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時間

今井 白石加代子演じる「皆来アタイ」と橋爪功の「楽(たの)」は高校の同級生だったという設定になっていますが、これはおかしくて、イタコのほうは50年間ずっとイタコの試験を受けて落ちているのに対し、「楽(たの)」は3歳のときにお父さんが亡くなったと出てくるので、設定としては33歳のはずです。俳優の実年齢とも違っているし、2人の年齢を台詞から逆算しても同級生だったはずがない。時間軸がリアルな設定に回収できないようにしているんですね。むしろ矛盾をさらけ出したまま放置しているようにも見える。

野田 たしかに。『新潮』掲載の『フェイクスピア』戯曲では、最初のト書きのところは「時、2051年8月12日」となっていて、場所は青森県恐山と指定してある。ところが、「ただし、これはよくある近未来の世界ではない。恐山は30年たっても今と何も変わらない。ですから、2021年のつもりで演じて構わない」と書き足しているんですね。とはいっても、このト書きを読まずに観客は舞台を見ますから、当然「ねえ、これは年齢関係はどうなっているの」となる。おっしゃるとおり、わざと時間感覚を攪乱しているのでしょうね。

嶋田 『新潮』掲載の戯曲だと、「楽(たの)」の年齢は66歳だと分かる仕組みです。ただし、2051年という設定で考えても、舞台で実際に発していた言葉の年数とは明らかに異なっています。

今井 俳優自身の身体が一つのリアルな人間像として固定せずに、死者の魂のように浮遊しているように見せる仕組みの一部なんでしょうかね。

野田 つまるところは《実》のあり方なんでしょうね。《事実》なのか《真実》なのか。《事実》よりもむしろ《真実》を作り手は考えるべきだと。《事実》のレベルで考えるとこれはおかしい。ボイスレコーダーという《事実》がそのまま瓶詰めされた箱から出てきた言葉であっても、それが演劇的に《真実》でないと意味がない。やはり作品の一部でではありますが日航機墜落事故をとりあげている『チャーリー・ビクター・ロメオ』(原作初演1999年、燐光群による日本初演2002年)のように、コックピットで起きた《事実》だけを舞台にのせるやり方を野田秀樹は拒んだということでしょう。ならば死者からの言葉に、どうやって《真実》を見いだせばいいのだろうか――野田秀樹の芸術論は、そこに行き着いているような気がします。

嶋田 日航機墜落事故は、ケラリーノ・サンドロヴィッチも『ナイス・エイジ』(2000年)や、詩森ろばの『葬送の教室』(2010年)などでも取り上げられていますね。

今井 多いですよね。事件の翌年には劇団離風霊船の大橋泰彦『赤い鳥逃げた・・・』(1986年)が早くも取り上げて、衝撃を受けたとの記憶も持つ方もいらっしゃるようです。昭和史に刺さった大きな「棘」の一つと言える事件だからではないでしょうか。

神話の層

藤原 神話的要素が入っていましたね。

嶋田 ギリシャ神話のプロメテウスですね。

野田 噂程度の設定なんですが、「mono」がプロメテウスの「いとこ」ということになっているんです。ゼウスから火を盗んで人間に与えたのがプロメテウスで、そのいとこである「mono」は神から言葉を盗んで人間に与えたという風に。その上「mono」は「江戸っ子」だったので、最初に盗むコトバとして「火」のかわりに「死」を選んでしまったというオチまでついている。言葉という表象は《死=不在》の徴としてあるということなんでしょうね。ただ、その徴がないと、人は死を認識できない。

藤原 私は本作における神は、言葉の神であるシェイクスピアだったのではと受け取っています。冒頭で話したように、フィクションとノンフィクションとの相克が重要な点だったと思うからです。野田さんがおっしゃった、神から死を盗まなければ人間は死を認識できないという点については、木が枯れるようにではなく、いかに人間が死ぬことをそれ自体として意識できるか、というやりとりがあります。それは戦争や災害における「数としての死」を、「個的な死」として受け止めることができるかという、問題でしょうか。
 星の王子様はmonoに、「こころ」とは言葉に垂れる水滴だと言います。そして言葉がなくなると「こころ」も消えると続ける。それは血を通わせ、真心を込めた言葉に「こころ」が宿るということかもしれません。3.11やコロナ禍においても、ニュース報道で日々、死者や感染者数が数として報道されてきましたが、そこには一人ひとりの顔があるということへの想像力をいかに持てるか。そういった事柄にも通じています。
 演出面で言えば、monoが暗闇の中に浮かぶ明かりが灯った場所に消えていくシーンで、まるで空中を駆け上っているように見えたり、反り立つ壁が恐山から御巣鷹山に見えたりと、瞬時に場所を変えてしまう手法に、今回も演劇的手腕を感じさせられました。

野田 神と言葉の関係に関する形而上学的な問いかけは、作中で頻発しますね。アブラハムは「ロシア革命以来、神は不在だ」と言いますが、これなどは神なき後の言葉のあり方を示すものです。劇中で裁判が始まると、「mono」を訴えたという「フェイクスピア」を演じる野田は「『神様、何で何もおっしゃってくれないんです?』とか、今みたいな苦情をしばしば頂くが、神を無口にしたのは人間自身だとコトバの神様は言っている。つまりパパ、僕のパパが言っている」と言いますが、ここでの「僕のパパ」というのはシェイクスピアのことでしょう。
 ただ、ここら辺はかなり錯綜していて、私も分からないことだらけなんですよね。第一史実によればシェイクスピアの息子は幼くして死んだはずですから、この「フェイクスピア」という存在自体がうさんくさい。そういう人物が、相続人ヅラして、シェイクスピアの書いた言葉だけではなく、ギリシャ神話も自分のものだみたいなことまで言う。先行世代が後続世代のコトバをわがもの顔に乗っ取っていくということでもあるでしょうし、トランプ元大統領の誇大妄想的な「偉大なるアメリカ」像もちらついてくる――「美しい国日本」でもいいけれども。とにかく、死者の言葉をどうやってわれわれ現代人が受け嗣げば良いのかという問題に対して、野田が非常にアイロニカルな、二面的な見方をしているということは、間違いないだろうと思います。

嶋田 常に大きな問題を提起する野田秀樹の新作は、どのような角度からでも議論の対象となりますね。
 次回公演(2021年11月)はたびたび上演している『THE BEE』です。この作品も言葉と暴力が紡ぎ出すイメージが加速度的に増幅していく物語ですね。このように考えると野田秀樹の作品は、再演にしても、思考が一貫していると思います。また新作公演の時に、改めて議論したいと思います。
 本日はありがとうございました。

※敬称略
(2021年7月4日@Zoomにて収録)