シアター・クリティック・ナウ 2021――佐藤信と「運動」の演劇
■若葉町ウォーフ――民間からつながる協働
【内田】オリンピックへの抗議で佐藤信という演劇人が、演劇を一つの社会的な活動の中でとらえるべきだとずっと考えてきた方だということが、痛いほど皆さんおわかりになったのではないかと思います。佐藤さんがいま現在進行形で試みている、横浜の若葉町ウォーフ。最寄り駅は京浜急行の日ノ出町でしたか、ごみごみした下町にあります。黒澤明監督の『天国と地獄』という映画は、低地に貧しい人が住み、山手の方にいわゆる富裕層が住むという、横浜の階層構造を示していましたが、まさにその地獄の方ですよね。古いビルを使って、スペースと泊まる場所とを併設し、劇場という言葉では片づけられない複雑な機能をもたせています。
【梅山】若葉町ウォーフは2017年にオープンしました。若葉町ウォーフについて考えるにあたっては、その前段階として、座・高円寺での芸術監督のお仕事や劇場創造アカデミーの活動も無視できないと思います。芸術監督としてさまざまな業務に携わっているだけではなくて、劇場創造アカデミーで、エドワード・ボンドの長編作品(「戦争戯曲集・三部作」第一部『赤と黒と無知』、第二部『缶詰族』、第三部『大いなる平和』)に取り組むなど、教育ということが信さんのなかで非常に大きくなっているということを感じさせられるんです。そこから、座・高円寺という活動拠点とは別の形でやっていく場所ということで若葉町ウォーフにつながっていく。いまその二つで、主に劇場における活動というのは展開しています。
若葉町ウォーフは3階構造になっていて、1階がいわゆる劇場として使えるところで、2階が稽古場になっており、3階に宿泊施設を持っている劇場ということが大きな特徴です。3000円で泊まれるので、泊まりながら長く稽古をして、ゆくゆくは1階のスペースで本番を迎える。そういうことを見据えて運営されています。いま「劇場」と呼んでしまったんですけど、信さんは「アートセンター若葉町ウォーフ」と名付けて運営しています。
去年はコロナの影響を受けながら、1階のスペースをどのように開いていくのかということで、かなりユニークな活動をされています。若葉町ウォーフ界隈は、エスニックなお店やマッサージ店があったり、長くやっているミニ・シアターやライブ・スペースもある場所です。そんな地域のアートスペースと協働するようなことも去年始めておられますよね?
【佐藤】大学教員をやめてから、芝居の世界でこの先どうやって動き続けたらいいだろうと考えて、ちょっとしたスペース探しをしていたんだけど、東京の中にはもうたくさんあるから、それで横浜に行ってみて出会った場所なんですね。開けてから今年で4年目になりますけど、朝、シャッターを開けると、道路に血が流れていたとういうのが、もう3回ほどあったような場所なんですよ(笑)。
1966年に六本木にアンダーグラウンド・シアター自由劇場を作りましたが、その同じ年に立ったビルで、地元の伊勢崎商店街の商店主たちが、当時はまだクレジットカードがないので、自分たちで立ち上げた月賦屋さんの本拠地だった小さな3階建ての金融ビルです。思い出があって半世紀以上そのままの形で残されて、いろんな方が使ったりしていたんですけど、そのビルがすごく気に入ったことと、立地がすごくよかったこと。横浜は港に近い都心部は創造文化都市を名乗っていろいろな施設や、ハイアートがあるんですけど、下町は下町でぜんぜん違う風情。そのビルを借りて、少しイノベーションして、1階に発表するスタジオがあって、3階に宿屋がある。1階の小劇場ではとにかく大変でしたけど興行の許可を取り、3階も宿泊業の認可も取って――それを2017年にオープンしたんです。
実は、本当にここで何がやりたいかということは、いまひとつはっきりしないまま作った。それこそちょっとハッタリめいたところがあって、「とにかくやっちゃえ!」いうことで作ったんです。そしてCOVID-19です。昨年4月に最初に出た緊急事態宣言は非常に強力なものだったから、旅館も1階も休業要請で閉めろと言われた。その時に、閉めるんだったら、開けようかと思った。シャッターも閉めて真っ暗にしておくのではなく、シャッターも全部開けて、ふだんは防音のために厚い蓋で閉じている窓も開けて明るくして、人の出入りを自由にして、お金を取るわけではないから、これは町の空き地だというふうにすればいいだろう、と。そのうち、その空き地で付近にいるアーティストたちが白い壁のところに落書きをさせてくれとか、いろんな活動が始まって、毎週火曜日に井戸端会議という、近隣の人たちが集まり、一週間起きたことを話しましょうというすごくゆるい集まりを始めたら、それがいまでも続いていて、近隣のミニシアターの方や横浜市の持っているギャラリーの方、その他、ぜんぜん関係ない方も来て話すという会をいまもつづけています。出入り自由な空き地にしたら、何よりも子どもたちが立ち寄ってくれるようになった。子どもたちってすごいと思ったんだけど、長テーブルの上に白い紙を貼って「何を書いてもいいよ」って言ったら、いきなりみんなそこにいろいろな料理の絵を描き出して、2、3日ですごく豪華な食卓が出来上がっていく。そんな経験から、「まちなかギャラリー」や、僕たちのところに出入りしているいろんなアーティストにワークショップをやってもらう「大岡川はとば倶楽部」という事業の形になった。ゆくゆくはキャバレースタイルの出し物ができる場所というイメージもふくらんで、スタンダップコメディを上演したりという活動を行っています。
はっきりしてきたことは、これから変わろうとするけれど、時間がかかることを始めた方がいいと思って。たとえばフェスティバル。日本では、いきなりエディンバラ・フェスティバルを作りたいとか言うんですよね。エディンバラ・フェスティバルの最初がどうだったか知っていますか? アヴィニョン・フェスティバルのオフというのは、最初どのくらいの規模でやったか知っていますか? 3とか4つとかでやっているようなものだったんですよ。そこからだんだん大きくなった。この3つか4つをやるということが、国や行政では出来ないんで民間でやりたいと思ったんです。公共にもいろいろないいところはあるんですけど、失敗が出来ない。失敗を失敗と言えないということなんですよ。実験は失敗することにものすごく意味がある。最初から成功するんだったら実験する意味がないわけだから。
あと、公共は長期のことができない。座・高円寺でも10年以上かかる取り組みはなかなか理解してもらえない。座・高円寺ではレパートリーシステムを作ったので、作品だけは本日公演した『ピンポン』も11年目になりましたが、これもレパートリーシステムという形で1年ごとに提案しながら10年続けているので、最初から10年やりますということは言えない。また、明日から始めようというのも無理だし、始めても嫌になったから止めようというのも無理。民間ではそれが全部は出来る。
10年間ぐらいで育つみたいなことをやりたいと思っていて、横浜に居を構えた途端に、全国に民間の小劇場というか、施設がたくさんあって、しかもすごく面白い活動をしているところがあるとわかったんです。なぜか東京だとその情報が何も入って来ない。まだ7ヵ所くらいしか足は運んでいませんけど、行ってみると本当に、こんなことが出来ている、みたいなことがたくさんありました。今年の秋ぐらいに民間の小劇場ネットワークという組織としてつながっていきます。あまり中間組織にならないように、自主的に活動していくというものにしようと思っているのと、それとは別にアートセンターリンクというプラットホームのサイトも構築中です。サイトを開けると、アジア諸都市や日本各地にどんな施設があるか、簡単な紹介と施設内容や活動の写真を見ることができる――立ち上げてみると、いままでどうしてなかったんだろうと思うくらいちょっと面白い。アジアに行っていろいろな人と出会ったときに、あとでその情報を共有するのがものすごく大変だった。このサイトにみんなが登録し、書き込みが始まると外国から日本に来たいという人が、北海道や沖縄に行けばこういう劇場があって、泊まって上演出来るという情報に簡単にアクセス出来る。そんなことを若い仲間と組みながらやっています。
梅山さんは教育と言ってくれたけど、僕は教育という意識よりも、歳をとってから若い人と出会うには教育という名目が一番やりやすい(笑)。一緒に作品をつくりましょうと言っても、なかなか一緒にやってくれないけれど。大学にいてよかったことはとにかく4年間若い人と会えることと、後腐れなく別れられること。その中で何人かに――梅山さんもそうですけど――自分のやってきた経験など、人とつながることによって後につなげていく、そういう協働者を生むために教育ということはあると思う。いま人と人とのネットワークがすごく大事な時なので、若葉町ウォーフを具体的に人が集まる場所にしよう、と思ってます。いまは、そんなにたくさんの規模では集まれないので、だいたい15人ぐらい集まれば何か出来るということを考えながらやっていこう、と。そうするとまたいろいろなことが明らかになっていく。お金をかけられない時にはどうしたらいいかというと、シェアするしかないんですよ。来る人も少し払うというようなやり方で、例えば15人が集まって、2000円ずつ取るとする。それで出し物は十分出来る。もちろん施設の維持などは別のことを考えなくてはいけないけど、東京以外の地域ではリタイアした不動産屋さんや、リタイアした演劇人が、そういう施設を作って運営している。そこに多少私財を投入したり、自分は無給で働きながらという活動が始まっているので、ジャーナリスティックなものになっていくのはまだ時間がかかると思いますが、すでにそういう変化が起きているわけですよね。
大きな話に戻すと、1990年以来、つまり平成というブラック・ボックスの時代。オウム真理教から始まってオウム真理教の死刑で終わったあの時代。世界史的に言えば、ベルリンの壁が壊れて、サッチャー時代の新自由主義から現在まで――資本主義体制の後を何か考えない限り、人類というのはこのままではやっていけないという時に、いろいろなつぎはぎをして先延ばしにしてきた。その中でさまざまなところであたらしい形や考え方の萌芽はある。それを見つけ出すことを今やらなくてはならない。その小さい芽を探していくという活動を、足腰の立つうちはやっていこうと思っています。
【内田】信さん、40歳で会った頃と変わらない、分厚い言葉の量です。
【佐藤】これはジジェクに学んでいるんですよ(笑)。