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■『バッコスの信女――ホルスタインの雌』(2019年)

【鈴木】いよいよ『バッコスの信女――ホルスタインの雌』です。これは「あいちトリエンナーレ2019」で初演されました。コロスが出てくるという形式も含めて、ギリシャ悲劇、『バッコスの信女』というアイデアはどういうところから持ってきたんですか?

【市原】その前からギリシャ悲劇を読んでいました。『妖精の問題』をやって、お客さんと繋がることが出来たというか、観てもらえているという感覚があった。そこでもっとお客さんと繋がるにはどうしたら良いかと考えた時に、ギリシャ悲劇を持ってくることを考えたんです。普遍的な問題が描かれているし、ギリシャ悲劇だと読んだことがある人もいるし、それがこうなったということで繋がれるかなという感じはありました。

【鈴木】先ほど、竹中さんがこの作品のクリエイションがとても大きかったんじゃないかとおっしゃっていましたよね。『妖精の問題』の最初のバージョンはほぼお一人なのが、『バッコスの信女』はコロスもたくさんいて、大きなプロダクションだったと思うんです。作り方としては『妖精の問題』以前とは、自覚的にも違うものになったのでしょうか?

【市原】この作品は稽古の一年前ぐらいに書き上げていたんですけど、歌の部分は、城崎国際アートセンターに滞在して、ワークショップをしながら作りました。その時に地元の方がワークショップを受けに来てくれたんです。私が書いた言葉と東京塩麹の額田さんが作曲した音楽で歌うんですけど――ワークショップとかすごく苦手で、普段はお断りしていますが、この時は歌ってもらうということで、自分の創作にすごくプラスになることなのでやりました。その時に、参加した方がすごく嬉しそうに歌ってくれて。演劇をぜんぜん観ていない人も来てくれるので、自分の言葉なんて、その人たちにすごく拒否反応が出るかもしれないと怯えてたんですけど、曲の力というのがすごく大きくて、楽しんで歌ってくれて、「日々、口ずさんでます」「ここが良いですね」と言ってくれたり、届いているみたいな感じがあったんですね。それまでコロスを13人も束ねられるだろうかという不安があったんですが、それで自信を得ることが出来たという経験になりました。

【鈴木】ギリシャ悲劇なんですけど、リビングで焼肉の準備をしているところから、肉を食べるところで終わるという、非常に不気味な作品でもあります。登場人物の女性は、いまは専業主婦生活をしているけれど、元は家畜人工授精師という仕事をしていた人で、精子を手に入れて何となく獣人を生み出してしまっているという設定です。

『バッコスの信女』©shun sato

【鈴木】乳牛とかホルスタインの雌のイメージもそうですが排泄、食べる、セックスをどう描くかということへのこだわりは、『虫』の時からありますね。モチーフが実はほとんど変わっていないという気がするんですが、表現の仕方としてはどうですか?

【市原】確かに書いていることはすごく一貫していますよね。表現の方法は広がる方向に行っているのかな。人の数も増えたり、いろいろな経験の中で他人に渡すということがすごく増えてきていると思います。

【鈴木】この作品で第64回岸田戯曲賞を受賞されています。この話をぜひしたかったんですが、授賞式には、市原さんの祝辞という形で竹中さんも授賞式にいらしていました。ちょうど演劇界の中でもパワハラやセクハラが話題になってきていた時期で、まず市原さんが女性作家として見られるというそのジェンダー・ギャップについて触れられて、『妖精の問題』以後特に、いろいろ上手くいかなかったことも経て、一緒に製作してきた人と共に今ここいるんだというようなことをおっしゃっていました。竹中さんも、俳優として、先ほどおっしゃっていた、市原さんの言葉が絶対なんじゃないかというところから変化してきたことについて触れられていて、それがとても印象的でした。というのは、授賞式では意外とそんなに深い話をしない。「ありがとうございます」みたいなのが中心だというのもありましたし、作品でこれだけのことを伝えようとしているだけに、あの場でステイトメントをするということを、私は想像もしていなかったんです。あえて作品や自分のベースになる場所とは別のところでそのことを話されようと思ったのはなぜでしょう?

【市原】相馬千秋さんがこの作品のプロデューサーだったんですけど、この作品は女性ばかり出ています。そもそもギリシャ悲劇は男性だけしか出ていないもので、ギリシャ悲劇にも、問題について見せて話し合う、都市について話し合う機能があったと思うんですけど、それを男性だけでやっていたのを、もう一回引っ繰り返そうということで女性のキャストだけでやっているんですね。

 いろいろな話を聞くし、自分もいろいろな経験をしてきて、奇抜なことをやっている女性として見られたり、初期には、自分が女性ということは特に意識しないで作品を創っていたんですけど、「女性の作家が出てきました」ってずっと言われてきてたし、意識せざるを得ない。意識させられてしまって自分がどんどん女性作家になっていくという感じがあったんですね。

 その頃、俳優さんが声を上げだしたということもあり、いろいろな話を聞いていて、授賞式の前のあたりでもいろいろな経験をして、祝辞を初めにお願いしていた相馬さんとも「授賞式を有効に使いたいね」ってお話しして、「女性をエンパワーメントするようなことを言いたい」ってことになりました。それで私は竹中さんに祝辞をお願いして、竹中さんも何か言いたいことがあったら言って欲しいということを言いました。

【竹中】「お祝いの言葉はいりません」って。祝辞としてお祝いの機会だったんですけど、そういうことは別にしなくて良いから、普段言いたいことを言って欲しいと言われて、割と直前だったので「おっ」と思ったんですけど、その時ちょうどコロナ禍で「表現の現場調査団」の活動があり、俳優や芸術に関わっている方々にアンケートがシェアされていた時期で、私も軽い気持ちで始めたら終わらないなっていうくらい長いアンケートだったんです。

 フランスに行く前に大学にいた時に関わった作品だったりとか、自分は気づいてなくて、すべて自分が力不足だったということで思い出にしていたことが、もしかしたら今でいうハラスメントに当たっていたんじゃないかという気づきがその長いアンケートのお陰でありました。私はフランスに行って、日本の現場を離れたので、もっとフラットに俳優も自分から意見や提案をしていくという環境でやっていたんですけど、すごく過去のこと、10代・20代の時の経験を思い返して、俳優って本当にみんな真面目だということを言いたかったんです。言われたことはちゃんとやりたいし、特に素晴らしいと思っている演出家や劇作家の方とやる時にこそ頑張ってしまう。どうでも良い人だったら気にならないと思うんですけど、芸術的にもすごく評価していて、この人と一緒にやりたいっていう気持ちが強ければ強いほど頑張ってしまう。お互いに惹かれ合っているからこそ、その関係性の中でハラスメントが起こってしまっていたなということを思い返して、俳優の立場から、演出家との関係だったりとか、クリエーションの現場で起こるハラスメント的なことについて触れさせていただきました。

【鈴木】以前、竹中さんがアテネ・フランセで、「良い俳優って何だろう?」と考えた時に、それは結局プロセスなんじゃないのか、というお話をされていたと思います。そのこととすごくリンクするところがありますよね。授賞式のスピーチは、その場にいてもとても印象深いスピーチだったんですけど、いま振り返ると余計にそういう風に感じるんです。女性が女性について書くというのは、当事者として知り得ることを書くという意味ではもちろん、その人でないと書けないものだと思うんです。ただ、これはあくまでも自分の観客としての感覚ですけど、私は普段、あまり子宮の声とかに耳を傾けたことがないタイプだったので(笑)、女性が女性の立場や生理について書くことが、子宮の声を聴いたとかいう謎の「女性ならでは」に回収されてしまうことに、長年、違和感を抱いてきました。ですから『バッコスの信女』もそうですが、よく分からない本能とか、よく分からない欲望と同時に、それが異常ではないというか、それ自体が普通である、容易に「女性」に回収される話ではないということが描かれ、表明されることは、とても印象深いことでした。