小文字の他者を待ちながら―― 鈴木忠志『エレクトラ』『シンデレラ』における待機の位相/本橋哲也
二.『シンデレラ』における待機の断念
『シンデレラ』は、鈴木忠志が「親子のための音楽劇」として2012年に静岡で初演した劇を基にしており、今夏は利賀大山房で8月27日、9月3日、9月10日の3回上演された。鈴木はこの人口に膾炙した「少女の夢物語」を、ある意味で現代世界の権力闘争の寓話とするために、〈分身への待望〉というモチーフを導入する。『エレクトラ』でも瞥見できる、この分身構造をより明確に示すために、外枠として使われるのが「劇中劇構造」、すなわち劇中の登場人物が書いている物語を「稽古」として上演してもらう、という仮託の構造である。この「リハーサル」という形式は、鈴木忠志とSCOTのドラマトゥルギーのパロディである以上に、自らの分身を待つ/待たない演劇として、シンデレラ物語を相対化するという異化効果を発揮する。
鈴木演劇においては、つねに物語の伝達よりも空間の造形が優先する。すなわち、「スズキ・トレーニング・メソッド」によって徹底的に鍛えられた役者たちの身体の動きと台詞術、一点の曖昧さも曇りもない照明、幾何学的に計算しつくされた装置と小道具といった特質が、鈴木の舞台に「デジタル映像的な」輪郭を付与するのだが、この『シンデレラ』においても、そうした明確な空間造形が、虚構と現実の交錯という主題を際立たせる。そのような確固たる空間構成があるからこそ、開幕劈頭の主演女優の父(イ・ソンウォン)の登場といった「観客参加」の仕掛けや、シンデレラ物語を演じる俳優と彼女たちのリハーサルを支える制作者たち(演出家、演出助手、舞台・照明・音響・衣裳スタッフ)の舞台上での交流が、単なる「劇中劇的な裏話」をはるかに超える強度を生むのだ。空間の形式を整えることが物語の表層を突きぬけるドラマ性を保証する、という鈴木演劇の基本がここでも貫徹されているのである。
緊密な空間構成に支えられた練習と本番、偽と真、夢と現実とを入り組ませた仕掛け、それが『シンデレラ』というドラマを動かすのだが、その点をここではジェンダーという視点から考えてみたい。おそらく今回の『シンデレラ』は鈴木演劇において、ジェンダーの構成から見て、もっとも興味深いものの一つではないかと思われる。まず舞台上の人物配置として、舞台下手の半分には演出家(竹森陽一)を中心に制作側、つまり見る側の「男性」たちが座を占める(途中、女性プロデューサー(ディアナ・ベルネド)が登場するが、彼女は「外人」ということも含めて、「男性的な強者」のひとりである)。舞台上手の半分には演者側、つまり見られる側である『シンデレラ』の物語本体を稽古する女優たち(父親役の齊藤真紀、姉役の鬼頭理沙、妹役の木山はるか、ニセの王子役の佐藤ジョンソンあき)がおり、その両端に主人公のシンデレラを演じる(その物語の作者でもある)サチ(杉本幸)と、衣裳スタッフ(満田年水)が配置されている。サチは舞台全体の中心にいて、彼女を目にかけている演出助手(植田大介)が一種の舞台回しとして、下手の男性領域と上手の女性領域をかなり自由に横断することができる、といった構造である。
このようなジェンダーに関わる空間構造の力学を〈分身〉と〈待機〉というモチーフをめぐって如実に示すのが、幻想の王子(進真理恵)が登場してサチと会話する二回の場面である。一度目はオリーブの国からやってきたという王子がサチと初めて出会う場面、二度目は舞踏会にもぐりこんだサチを王子が追うことになる場面だが、このシンデレラ物語にとって中核となる男女の交感を描く場面において瞠目すべきなのは、ほとんど台詞のない衣裳スタッフの満田の演技だ。ドライアイスのスモークに魔法の雲のように乗った幻想の王子とヒロインのシンデレラ/サチの存在に観客の注意が集中するところだろうが、私たちがまなざしの方向を少しずらすと、鈴木の正確無比な照明が照らし出す満田の思いつめたような表情と静謐なたたずまいが目に入るはずだ。かくして、表層の物語の中核にあるヒロインとヒーローとの幻想的な時空と、それを認識論的に補足し脱構築する「脇役」の女性の現実的時空とが交錯する。とくに二度目の王子とシンデレラ/サチとの邂逅における満田の存在は、この『シンデレラ』全体の主題と構造を照らし出すといっても過言ではない。幻想の王子とシンデレラ/サチがロマンチックな会話を交わしているあいだ(ここでも『エレクトラ』における姉弟の会話での構造と同様、舞台の中心にいるシンデレラ/サチの背後に重なるように立つ王子という人物配置によって、二人は対話するというよりは、〈分身〉として互いの言葉を復唱し、互いの幻想を補強するのだが)、衣裳スタッフの満田はまるで自らの記憶を回顧するかのように、静かに、そして真剣に二人の会話を聞いている。その姿はまるで、その光と影の交錯の描写において世界で最も美しい絵画の一つと言われるフェルメールの「レースを編む女」と「真珠の耳飾りの少女」のような趣きと雰囲気を醸し出す。王子とヒロインの会話を聞いている彼女の照明に照らし出された横顔の美しさは比類なく、それは無言の認識的コメントとなって、多弁な恋人たちの存在を逆照射する。それはまるで、かつて自らも「シンデレラ」として幻想の王子に憧れていた彼女自身の青春を回想するようでもあり、そのような過去を現在という時点から批評するようでもある。若い男女の場面が終わると、この「お針子」はひそやかに溜息をついて、自分の背後にあった白いドレスを慈しむように撫でる――それはおそらくシンデレラが着る衣装であって、もしかしたら彼女自身の若き日の形見なのかもしれない。
このように舞台上のジェンダー的配置に注目することで、本来は脇役であるはずの衣裳スタッフの心理にまで議論の射程を広げれば、この劇が持っている〈分身への待望〉というモチーフが、あらためて明晰に浮かび上がっては来ないだろうか。つまり、こういうことだ――サチの父親の話によれば、サチには彼女の俳優としての才能や現状を心配している母親がいるが、母親は舞台には登場しない。彼女が劇中劇(リハーサル)のなかで演じているシンデレラの母親はすでに亡くなって不在である。そしてシンデレラ/サチの言葉を静かに聞き、その存在を見守る衣裳スタッフの満田はある意味で、シンデレラ/サチの母親でもあり、かつての娘(サチ/シンデレラ)自身でもある。このような分身構造を念頭に置けば、実はこの劇の劇中劇構造や、俳優とスタッフとの混成という仕組み、ニセの王子に体現された主人と召使の依存関係、イタリア語と日本語との転換と共存、といった表層の二重構造が、実はシンデレラ/サチとお針子との分身関係(自己とその影)によってドラマ化されていることが納得されてくる。
そもそもシンデレラに代表される、おとぎ話や童話のヒロインは、女王と侍女、母親と娘、美貌と醜態、若さと老い、富裕と貧窮、怠惰と労働、真実と虚偽、食事と炊事、舞踏会と掃除、衣服をまとう貴族と裁縫をする下女、といった二項対立をはらみ、かつ超越する存在だったはずで、ジェンダーの差異を空間的に表現したSCOT版『シンデレラ』の舞台は、そのことの意識化を観客に迫る。舞台の空間的人物配置が示唆する「見る側」と「見られる側」のジェンダー的分割は、その中心にこの物語を書くことでかろうじて自らの存在を自己にも他者にも認知されているサチを置くことで、確認されると同時に解体されてもいる。彼女が書いているシンデレラの物語は、男が主体となってきた支配的な歴史(his-story)を書き換える「女の歴史=her-story」であって、それゆえに〈分身〉構造を介して、様々な母親たちや妻たちや娘たちや乳母たちやお針子たちの物語ともなっている。しかし、その物語が演劇として上演されるためには、演出家を頂点とする男性中心的なハイアラーキーが支配する演劇空間が必要であることを、この何重にも重なる入れ子構造をもった舞台は示してもいるのである。とすれば、私たちが考えるべきなのは、舞台のジェンダー的配置と、待機という契機が、この劇の入れ子構造の中で、どのように有機的に連関しているのか、という問いだろう。