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ダイバーシティ

 このように第一幕では『蝶々夫人』が多様な形式で「ちゃぶ台返し」されてしまうのだが、その後に、さらにその転覆さえも転覆してしまうかのような「劇中劇」が続く。この第二幕では、これまで『Madama Butterfly』を演じてきた役者たちが、舞台裏で休憩して、この劇作品について真剣に批評したり、おしゃべりに興じたりする。登場するのはこれまで舞台に出てきた役者3人(竹中香子、Yan Balistoy、Sascha Ö. Soydan)と、映像のみで日本から参加する劇作家・演出家(Brandy Butler)である。この第二幕は台本で、「イエローバタフライズ」、つまり「黄色人種の蝶々たち」と名付けられているのだが、登場人物は次のように厳密に指定されている――

・ハルコHaruko 蝶々役 女 日本語

・サマーSummer 外人役 女 ドイツ語   

・タムタムTam 神父と息子役 男 ドイツ語 

・フユコFuyuko 劇作家・演出家 日本人女性だが他の人種やジェンダーに見える俳優が演じる

 3人の女の名前が「春」「夏」「冬」だから、男も「秋」に関係した名前でもよさそうだが、そうでもないようだ(autumnの「タム」だろうか…?)。それはともかく、この登場人物のなかで、評者が観劇した9月24日の城崎国際アートセンターでの公演では、劇作家・演出家であるフユコだけはオンラインでつながれた映像での出演で、日本からフェイスタイムを使って議論に参加しているといった趣向になっている。彼女は「日本人女性」として語り、また語りかけられているが(つまり『Madama Butterfly』の作者である市原佐都子が想定されている?)、外見はアフリカ系アメリカ人の女性でアメリカ英語をしゃべっている。よって俳優と劇作家・演出家が、いま演じられている劇について議論する、この「舞台裏暴露」の場面では、国民国家言語が3言語、通訳なしに話されながらも、意思の疎通には全く問題がない(ように見える)。城崎での公演に参加した英語やドイツ語を解さない観客のためには、正確な字幕が用意されていて、こちらも意思の疎通には問題がない(ように思える)。先述した翻訳の問題にはここでは立ち入らないことにして、この第二幕では、配役の民族的出自が取り上げられている。たとえば、「外人」を演じたサマーは、自分のアイデンティティを「トルコ人で女性」だと言うが、同時に「演劇は性別や人種を超えられるはずだから 俳優はなんの役でも演じられるはずよ」とも言う。ここでサマーを演じている俳優のSascha Ö. Soydanは、トルコ出身でドイツ国籍、現在(多文化国際都市を標榜する)チューリヒのノイマルクト劇場専属の女優であるから、これは俳優自身の偽らざる思いであるかもしれない。しかしそんな知識人層には受けやすい演劇観を披露したサマーは、すぐに次のように言明して、そんな居心地の良い多文化共生主義に「白い液体」をぶちまける――「それより海軍の制服を着て こんなに都合よく生で射精してくれる男性が都合よくみつかる?」演劇には、少なくとも近代ヨーロッパのリアリズム演劇には、「生で射精してくれる」俳優など必要がなかったはずでは、といった観客の戸惑いをよそに、リアリズム演劇とアダルトヴィデオとの境界が易々と壊されていくのだ。次に、「肌の色がオリーブで目がモカ」のサマーが「白人」なのかどうなのかの議論を経て、今度はタムタムが「台本に書かれてある通りの人物を集めて作品をつくるなんて」つまらないと主張して、それを受けたサマーがフェイスタイムで参加した劇作家・演出家のフユコに(彼女はコロナ感染症で家から出られないらしい)、次のようなラディカルな提案をする――

外人の役をトルコ系の女のアメリカ人の役にして 精子バンクで子供をつくって二人で育てるようにしたらどう? そうすれば息子は英語喋れるようになるしタムタムが無理やり日本語話す必要もなくなる 私も女だし射精しなくていいし すべて解決じゃない? 

 この案にフユコが難色を示していると、今度はタムタムが、自分も蝶々夫人の息子と同じく、ハーフだと言って、次のように自らのアイデンティティをまとめる――

ハーフの子供を産みたい欲望はそんなに悪いことかな 好奇心ってそんなに悪い? 僕もハーフだけど イスラエル人の母親が世界中を旅してたときフィリピンで漁師をしていた父親と出会って 僕が産まれたんだよ

 このようなアイデンティティをめぐる「カムアウト」の後で、この場面で最も外見や言語や出自や国籍が不明なフユコが、まるで作者である市原の肉声を語るように、次のように言う。

 原作を読んでいて思うんだけど 原作の蝶々さんのこと全然好きではない主人公だし読んでてむかつくんだけど それは蝶々さんがバカだからとかじゃない いまも状況はそんなに変わっていないし自分も同じだって思うからなのかもしれない 

 この文言は、先ほど引用した上演パンフレットのそれとほぼ同じだが、さらにフユコは次のような具体例を挙げる――

日本人って幼く見られるし 私ってかわいいってよくヨーロッパに行くと言われるんだけど そのことをそんなに腹立たしいとは思わなかった むしろ子供扱いされていると感じた時 私はそれに合わせて自分からなんとなく子供っぽくかわいいふりをしていると気づいたの あちら側が期待する日本人を演じてしまう 海外のフェスティバルに日本の作品が呼ばれるのだってなにか彼らにとって珍しいものや知らないものを持ってくることを期待されてでしょ 漫画のTシャツとか…… 日本国内にいると自分がアジア人だと意識しないけどヨーロッパにいると常に意識されるんだよね

 このあと4人の話は、「白人の男」とどうセックスするか、という話題から、英語と日本語の優位性という異文化交流の論議になる。フユコによれば、この劇はアイデンティティを自己と他者が認知するために、どのような、またどのように、「物語」を創るのか、ということをめぐる劇でもあるからだ。

フユコ  そう とにかくこの役は日本語で演じてほしいの 英語って日本語より優位な言語でしょ 日本語なんて話せても日本から出たら全然通じない 息子は顔のせいで英語を話すことを期待されるのに 実際その優位性を持ち合わせてないってことが悲劇なの

 と、こう、「日本人なので日本語で話している」という常識が、すでにこの舞台では、「アフリカ系アメリカ人のように見える日本人女性が英語で話している」ので解体されているのだが、このような劇的仕掛けも含めて『Madama Butterfly』という劇のすごさは、アイデンティティと物語との関係を探るのに、何層にもわたって、セックスと言語、民族差別と外見、といった真面目と不真面目の境界というか、飲み屋での会話とカルチュラル・スタディーズの壁を、いとも易々と超えてしまうところにある。さらにフユコは、海外で活躍する日本人の劇作家・演出家である市原自身を代弁するかのように、次のように言う――

人種や言語にこだわると すぐ俳優の言語や見た目なんてなんでもいいじゃない ダイバーシティよ ってノイマルクトの人は言うんだけどさ 私の台本読んでるの?って感じ ダイバーシティっていう言葉で日本の見えにくいダイバーシティの問題を見えなくさせてるように思う それを私は見せたいの 

 そこから、タムタムもサマーも演出家にとっては理想の配役ではなかったというフユコの告白があって、二人の「西洋人俳優」が鼻白むと、フユコははっきりと言明する――

本当のこと言ってあげる アジア人に偉そうにされて嫌だって思ってるんでしょ?

 しかし、この「本当のこと」は、言説レベルでは間違いなく異文化間の力関係やポストコロニアリズムの中核にある問題だが、演劇レベルでは、これをオンラインでアメリカ英語で語っているのが、黒人女性(のように見える女性)であるという仕掛けによって、文化批評のエッジが鈍化すると同時に、観客にはより鮮明な意識で自らの置かれた位置に向き合わせられる、という二重の効果を持つのだ。このようなダブルエッジ的ドラマトゥルギーは誰をも(俳優も劇作家も演出家も制作者も観客も)安全な位置からこの劇を観察することを許さないという点で、明白にこれまでのジェンダー・人種・階級による差別を意識した演劇とは一線を画している。多くの批評家や観客が、市原佐都子の演劇をまったく新しい「ポスト・ポスト・ドラマ演劇」と見なしたくなるのも、理由のないことではないだろう。日本で上演されるかなりの数の演劇が、作・演出を同一人物が担当することによって相当に凡庸な舞台に終わる状況を見慣れている私たちにとって、市原のような自らの劇作と演出とが互いに拮抗し、批評しあい、反発しあうような自己反省的舞台創造は、きわめて稀有な現象ではないだろうか?

 さらにフユコとハルコは「日本人」同士で盛り上がって、「白人男性」批判を始めるのだが、フユコは「日本人」と明確に指定されてはいるが、外見は日本人マジョリティの通念からすると「日本人」らしくはなく、しかもアメリカ英語をしゃべっているので、彼女たちの白人男性批判を私たち観客は複雑な気持ちで聞かされる。というかむしろ、わかりやすい「日本人」の口から出ないからこそ、この批判が有効性を増すのである――

フユコ  そう なにあの白人の男 クソむかついた そうすれば喜ぶと思ったの? どうしてあの人が権力を持ってんの? 架空の黒人に対する表現にはあんなに過敏なのに目の前の私達に対しては驚くほどに鈍感 

ハルコ  彼らにとって私たちは対話する相手ではないと思い知らされたね まったく対等な関係ではない

 こうして『Madama Butterfly』による全方向的イデオロギー批判は、様々な上演の仕掛けによって、その方向性を拡散させられるからこそ、かえってその鋭さを保ち得ているのだ。露悪性がグロテスクを超えて崇高性を獲得する、とでも言えるだろうか?『Madama Butterfly』という暴露劇は、戯画とステレオタイプ、現実と表象、裏話とカルチュラル・スタディーズを自在に往還することによって、パロディやツッコミを超えたグロテスクでサブライムな批評性を獲得するのである。

©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会