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フィクションとしての言葉

今井 フェイクスピアというタイトル・ロールは、シェイクスピアの仮想の息子なのですが、これを野田秀樹自身が演じます。彼の役は、SNSのような昨今の軽い表層の言葉をもてあそぶ人であり、また劇聖の系統も汲む人でもあるという位置付けになる。劇作家としての虚構の言葉もまた、表層的言葉に過ぎないのではないかという問題意識です。

嶋田 言葉の「重さ」の問題ですよね。ボイスレコーダーの記録された命懸けの言葉と、それから昨今のSNSで無責任に消費されていく言葉の対比が見事になされていました。

野田 コロナ禍におけるミスインフォーメーションに辟易しているのでしょう、公演プログラム冊子で野田秀樹はこう語っていますね。

気になるのは、日々目にするコロナ関連の情報が、だんだん虚構化してきていること。本当は死と直面している話なのに、何だろうね、その中身の無さというか、言葉の軽さは。

しかし彼は、軽い言葉が横行している事態に関して、責任の一端は自分にもあると感じています。20代の時に価値相対主義的傾向の中で「軽い言葉の人」として登場した自分のような劇作家が、言葉の価値を軽くしてしまった責任を負うべきだと。彼が岸田戯曲賞を受賞したのは1983年なのですが、その前年、候補に挙がっていながら受賞を逃したときに「これで演劇の王道が守られた」という意味の発言もあったらしくて、これに関して翌年の授賞式で野田は青ざめた顔で異を唱えたそうなんですね。それで1991年の段階でも彼はこういう風に語っているんです。

世界が深いという言い方があるけど深いというのはなんだろうね。ぼくはそれに反発して芝居を始めた方だけどね。僕のは本質がないとか深みがないとか言われていたわけで、そうだよ、ごもっともでごぜえますと言って始めた。(野田秀樹/村井健・対談「論を持たない世代の論」『テアトロ』583号、1991年)

その30年後に、もはや劇壇の大御所になった野田秀樹が、自分の来し方と向き合った結果が『フェイクスピア』だったということでしょうね。先に挙げたプログラム冊子で彼が本作について「ある意味、非常に個人的な作品」と言うのも分かる気がします。「今の言葉の軽さに対峙するものは、それこそシェイクスピア劇に出てくるような、洗練とか様式をまとった言葉ではない気がするんですよ」という発言をみると、新型コロナ禍における言語への危機感がうかがえます。
 それで、1995年に取り上げたボイスレコーダーの声を、2021年に「再現=表象 (representation)」してみようと思ったのでしょうね。『フェイクスピア』という題なのに、全然シェイクスピアのことではないというフェイントも効いてます。メタ演劇の構成で展開している中盤部は、物語が進行しない分観客としてついていくのが大変でしたが、問題意識の所在はたぶんそこだろうと思います。

嶋田 歌舞伎の義太夫に乗せてせりふが展開したり、人形振りのような場面があったり、ラップが出たりと、さまざまな言葉上の遊びとリズムが目立ちました。死者の記憶をどういう形で舞台上で再現するかについての試みは『オイル』(2003)や『ロープ』(2006)といった過去のNODA・MAPの作品、ヴェルディ『マクベス』の演出(2004)でも見られましたが、今回はよりダイナミックにそれが舞台上で繰り広げられました。

演技

今井 私が観にいった時は、白石加代子と橋爪功という長老級の俳優が盤石の演技でした。一方、メインの高橋一生は身体性が高く、しなやかながら、冷静で熱くならない。彼の存在感は、NODA・MAPの舞台には珍しいけれども、本作では合っていたと思います。

藤原 高橋一生は目には見えないマコトノ葉が入った匣と同じく、「容器」として存在していたのではないでしょうか。事故の凄惨さを現在に蘇らせる俳優としての役割だけではなく、フライトレコーダーがそのまま再生されたかのようなドキュメント性を感じさせられたのは、彼がニュートラルないで立ちで舞台上に居たからこそです。
 このニュートラルさがあったからこそ、「頭を上げろ!」という言葉が機首の操作とは全然違う文脈で宙空を舞い、楽の自殺を押しとどめ、さらにはコロナ禍を生きる観客を鼓舞する大切な言葉として聞くことが可能になりました。配役の上では、高橋一生が父で橋爪功が息子というはねじれがありました。時空を超えて届く死者の言葉というねじれと共に説得力があったのは、俳優が肉声で目の前の観客に伝えるという演劇だったからでしょう。

野田 高橋一生の役名が「mono」なのも、どこか人間離れして物質化した存在、ボイスレコーダーという箱と一体化している存在にしたいという作者の意図があったのでしょう。高橋一生の温度の低いたたずまいは、たしかにそれに合っていました。

嶋田 前田敦子のふわふわした感じも新鮮でした。それが橋爪功や白石加代子の存在とのバランスがよく取れていて、多様性の中に安定感をもたらしていたのでは。

藤原 前田敦子が演じた星の王子様はもちろん、サン=テグジュペリ―飛行機の搭乗中に消息不明となったーの小説の人物。シェイクスピアと対峙してmonoの弁護人となります。あるいは皆来アタイの母・伝説のイタコとして、娘に日航機事故の死者を降霊させて、monoにマコトノ葉を再現させる。
 「ぼく」と王子の関係性を描く『星の王子様』は、忘れてしまった子供の心を大人に思い出させる作品だと言えます。それと同様に前田敦子が演じた二役は、大事な記憶を思い出させるべくmonoや皆来アタイに寄り添う人物です。前田敦子はキーポイントとなる役柄を演じたわけですが、私はその身体性にはふわふわ感よりも力みが目立ちました。喉で無理に発声していたので、台詞がうまく伝わってこなかったのが残念です。
 ところで、本作のヒロインは白石加代子と受け取りました。若手女優やテレビドラマの主役級がヒロインであることが多かった中では、新鮮でした。「憑依の女優なんて呼ばれていた」と白石加代子として挨拶してから、最後には役から離れて白石加代子として観客に挨拶して終わる。そういう意味でも、白石加代子が支える部分が大きい作品ですね。

嶋田 前回の『Q』だとヒロイン役は広瀬すず、それを年長の松たか子が見守るという形ですね。ところが『フェイクスピア』だと、若い方の俳優が年上の俳優を「見守る」。

野田 若い高橋一生の「mono」が年齢的には上である橋爪功演じる「楽」の父親であるという図式。そして若い前田敦子の「伝説のイタコ」がやはり年齢的には上である白石加代子の「皆来(みならい)アタイ」の母親であるという図式。たしかに両者の形は一致しますね。
 死者の言葉をどうやって現代の言葉として受け取っていくかということは、野田にとって長いことテーマを形成しています。たとえば『パンドラの鐘』(1999年)では、ミズヲが死を覚悟したヒメ女に対して「化けて出てこい!」と言います。今回の『フェイクスピア』におけるボイスレコーダーは、化けて出てきた声が入った匣(はこ)ということですね。死者は常にわれわれ生きている者と共にあるというのは、野田作品の所々に強く現れてる感覚です。他方、ひとたび発せられた言葉は、後に裁かれることになる。それが一番顕著なのが、シェイクスピアが裁判に掛けられる『三代目、りちゃあど』(1990年)です。
 ここには、劇作家としての自分のあり方を問う野田の姿勢が見え隠れしています。夢の遊眠社時代には、軽い言葉の発信者として受け止められていた自分が、今や重い言葉をきちんと世間に対して発する大御所的な存在として演劇界にいる。言葉の《軽い/重い》は必ずしも《フェイク/ファクト》とは重なりませんが、それでも自分の言葉に死者の声、歴史の声というものを載せ、それなりの重みを持って人々に受け取ってもらえるにはどうしたらよいのだろうかという思いですね。本作『フェイクスピア』で演劇論らしき議論が丁々発止と展開されるのもそのためでしょう。