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オクシデンタリズム

 次の三幕は台本に「息子2020年」とタイトルがついており、蝶々が産んで育てた「アメリカ人男性」と「日本人女性」との間に生まれた「ハーフ」の男の子が主人公となる。すでに見たように、この劇は三幕構成になっており、蝶々が中心の第一幕と、彼女の息子が中心の第三幕との間に、劇の外のメタレベルから登場人物を演じる3人の俳優と劇作家・演出家がこの劇が含む問題を話し合う「劇中劇」的第二幕が挟まれている。テーマを乱暴に概括してしまえば、第一幕はオリエンタリズム、つまり西洋から見た東洋に対する偏見や搾取、それにたいして第三幕はオクシデンタリズム、つまり東洋から見た西洋に対する思い込みや領有といったことが取り上げられている、と一応は言えるだろう。しかしすでにこの拙稿でも繰り返し検討してきたように、『Madama Butterfly』はそのような一見整合性があるように見える便利な「理論」を利用しながら、その裏をかく策略に満ちている劇であって、ここで言うオリエンタリズムとかオクシデンタリズムも思考の入り口にはなるかもしれないが、それでこの劇の持つ衝迫力を説明できるわけでは毛頭ない。それでも『Madama Butterfly』の内容に関係することとして、ポストコロニアル理論の枠組みを借りることで、かろうじて言えることがあるとすれば、ポストコロニアル・フェミニズムの文化批評家であるレイ・チョウによる次の文にあるように、近代の西洋的植民地主義の影響下における主体形成のありかたは、一方的ではありえず、双方向的である、といったことぐらいだろう――

西洋のヘゲモニーに則ったモデルでは、植民者がつねに能動的でもっとも重要な「まなざし」として位置づけられ、ネイティヴはそのまなざしによって受動的な「対象」として支配される存在である。こうしたモデルにたいして、私が提唱するのは、ネイティヴのまなざしによって、見られていると感じているのは、現実には植民者の方であるということだ。ネイティヴのこのまなざしは、脅威をもたらすものでも、復讐をめざすものでもない。それは植民者に自分自身の存在を「意識」させる。それは植民者にまなざしの向きを変えることによって自分自身を見つめる必要を覚えさせ、結果として対象としてのネイティヴのなかに自分自身が「投影」されているのを見ることになる。

(『ディアスポラの知識人』、88‐89頁)

 ここで述べられているように、「蝶々夫人」に代表される「ネイティヴ」という他者の創造とは、西洋的白人男性中心主義的なモダニティという自己が、植民地支配と帝国建設と資本蓄積を通じて成型される過程で、鏡像として必然的に生み出されてきたプロセスにほかならない。そのような「ネイティヴ」の他者化の一方で、彼女たちに「声」を与えることによって、自分たちと同じような存在として位置づけ、既存の支配的な構図の中に安住させようとするイメージ表象による同一化の欲望が、植民地主義を支えてきたのだ。しかしチョウは、このような他者化と同一化、排除と包摂という植民地主義のプロジェクトに対して、ネイティヴ/サバルタン/ディアスポラが、客体の形成にも主体の構築にも「無関心」であって、彼女たちの言説は植民地主義的帝国主義言説には翻訳不可能なのだと論じる。「蝶々夫人」が語れないのは、抑圧された者たちの生の証となるような固有の確固たる活動が存在しないからではなく、「語ること」自体がつねにすでに支配と抑圧の歴史に構造的に取り込まれてしまっているからなのである。

 『Madama Butterfly』という劇が、蝶々という「蝶々夫人」とは似ても似つかぬ、しかし本質的な「日本人性」を付加された主人公の饒舌と能動性と自己省察を武器とする主人公を創作することで一貫して追求してきたのも、このような支配的な「語る/語れない」という構造から脱却するために、どのような双方向的な主体構築のモデルが可能であり、またそれを演劇というメディアによって提示するためには、どんなドラマトゥルギーがふさわしいのかという模索に他なるまい。そのためにこそ、市原はくりかえし、ある言説がもう一つの言説によって掘り崩される対話を展開するだけでなく、主人公たちが自らの分身と語り合ったり、彼女たちの幻想を体現したりする映像を駆使するのであるし、第一幕と第三幕の対照的な合わせ鏡に挟まれた第二幕で、自己反省的で自己暴露的なメタ批評を行うのである。

 さて転じて第三幕はどうか? この幕の主人公である息子はプッチーニの『蝶々夫人』では、まったく無視され抑圧されていた存在だが、すでに触れたように「ハーフ=混血児」とは、家父長制度を支える植民地主義的強制異性愛体制の下で、もっとも逸脱した存在であり、この次代への相続に関わる諸々の問題が西洋的支配体制の急所でもある。しかし、すでに様々な場面で見てきたように、この劇ではカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムやジェンダー・スタディーズの主題となる西洋と東洋、男性と女性、植民者と被植民者との関係といったアカデミックな問いかけと、外見とかセックスと体臭とかをめぐる卑俗な話題とが混在することで、学問的な言説の信憑性を支える階層秩序がことごとく撹乱されており、またそのことにこそ、この劇の革命的な批評性もあるのだ。

 ここでも息子の最大の悩みや関心は、日本社会で「ハーフ」が置かれた文化的な差別というよりも、自らの「ワキガ」であり、また彼が密かに誇りとしているのは自らの男性器の巨大さである。市原のドラマトゥルギーがここでも見事なのは、異文化交流や他者理解にとって最大の興味にして難関が、実は歴史とか言語とか伝統とかよりも、体臭とか性器の形とか、毛深さとか下着の汚れとかにあることを、私たちの日常感覚として当たり前に摘出し、しかもそれを露悪的にではなく、何の衒いもなく直截に提出してしまうところにある。だから、一方で私たちは市原の西洋も東洋もターゲットにした全方向的批判に直面して反省を迫られるのだが、同時に過剰に追い詰められたり、韜晦する必要に迫られたり、嫌な思いをさせられることにならない。そこがたぶん、多くの植民地主義やオリエンタリズム/オクシデンタリズムに対して自己反省的な映画やドラマや小説や演劇とは異なる点だろう。それはとりもなおさず、この劇の第二幕が示すように、市原が「西欧で活躍する日本出身の女性劇作家・演出家」という自己の立ち位置にきわめて意識的であり、また他者に対する自己の欲望のメカニズムに関して精確な批評性を保持しているからだ。

 たとえばそのことは、「日本人とアメリカ人とのハーフ」だが、顔だちが西洋風なので、息子のことを「アメリカ人」だと思った日本の女の子が近づいてきたことに対して、その女の子を評して「金持ちでかわいいからこれからも幸せに差別主義者として日本で生きていくんだと思う」と息子が言うところにも例示される。一方で、蝶々の息子である次の世代になっても、人種的ステレオタイプによる差別意識が、この場合には日本人の女性がアメリカ人の男性を見つめるまなざしの中に根強く残っていることが示唆される。しかし他方において、彼は日本生まれの日本育ちなので、「外人」のような顔立ちでも英語がしゃべれないにもかかわらず、日本の女の子にとっては彼が英語を喋れることが讃嘆の的であることにも、彼はもちろん意識的だ。しかも舞台では、彼(息子を演じている男優)は、そのことについて自分の分身と英語で語り合っている。こうしてオクシデンタリズムに起因する日本社会の偏見が描かれながら、それを導く人種的ステレオタイプがけっして一枚岩的ではなく、双方向的な主体構築の力学のうちにあり、そこから誰も自由ではありえないことが、繰り返し描かれていくのである。

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会

 このようにこの劇の多層的な構造を分析したからと言って、拙稿では市原がさまざまな差別に対する相対主義(西洋人も日本人もどっちもどっち)を標榜していると言いたいわけではない。実際にこれだけの作品を書いて、スイスで多国籍の俳優やスタッフとともに舞台を制作することに従事する市原にとって、相対主義を傘にして嵐を避ける余裕などある筈もないだろう。『Madama Butterfly』は彼女自身の苦闘や苦渋のクロニクルでもあり、しかしそこには、きわめて巧妙で賢明な、しかし際どい劇的戦略と知性とによって、告発にも露悪にも、センチメンタリズムにもコンフェッションにも陥らない工夫がなされているのだ。

 劇の終局は、息子のもとに母親の蝶々が登場して、整形手術をして鼻を西洋人のように高くすることで、まず外見を変え、そこから中身を変えたいと言うが、息子に軽蔑される。息子の母親に対する嫌悪は、血でパンツを汚すという女の生理に対する忌避感に起因するらしい。パンツを自分で買ってきた蝶々は、息子を慈しんで、「お母さんはあんたがアメリカ人みたいに立派なんがほんまに誇らしいねん それだけでごはん食べれるし お母さんの人生が間違ってなかったってことやって思えんねん」と言うのだが、息子に「死ねよ」と言われた蝶々は、手首を切り、死ぬ――息子を産むために毎月流された母の経血ではない、死をもたらす血を流して。そして舞台は、マリアとなって昇天した蝶々の独白で終わる――

マリア(蝶々) 天国でお母さんは蝶々夫人からマリア様に昇格すんねん ・・・ あほな日本人に愛を誓わせんねん チカイマスカって 日本語しかできへんくせに片言の日本語で言うねん そしたらあほはありがたがって 誓うんや 日本人はなんでもええねん 白人の顔やったらありがたいねん  あんたは身長も高いし 肌も白いし 顔もアメリカ人みたいやけど ・・・ 神父は禿げてもブタでも関係ない ザビエルだって禿げてたしな それであんた一生安泰やで  

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会

 舞台奥に飾られていたマリア像に、ついに同一化して慈母となった蝶々。しかし舞台に居る蝶々は、マリア様に昇格しても、その鼻は低く、顔は日本人みたいで、言葉も日本語だ。この矛盾した終結に戸惑いながら、私たちはようやくにして思い至るのだ、市原がこの劇のなかでけっして触れなかったのが、母と娘との関係であることに――シェイクスピアが抑圧し、プッチーニが無視した「禁断の」、「当たり前の」、「存在してはいけない」、おそらく「愛ですらない」、母娘の愛。それを『Madama Butterfly』も描かない、いまだに描けない、けっして描いてはいけない。

アイデンティティと欲望の政治学について透徹した思考を展開した竹村和子は、西洋的近代における強制的異性愛と逸脱的同性愛との二項対立的レジームから脱却するセクシュアリティのありようを求めて、この「存在してはいけない愛」へとたどりつく――

通時的な母-娘の物語は、母と娘のこころのなかで共時的な出来事に変わる。「母の愛」は「母への愛」と混淆し、行為のなかで記憶は語り直される。あなたは母であり、娘である。そしてわたしは、あなたの娘であり、娘であるあなたを見つめる母でもある。……「娘の愛」は「娘への愛」に交じり合い、淋しさは希望をはらんで、二人のあいだをたゆたう。通時的な「発達」の物語は、共時的な「経験」の物語に変わる。過去の時間は現在の時間を押しひろげ、「分離」を糊塗した<不在>は、「分離」を内包する<存在>をつねに喚起し、新しい意味の生成がはじまる。(『愛について』、205頁)

 「その人を本当にわかる、とはどういうことなのか。その沼にはまってつくっていた作品」と市原が言う『Madama Butterfly』は、その告白通り、自己と他者の関係を規定しているアイデンティティをめぐる物語である。その物語は、「私(アイ)」を他者の「まなざし(アイ)」が捉えようとする磁場のなかで、ついに終わることがない――そこに<愛>がはらまれないかぎり。


★拙文中の台詞やト書きの引用は、すべて2021年9月29日付の日本語上演台本からのものです。台本をご提供いただいた市原佐都子氏にこの場をお借りして感謝申しあげます。
また舞台写真をご提供いただいた豊岡演劇祭実行委員会の吉田雄一郎氏に感謝申し上げます。