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オリエンタリズム

 このように冒頭から設定された「ステレオタイプ批判の批判」の枠組みは、ステレオタイプ批判がステレオタイプそのものを強化してしまう(ちょうどオリエンタリズム批判が、西洋による東洋支配の構造を分析してそれを掘り崩そうとする正当な政治的意図にもかかわらず、オリエンタリズムの元凶である西洋的言説を詳細に分析することで、かえってオリエンタリズムを延命させてしまうように)皮肉な現象にきわめて意識的であることによって、理論的に正確無比と言える。この批判作業は、玉ネギの皮をむいていくように、中核には芯などなくやはりどこまで行っても皮しかないことを知りながら、それでもむき続けるという、シジフォスの神話的な、というか、より現代的には『ゴドーを待ちながら』的な営みとならざるを得ないのだ。

 『ゴドーを待ちながら』の主人公たちは、待つ、しかも誰も何もやってこないことを知りながら待ち続ける、という姿勢において際立っている。ヴラジーミルとエストラゴンが西洋近代文明の末期的状況において、ひたすら何かを待つという姿勢に、大きな物語が終焉して以降の「ポスト」の論理を見ることができるとすれば、『Madama Butterfly』もその点においては、サミュエル・ベケット同様に現代の西洋文明に対するポストコロニアルでポストモダンな批判精神を共有しているとは一応言えるだろう。しかし、ここで『Madama Butterfly』を西洋近代文明批判の側面だけで評価することはできないはずであり、そのことを『ゴドーを待ちながら』との比較において少し考えてみよう。

 ヴラジーミルとエストラゴンにとって、あらゆる会話や行為が目的を持たない空虚な遊びに過ぎないものになってしまうのは、彼らの欲望の対象や言葉やしぐさに方向性がないからであり、それはつまり彼らには他者が不在だということだ。ということはつまり、そうした他者の存在によって構築されたり規定されたりする自己の存在も空白であって、語るべき内面的感情や心理的葛藤もないということになる。それとは対照的に、『Madama Butterfly』の主人公である蝶々にとっての問題は、他者があまりに過剰に存在していることによって、自己の存在も過剰に意識されることにある。しかもその他者は自らが思い描く映像(幻影や鏡像)であって、それこそがステレオタイプを生産し強化し永続させていく。こうして『Madama Butterfly』は『ゴドーを待ちながら』によって一旦は息の根を止められたかに見えた自己と他者関係をめぐるアイデンティティの泥沼から、ふたたび他者の幻影がよみがえって自己を規定していく悪夢を再生産する。かくして二〇世紀後半の『ゴドーを待ちながら』という不条理劇による脱臼は、2000年代初頭の『Madama Butterfly』という条理劇による復旧に道を譲る。たしかに市原が言うように、二〇世紀初頭のプッチーニの時代から「状況はなにも変わっていない」のである。

 かくして、現実の舞台と仮想空間とのあいだで展開される「西洋人」の無自覚な自信も「東洋人」の露悪的な劣等感も、パロディ効果による笑いを招くよりは、観客自身がそのような力学の中に否応なく巻き込まれていることを意識させることで、その笑いが抑制され凍っていかざるを得ない、そんな「異化効果の異化」が出来する。異化効果が観客に距離感覚を保たせることで冷静な平衡意識をもたらすものであるとすれば、すでにヴィジュアルイメージの全方向的浸透によって仮想現実がすべてを支配する現代社会において、演劇に期待されるのは異化効果ではなく、終わりなき(つまり効果や結果を期待してはならない)異化であり、脱構築であり、永遠の玉ネギむき作業であることを、『Madama Butterfly』は提示するのである。

 

セクシュアリティ

 このような果てしなき、無効だが必要なステレオタイプ解体作業は、長崎にキリスト教をもたらしたとされる(つまり日本における植民地主義ステレオタイプ生産の元凶とも言える)フランシスコ・ザビエルと、明治期の西洋白人による日本人差別主義者の代表としてジョルジュ・ビゴーを登場させることによって、私たち観客をさらなる歴史の底なし沼へと引きずりこむ。自らが描いた風刺画を見せたビゴーは「君たち日本人は愚かで生意気なお猿さんだよね」と嘲笑うが、それを聞いた蝶々はまるで植民地主義の歴史を逆なでするように、「白人と混ざったらええねんちゃう? そうや 日本人はもっと白人と混ざったらええねん! うちマリア様はあきらめて ハーフの子供を産むねん」という覚醒に至るのだ。

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会

 この「平たい顔の」日本人女性のセクシュアル・ポリティクスへの目覚めとも言うべき宣言は、支配的な家父長制度の弱みを正確に突いている。つまり、家父長である父親からすべて(財産、名誉、血筋)を引き継ぐ権利を長男だけに与えることによって、次男以下や娘を社会の支配権から排除する家父長制度の最大の弱点は、家父長自身が長男を産むことができないがゆえに、女性の生殖能力に依存しなくてはならないことにある。だから家父長は女性の生殖能力を自らの支配下に置くために、彼女たちのセクシュアリティを過剰に恐れ統制しようとするのだ。とすれば、家父長にとって最大の悪夢は、自らの子孫を産むべき女性が他人と、しかも他人種と交接して「混血児」を産み、それを家父長に見せて「あなたの子どもよ、ほら眼元がそっくりじゃない!」と主張することである。シェイクスピアが『タイタス・アンドロニカス』から『空騒ぎ』や『ハムレット』や『マクベス』を経て、『アントニーとクレオパトラ』と『あらし』に至るまで、終生描き続けた家父長制度の根幹にあるセクシュアル・ポリティクスを参照すれば、この女性の生殖能力に対する男性の恐怖と憧憬と欲望とが、西洋的近代における植民地主義と資本主義と軍事主義とジェンダー/人種/階級を縦断する差別の根源にあることが納得されるだろう。

 『Madama Butterfly』という劇が正当な意味で「理論的」なのは、一方で20世紀後半から積み重ねられてきた様々な「ポスト」思想の理論的集積を確実に生かしながらも、同時に、そうした理論的蓄積の無効さをも証明してしまうからである。その例証が、続く「右翼の女」と「左翼の女」による、いかに白人男性を東洋人女性の魅惑で虜にし、セックスさせて優秀な男の子を産むかという、いわば“How to Sex with the White Man”とも言うべき指南ビデオ映像だ。どちらも蝶々が全く違った衣装とメーキャップで変装しているのだが、二人の女は、それぞれ典型的な東洋美人のパターンを提案することで、白人男性を魅了せよと私たちに告げる。一方の「右翼の女」は、キュートで無垢でお馬鹿でひたすら従順な、長髪、お目目パッチリのお人形、異性愛主義の女の子タイプで、次のように薦める――、

まずとにかく目を大きくするのが大事 ・・・ 一重の人は整形するかアイプチをつかって二重にして マスカラは命よ 何回も何回も重ね塗りするのよ 交尾できますように 交尾できますようにって唱えながらね 次はリップメイク 唇は女性器の代用品 ・・・ ピンク色のリップグロスでテカテカにしましょう このときも 交尾できますように 交尾できますようにって唱えながらね 

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会

 他方、「左翼の女」のは、ワイルドで神秘性があり知性的でやや反抗的な、短髪、切れ長、細目の自立系、多文化主義の大人の女タイプ、といった感じで、次のように述べる――

口紅は赤にして 赤はアジアって感じでしょ オリエンタルに もっとアジアをウリにしなきゃ それぞれ 白人にモテたい女は白人に好かれる外見をつくって 日本人にモテたい女は日本人に好かれる外見をつくってるの 忘れないで 誰と生殖したいかで演出変えなきゃだめなの

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会

 「右翼」とか「左翼」とかの政治イデオロギーによる色分けが完全に失効して空洞化してしまった今(そこに入り込むのは、宗教原理主義とナショナリズムとネオリベラリズムの複合であることを、現在の日本の状況が証しているわけだが)、この対照的でありながら、「生殖」というあらゆる再生産の根本に関する力学の開陳は、どちらも正鵠を突いているがゆえに、私たちにとって痛い。こうした他者を惹きつけるための「演出」は、しつこいコロナウィルス感染症のように、否定しようとしても、つねにすでに空気中に存在しているから無視するわけにはいかないのだ。評者がいまこうして言葉で女のタイプ分けをしていること自体が、評者自身のステレオタイプ的な女性観を吐露してしまっていることになるわけで、事程左様にこの劇は毒にも薬にもなる(というか、圧倒的に毒のほうが強い)意地悪なファルマコンなのである。

 この誰をも、役者も観客も批評家も、安全な距離において高みの見物をさせない、ドラマトゥルギーは、『Madama Butterfly』の「物語」の中核にある二つのエピソード、すなわち主人公の日本人女性が「白人男性」と安ホテルでセックスをする場面、それからその性交によって生まれた「混血」の息子が、もう一人の「自分」と対話する場面、そしてこの二つの場面に挟まれた「物語内物語=劇中劇」において俳優たちが「素」に戻って議論する舞台裏暴露的場面の3つを検討することによって、さらに明らかとなるだろう。順番に検討していこう。