アイ・デンティティの沼にはまって――ノイマルクト劇場+市原佐都子/ Q 『Madama Butterfly』/本橋哲也
人と人がわかり合うということは難しいことだと感じます。それはわかりたい、わかってほしい、と思えば思うほど意識され、苦しいです。その人を本当にわかる、とはどういうことなのか。その沼にはまってつくっていた作品です。
(市原佐都子『Madama Butterfly』上演パンフレット、2022年9月22日~24日、城崎アートセンター)
さて、あの「ネイティヴ」たちは、皆どこに行ったのか? 彼女たちは……汚されたイメージと無関心なまなざしとのあいだに行ってしまったのだ。ネイティヴは歪められたイメージでもなければ、歪められたイメージではないというわけでもない。そして、彼女は無関心に見つめ返すのだ、想像上の類似に囚われた我々をあざ笑いながら、自分たちは騙されない者だという私たちの自己欺瞞をからかうように。
(レイ・チョウ『ディアスポラの知識人』本橋哲也訳、青土社:1997年、93頁)
わたしたちは何らかの「物語」なしに、自分の感情を感じることも、自分を把握することも、行動することも、何かを理解することも、他の人々との同意を得ることも、あるいは誤解、決裂することもできない。
(竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』岩波書店:2002年、1頁)
アイデンティティ
人が自分以外の他人を理解しよう、わかろうとするときの困難。それを単にコミュニケーションとか理解能力とか文化摩擦などといった社会的な文脈で考える前に、自己と他者との基本的な関係に目を凝らしてみること。そうしてみると、何かを表そうとする、描こうとするときにどうしても必要となる、物語――表象やイメージや情景――に付きまとう難問(それは魅力でもある)に私たちは突き当たる。それは、ひとつの確固たる存在であるはずのものが――それが事物であっても人間であっても自然であっても――、言葉や映像といったメディアによって対象として描かれてしまうと、途端にそれが散乱して、多種多様な鏡像となってしまうということである。それはあらゆる存在の自己認識(アイデンティティ)が多様な他者の存在、というか他者の拡散する目線(まなざし)によって規定されているからである。複数の人が同じものを見ていても、視点のなかで網膜に映る像は人が異なれば、同じではありえない。そして、その不可避な困難を迂回し否認しようとして、人は多様で複雑な物語よりも、単純で安易な表象によって自己と他者関係を理解しようとする。ここに目(アイ)という、私(アイ)にとってもっとも基本的なメディアが抱える“アイ’’・デンティティのアポリアがあるのだ。
市原佐都子がスイス、チューリヒのノイマルクト劇場と共同製作した『Madama Butterfly』は、このような物語創作による自己/他者認識という<アイデンティティ>をめぐる難題に正面から挑む舞台である。ポストコロニアル・フェミニズムなどと大仰に構えなくても、プッチーニの高名な(悪名高い)オペラを脱臼させた本作は、自己と他者の関係において自然に存在する差異を恣意的な差別へと転化する文化の力学に執拗かつ軽快に迫るからだ。
『蝶々夫人』を書き換えた演劇といえば、David Henry Hwang(デヴィッド・ヘンリー・ウォン)の『M. Butterfly(エム・バタフライ)』(1988年初演)がジェンダー、人種、階級、民族、言語を横断し輻輳させた文化の力学を摘出した傑作として名高いが、市原の『Madama Butterfly』においても同様の理論的仕掛けによる転倒を期待した観客がいたとすれば(実は評者もその一人だったが…)、当てが外れるだろう。『M. Butterfly 』が、男性と女性、異性愛と同性愛、西洋と東洋、エリートとポピュラーといった二項対立をドラマチックに解体してしまうとすれば、『Madama Butterfly』は、そのような二項対立を壊すのではなく、むしろ徹底的に、戯画化するまでに提出しながら、ズラしまくり、ひいてはそれを温存させている私たち自身の意識や社会の常識を、まるで玉ネギの皮をむくように暴いていく。どちらも支配的な社会の力学を支えるステレオタイプを批判するのだが、その際の前者の戦略が、オリエンタリズム批判を核とする「転覆」だとすれば、後者のそれは、批判の核であるオリエンタリズム自体も皮に過ぎないと暴露する「脱構築」だと言っていいかもしれない。
ステレオタイプ
そのことを示唆するのが、舞台美術(Stefan Britze)と、冒頭から使われている映像(Juan Ferrari)である。舞台の床と後面の3方の壁にはジャングルを思わせるような彩色の絵が描かれており、それもいかにも紛い物というか、まるで日本の風呂屋のペンキ絵のような拵えである。それにはところどころ、「I-STOCK by Getty Images」という文字が書かれている。これはインターネット情報に浸された社会に生きている私たちが一度はどこかで見たことがある商標を模したもので、検索してみればすぐに分かるように、“iStock by Getty Images”とはオンライン画像マーケットサイトで、さまざまなヴィジュアルイメージを用途別にパッケージ化して売っているグローバル企業である。会社の宣伝パンフレットから、書籍のカバー、ウェブサイトの構築、映像の編集、個人の年賀状まで、人のまなざしを惹きつけるために有効だと考えられている多種多様なヴィジュアル素材がここで手に入る。かつては現実を反映すると言われてきたニュース写真やドキュメンタリー映像でさえも、いまやこうしたパッケージ化されたヴィジュアル素材の助けを借りており、視覚が圧倒的に優位な情報社会において、現実と表象との境界が融解していることの端的な証左が、こういった企業の存在だろう。
このような商標を喚起する『Madama Butterfly』の舞台は、この劇自体が、イメージやコピーのデジタルテクノロジーを介した反復や模造を前提とした借り物であり、そこに蔓延しているステレオタイプが私たちの意識や生活に、いつでもどこでも何をしていても浸潤しているかぎり、状況は何も変わらないことを示唆している。市原自身が、上演パンフレットの冒頭に次のように書いている――
プッチーニの『蝶々夫人』という120年程前に初演された、あまりにも有名なオペラのあまりにも有名な主人公であり、日本人女性のステレオタイプともいえる「蝶々さん」は、初めて会ったときから、私をイラつかせました。それは彼女が遅れているとか馬鹿だとか、日本人は/日本はこんなんじゃない、とかツッコミどころ満載でそんな風に言うことも簡単かもしれませんが、そうではなくて、彼女は私だ、状況はなにも変わっていない、と思わせられたからです。
(上掲パンフレット)
このような「ステレオタイプが私である」という苦い認識を私たち観客にさらに視覚的に認知させるのが、舞台冒頭から多用される映像(Juan Ferrari)である。舞台が始まる前から前面の幕には「東洋人女性」の顔が大写しに映しだされており、彼女の表情が歪んだり笑ったりしかめ面をしたりする。見ている観客にとっては、それをどう解釈したら良いかがわからない、しかし笑って済ませることも無視していることも、したり顔に解説することもできない、曖昧な感覚に襲われる、そんな状況から劇は始まる(上演台本では「二千年代初頭」という時間の指定がある★)。
舞台の幕が開くと、主人公の関西語訛りの日本語を喋る女、蝶々(竹中香子)が舞台に居て、自らの外貌について、下手の壁に映し出された映像の女、蝶々2と次のように会話している――
蝶々 ほんまうちなんでこんな顔なんやろ こんな平たいし 目も小さいし こんな顔やなかったらよかったのにって 何回思ったんやろ ほんま切実に
蝶々2 そんなのつまんない 外見に囚われないで 中身が大事
とこういった具合なのだが、ここでの二人の蝶々(ひとりは生身の俳優、もうひとりは映像、それも等身大ではなく、歪んだ鏡に映る人形のような映像)の一方は「東洋人の外見」について、他方は人種に関係のない人間の「内面」について、どちらも紋切り型のステレオタイプをなぞるような会話を続ける。たとえどれほど私たちが自己他者認識をめぐるステレオタイプを批判しようとしても、そこから逃れられない、まさにズブズブの「底なし沼」のような状況が、当初から明白に提示されるのだ。さらにその状況は、この会話に下手の壁に映し出された「西洋白人女性」ケイトが加わることで、よりステレオタイプの底なし度合いを増していく。たとえば次のような具合だ――
ケイト 人間は中身が大事よ
蝶々 こんな白人のアメリカ人に言われたら それは信用できるわ あんたたちは本気でそう思えてしまうくらい外見の美しさに余裕があんねん あらゆる人種のなかで 一番外見が美しいのは 自分らの人種やって生まれたときから思ってるやろ? 白人に生まれてよかったって思ってるやろ?
ケイト みんな自分自身を愛するべきよ
蝶々 ええな そんなこと言えて あんたらはうちらほどの劣等感持たんでええから 中身のことも 落ち着いて考えられんねん
ケイト 人間は中身が大事よ
蝶々2とケイト――どちらの人物像も通信速度の遅い配信画像のように動きが不自然で(そもそも表象に「自然」などないはずだが)、あきらかに「作り物」であり、出来の悪い模写であることが見て取れるのだが、問題は本物ではなく模写であることにこそステレオタイプの力の源泉があるということだ。3人の女たちの会話は、一方で「西洋白人女性」の外見美に憧れる「東洋人女性」の羨望というステレオタイプを反復し、他方で「人は外見ではない」というステレオタイプを反復する。しかし、というかむしろそれゆえに、この劇が一貫して追及するように、そうしたステレオタイプを誇張する露悪的な、というよりも、あっけらかんとした邪気のない表明が、オリエンタリズムの強固な社会的構造を示すと同時に、それが「悪い西洋人の加害者」と「無垢な東洋人の被害者」といった単純な力関係の理解では到底解きほぐすことができない、淫靡でしぶとい共犯者的心理によって成り立っていることが暴かれるのだ。この劇は冒頭から、人種やジェンダーや階級に関わる表象批判が、押しても頼りないがしぶとく残存し続ける暖簾のような<アイ・デンティティの沼>に足を取られて無効化していく現実を、人間と映像との会話という仮想空間において明白に提示しているのである。