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ガイジン

 先ほどのセックス指南ヴィデオから教えを受けた蝶々は、「左翼の女」から渡された黒髪の鬘をかぶり、赤い口紅を塗って、「外人男性」がたむろする長崎のバーに出向く。そこには、「西洋人女性」を相手にした自らの性的能力に自信がなく、「日本人の女」ならばセックスし放題であると聞いた「外人」=アメリカ海軍軍人(Sascha Ö. Soydan)がいて、蝶々は片言の英語、外人は片言の日本語で会話し、安ホテルで性交する。その営みにはキリスト教の神父(Yan Balistoy)が金儲けのために参加していて、一夜の行きずりのセックスは神父の仲介によって、異人種結婚に至る。ここで、ステレオタイプを極端に表明することで解体するというドラマトゥルギーという点から、観客の目を惹くのは、この場面の過激な暴力性とそれをも解体してしまう戯画性だろう。蝶々と外人の会話は徹底したステレオタイプを復唱して、次のように始まる――

蝶々  Hi I am Cho-cho

外人  こんにちは私はGaijinです

蝶々  Are you an American?

外人  アメリカ人をあなたが望むのならアメリカ人ということで良いです

蝶々  Pardon? Do you like Japan? 

外人  もちろん日本が好きです 天ぷらと寿司が好きです

蝶々  Nice! Me too. Can you use chopsticks?

外人  はい 素敵な着物ですね

蝶々  Thank you very much! I am Japanese so I wear Kimono. Do you like Kimono?

外人  もちろんです

 これだけなら、ハリウッド映画にもよく見られるコミュニケーション不全(そもそもそれを不全にしているのはどちらの側なのか…?)の例として笑って済ませられるかもしれないが、『Madama Butterfly』の沼の底意地の悪さは、もちろんそんなことで済ませてはくれない。神父によって結婚式を挙げた二人の会話は、日本人ならば誰でも痛い経験があるはずの、「英語」、この場合は「アメリカ英語」をめぐる意志の非疎通に発展する、というか停滞する――

外人  僕だけが誘ったわけじゃないし君も払ってもよくない?

蝶々  Pardon?

外人  それはつかわないんだよ 

蝶々  Pardon?

外人  馬鹿です 英語もろくに喋れない 私は中学でALTとして働いていますが 私のことなど誰も必要としていません 日本人の英語教師が文法を教えている横で私はうなずいています 時々教師は私に英文を読ませて生徒にリピートさせます This is a pen. This is a pen. これはCDでもできる仕事です しかしバレエ教室の生のピアノ伴奏のごとく 英語もGaijinに読ませたほうがありがたく感じられます あるとき 教科書に相手の言っていることが聞き取れなかった場面で Pardon? と書いてあって こんなのつかわないよ と笑って言ったら教室中がざわめきました 日本人の英語教師は余計なことを言った私を睨み付けました だから私は黙っていたほうがよくて ときどきCDの代わりに教科書を読む そうすれば それだけでそれなりに良い給料がもらえるのですから 生演奏にお金をかけている日本は贅沢ですね そんなことですから 日本人は英語が喋れないのでしょう 

 ここまで正直に言うALTは少ないかもしれないが、おそらくこれが日本の学校で働く多くの外人英語教師の本音だろう。このような「英語」をめぐる彼我のギャップを無理やり跨ぐようにして二人は性交へと至るのだが、ここで顕著なのは、言語記号の行為に対する優越であり、より正確に言えば、シニフィアンのシニフィエに対する優越という、あらゆる翻訳行為を支えている現実である。言葉の意味内容(シニフィエ)が言葉の音声記号(シニフィアン)に侵犯されることで、国民国家言語間の翻訳において、いかに恣意性が優先されてしまうか――翻訳とは実のところ、シニフィアン間の置き換えに過ぎないのだが、それをシニフィエ間の意味の通訳と思いこむことによって、あらゆる翻訳行為は成立している。自らの「母語」のほうが「外国語」よりも理解しやすいという私たちの常識の根拠の不確定性が暴かれてしまうのだ。通常、翻訳は「日本語」とか「英語」といった、国境や民族のような「想像の共同体」同士の意味通約性を前提とした「国民国家言語」間で行われると考えられているが、実のところ、そうした異文化交通の可能性は、記号運用の恣意性や言語イメージの豊かさがもたらす意味の不確定性という効果によって支えられている。つまり翻訳の力学において、翻訳が可能となっている条件は、言語の内容というよりは形式なのである。さらに二人の異言語会話は、次のように続く――

蝶々  Do you want to shoot your white liquid?

外人  射精したいかってこと? 射精したくなかったらこんなラブホテルに来ない

蝶々  yes or no?

外人  はい

蝶々  I want to have half child, not your child, half child so don’t worry. Please give me, your white liquid, OK?

外人  ……

蝶々  For example. you can think that you are an animal. You are an animal OK? I’m a hunter and you’re an animal. And your liquid is taken by me.

外人  ……

蝶々  For example, high-ranked Japanese beef Wagyu, Wagyu’s white liquid are expensive, because they can make good meat. You can shoot white liquid, because you can make half child, OK? You can think you are an animal

 蝶々の「英語」はそれが日本語の「直訳」であることによって、直截なシニフィアンの力と言うか、洗練された英語にはない表現力と批評性を獲得している。さらなる劇的仕掛けとして、ここで「animal」と呼ばれたアメリカ軍人を演じているのは、小柄な白人女性であり(彼女がどんな出自の俳優かは次の「劇中劇」の場面で明らかになるが)、また彼女が自ら「獣姦」と表現する行為を行なうときの男性器は、白いフニャフニャの大きな縫いぐるみのようなディルドだ。よって、ここでの性行為の暴力性には肉体的な方向性が欠如しており、遊びの領域に近接する。そこに暴力性があるとすれば、それは言語による意味の伝達を無視する「動物性=非人間性」に起因する。しかもすでに見たように、ここでの蝶々の英語はあまりに直訳的であるがゆえに、アメリカ軍人の言語的文化的肉体的優越を脱臼させてしまう。ここでも『Madama Butterfly』は、「物語」という、人間にとって必須のアイデンティティ確認の手段が、ある特定の言語に基づいているがゆえに、翻訳されねばならず、そのために意味の不確定性を招きよせてしまうことを明らかにする。市原自身が上演パンフレットに書いているように、物語とは「写真のようにきれいなことばかりでは」ないのである。

 こうして外人はこの交わりから空虚な満足感と金銭的損失だけを受け取り、一方で蝶々は白人男性の精液を体内に獲得して、「美しい、つまり白人的な混血」の男子を得る――これが元々の『蝶々夫人』を支える根元の物語なのだが、『Madama Butterfly』はその物語から、異文化交流のメカニズムも、異人種間の葛藤も、植民地主義のポリティクスも、強制的異性愛主義の抑圧も、オリエンタリズムのイデオロギーもきれいさっぱりと拭い去ることによって、かえってオリエンタリズムの根源にある力学を白日の下にさらしてしまうのである。

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会