【思考の種まき講座】綺想を紡ぐ――野木萌葱トーク
■とにかく書いた日藝時代
西堂 それで(日大藝術学部の)劇作コースに入られる時、親とか周囲の人から、「大丈夫なのか」といったブレーキはかかりませんでしたか?
野木 ブレーキはなかったですね。母は美術、絵画、父は音楽で、二人ともやりたかったけど出来なかったらしいので。(逆に、)「やめるな」と言われましたね。「やるならやれ」と。
西堂 じゃあ、ある意味芸術に対する理解がすごく整っていた。
野木 理解……でしょうか……?
西堂 「芸術はなかなか食えないからやめろ」って言うのが世の親でしょ? だから、(両親が)背中を押してくれるのは、いい意味でかなり特殊な環境かと思うんですけど……。
野木 ありがたいですね。
西堂 大学1年からもう劇作コースに所属されていたんですか?
野木 はい、そうです。
西堂 そこでずいぶん修業をされたんですか?
野木 そう……ですね。劇作コースには先生が二人いたんですけど、一人の先生は「とにかく書きなさい。書き上げなさい」という方だったので、「はい、分かりました」と(素直に従い、書きました)。自分がどんなに下らないとかつまらないとか思っても、とにかく書き上げなさい、と。
西堂 野木さんは劇作コースの第一期生、言ってみればパイオニアのような存在ですが、どんな授業をされていたんですか? 先輩がいないわけですよね?
野木 正確に言うと、たくさんのコースがくっついたり離れたりの繰り返しで、私がいた時とは違うようなんです。私の時は劇作コース・理評コースと分かれていたんですけど、私が入学する前はそれが一緒だったらしい。で、また私が入った時に分かれて、またくっついたらしい、みたいなことは耳にしました。
西堂 僕も日大の大学院に非常勤講師として3年間くらい行っていたんですが、その時にいた劇作コースの学生は頑張っていて、大学生の間にものすごい量を書いていましたね。だから、かなりしごかれたのかと思って見ていました。
野木 しごかれたうちに入るのかな? でも(たくさん)書いていましたね。
西堂 野木さんがいらっしゃった一期生の頃と、僕が講師をしていた2010年前後では、(年が)一巡りくらい違うので、先生たちもずいぶん変わったでしょうね。僕のいた頃よりちょっと前までは、斎藤憐さんとか川村毅さんとかプロの劇作家が指導に来られていましたが、野木さんの頃はどんな先生がいらっしゃったんですか?
野木 大変お世話になった先生を悪く言うわけではないんですけれども、誰もが知っている演劇の方ではなかったと思います(沈黙)。
西堂 沈黙が……。
野木 すみません。……岡安伸治先生!
西堂 岡安さんに習ったんですか!
野木 はい。学生時代に本屋さんに行ったら、『岡安伸治戯曲集1-4』(1988、92、2014年、晩成書房)っていうのがあったんですよ。「すごい!」と思って帯を見たら「今一番危険な劇作家」って書いてあったので、「うわ! すごい人に習っているんだ!」と(驚きました)。
西堂 (彼が主宰する)劇団は世仁下乃一座ですね。
野木 そうですか。私、劇団は観なかったなぁ。
西堂 でもあの岡安伸治でしょ?
野木 そうです。(先生が書かれた)走る長距離トラックの『太平洋ベルトライン』は本当に面白いです。あと、ずっと走っているバスの中で(会話が)交わされる『ドリームエクスプレスAT』とか、面白い現代劇作家だと思いながら(読んでいました)。
西堂 プロレタリア演劇の系譜に当たる人ですね。いい意味で「危険な」劇作家です。
野木 その枠組みになるんですか?
西堂 ええ、岡安さんは肉体労働者を主人公に描く、プロレタリア演劇風と言われていました。
野木 あ、そうだ、思い出しました。すごく恥ずかしいですが、岡安さんの戯曲集を読んで、あまりにも面白くて、授業が終わった後に、先生に「面白かったです」って(言いに行きました)。今から考えると生意気な事を言って、先生は苦笑いされて……。
西堂 その時の指導方法はどんな感じでしたか?
野木 岡安先生の授業では、劇作コースだけど、確か(ソーントン・ワイルダーの)『わが町』とか、学生の書いた本の一場面とかを実際にやってみよう、というものもありました。同期なので、(台詞が)「言いづらい」とか「よく分かんない」とか言いたい放題なんですけどね。それをやって本を修正する。でも当時は授業内で遊んでいるという感じでした。あと、映画を観ることもありました。
西堂 その頃(大学時代)のメンバーを中心にして、パラドックス定数の最初のユニットが立ち上がったという感じですか?
野木 そうですね。演劇学科の学生が多かったですが、劇作コースはいなかったです。
西堂 演技コースとかそういう感じですか?
野木 はい、そうですね。最初は演技コースの方に声をかけました。
西堂 最初に旗揚げしたのは、大学の3年くらいですね?
野木 そうです。
西堂 早いですね。
野木 いや、学科が同じ同期の中で一番遅いですよ。
西堂 大学3年というと、20歳くらい? 1990代末くらいですか?
野木 そうです。1998年でしたね。
西堂 日藝だと学生で旗揚げするというのは、もう当たり前だったのですか?
野木 当たり前でしたね。もうたくさんありました。
西堂 結構乱立しながら競い合っている感じでしたか?
野木 競っていたのかなあ……? ちょっとそこは分からないですけど。
西堂 競ってなくてもとにかくやっていた?
野木 はい、やっていました。
西堂 それで評判はどうでしたか? 結構手ごたえはありましたか?
野木 いや、最初に潰れる劇団だって言われていたので、「だよね」って思いながらやっていました。赤字の分をアルバイトして返して、またお金溜まってきたら、またやろうかっていうそんな感じでずっとやっていました。
西堂 めげるとか挫折するとかそういうことはなくて、すぐ立ち直ってやると。
野木 立ち直る……?
西堂 挫折をしない。
野木 そうでしたね、はい(笑)。
西堂 そこは、ちょっとすごいというか、なかなか出会ったことのない人だなと思った所以の一つなんですね。
野木 ふわっとやっていました。
西堂 パラドックス定数っていうこの名前の所以もよく聞かれますか?
野木 時々。
西堂 「数学得意だろう?」とか?
野木 全く。
西堂 パラドックス定数は、「第〇回公演」じゃなくて、「第一項」とか、「第〇〇項」とか、項になっています。これには何か理由があるんですか?
野木 旗揚げの時に、「公演なのか?」とか生意気なことを考えたのかな……。チェック項目じゃないですけど、一つ、もう一つと……。
西堂 項目の項?
野木 そうです。そんな感じがいいなと。
西堂 パラドックス定数っていう劇団名はどういう経緯で付けられたのか聞いてよろしいです
か……。
野木 これね……。はい、答えます。パラドックス定数は、設立当時は劇団ではなかったんですけれども、集団を作って第1回公演をやろうということになって。先程言ったように、同じ学年の中で一番旗揚げが遅かったんですよ。そして、同期の知り合いや友達が他の劇団を作っていたんですけど、チケットをチケットぴあに委託するんですよ。それがステータスみたいになっていて。当時週刊で出ていた雑誌『ぴあ』に劇団の名前が小さいんですけど載っていて、すごいなとか思っていました。私も「ついにチケットの委託をするんだ」ということでお電話をして、「では劇団名を教えてください」って聞かれた時に私はお芝居のタイトルを言ったんですよ。「このタイトルのチケットを売りたいので、これで登録お願いします」と。そうしたら「すみません。劇団名が必要なんです。今!」と言われたので慌てて机の上にあった本をバッと開いて見つけたのが、「パラドックス定数」です。
西堂 (笑)。出会い頭?
野木 そうです。
西堂 (笑)。たしかに一番最初に潰れそうですね。
野木 でしょう?
西堂 よく第二項がありましたね。
野木 はい、やりました。
西堂 そのノンシャランとした感じが(他の人と違いますよね)。
野木 ノンシャラン?
西堂 要するに、屈託なく次に向かえる。
野木 そうですね。
西堂 でも確かに日藝は成功したいという学生が多いですよね。
野木 そうなんですか?
西堂 多いです。演劇業界に残りたくて、そのための方法を考えるみたいな学生が多いですね。だから、その中でやっぱり野木さんは異色中の異色だった。どうやって残ろうとしたの?
野木 やめなきゃ残るでしょう?
西堂 (笑)。それはパラドックスですね。まさに逆説。
野木 やめなきゃ残るは正論じゃないんですか?
西堂 なるほど。
野木 はい。
西堂 分かりました。