って、まさに市原さんが『虫』から書いてきたことがそうだったのかと思いました。

 この作品には生理の話も出てきますが、生理の話は稽古の段階からみんなでしていました。「今、生理なんだ」って女の子同士では言えるけど、私もとにかく隠した方が良いという教育を受けてきたし、生理について話すというのがまだ珍しくて、それを最終的に劇場という公共の場で、人の前で話していく。

【鈴木】市原さんの作品には、本当はあるんだけれど語られていないことを言う、という感じが今に至るまであると思います。当時のお客さんの反応はどうでしたか?

【市原】当時は「気持ち悪い」って普通に言われました。

【竹中】親も「ウッ」ってなっていましたね。私も教育的にも良いとされた演劇を観てきたし、たぶん自分の娘が、不快な言葉を発するというようなことに家族もちょっと衝撃を受けてました。

【鈴木】2013年にフェスティバル/トーキョーの公募プログラムに選ばれた『いのちのちQ Ⅱ』が、私が初めて観た市原さんの作品です。血統証付きの犬のブリーディングと天皇制を主題にした作品でした。AAF戯曲賞を受賞した後で、フェスティバル/トーキョーで上演、さらに2013年前後は、たくさん作品を発表されていた時期でもあり、かなり注目度が上がった時期だったと思います。

 今振り返ると、市原さんの作品に共通する、本当はあるんだけれども語られていなかったことを語る、という態度はすごく重要なことであると同時に、当時はまだ珍しさだけが先行して喜ばれている感じもあり、それに私はモヤモヤしていたのを覚えています。

【市原】何か奇抜なことをやろうという風にはまったく思っていなかったんです。何かを書こうという時に、自分が社会と繋がっているという感覚があまり持てていない大学時代だったような気がして。でも何か作品を生み出す時、自分はお客さんに対して何が言えるんだろうと思って、自分が嘘じゃない実感を持てることを探していき、こういう表現になっているという感覚でしたね。

 お客さんとしては普段言えないことと受け取られるようなこと、生理的なこと、食べること、排泄…… など、完全に自分がやっている嘘じゃないということを作品にしていったんだと思います。