シアター・クリティック・ナウ 2021――佐藤信と「運動」の演劇
■演出家とは? 演出とは?
【佐藤】実は今日――僕は演出家を廃業することに決めたんですよ。それはオリンピック開会式のことなんです。演出家が解任されましたよね。もう日本には演出家という仕事は必要ないんだということがわかったんです。どういうことかというと、一点目は、解任されることはあってもいいと思う。でも、日本以外の国だったら、解任されたら演出家は自分の演出を使われては困ると必ず言いますよ。二点目は、演出家が降りたら、スタッフが一緒に降りるはずです。が、降りていない。もしかしたら降りたかもしれないけど、傷を負うほどは降りていない。誰も演出家を守らなかった。それは現場で演出家の関係が出来あがっていないから。三点目は、降ろしても開会式はちゃんと出来たことになっている――演出家はいらないんじゃないかということですよね。この国では演出家はいらないんだから、演出家と名乗るのはやめよう、演出家を廃業しようと思った。誰かが声を上げないと、演出家はそういうものだと定着してしまいますよ。いままでもそうだったと言えばそうなんですが、絶好の機会なんです。僕が一番、腹が立ったのは、降ろされた途端に報道機関が彼の肩書を一斉に「演出家」から「コメディアン・お笑い芸人」に変えたことです。そうすると演出家というのはこの国の文化の中にはまだ存在しないんだ。いま演出家という人たちは抗議の声を上げるべきだと思いますが、僕は声明を出したりするのはあまり好きではないので、廃業しようと決めたんです。
どういう肩書にしようか考えているんですが、「劇作家」がまだ残っているからいいかと思っているんです。何が言いたいかというと、劇場とかそういう作業に、プロフェッショナリズムが確立されていない。社会的な認知を受けていないんですよ。演出家の作業が何であるかということが知れ渡っていないんです。オリンピックの開会式の演出家というのは、リハーサルの最後まで現場に立ち合って、必ずすべてのスタッフがまとめて最終判断を演出家に求めていたはずなんです。演出家が存在しないパフォーマンスはたくさあります。演劇史上、演出家のいない演劇の方が多いですし、いまでも全世界的にディレクターの存在しない演劇はたくさんあります。もちろんディレクションをしている人はどこかにはいますけれど、「演出家」が生まれたのは近代以降ですから。だから僕は近代以降の演出家を放棄しようと思っています。この国は近代以降の演出家というものはないんだから、それを名乗ることは馬鹿げていると思う。
劇場を作るときにそれをすごく感じたわけ。劇場を作るという専門家として出ている人たちが、これから役員たちは財務省と折衝するという最後の会議に、トイレを作れはないだろう。こんな会議をまともにやっていたら馬鹿にされますよ。そのことでずっと馬鹿にされ続けてきているんです。どんな高名な演出家でもそういうところでそういう発言をしているんじゃないかと思うので、僕は劇場を作るときは、劇場の専門家として技術的なものを持ち込もうと思っています。技術的なことというのは、ハードだけではなくて劇場組織というソフトの面もある。僕も自分の知見がすべて正しいと思っているわけではないので芸術監督と名乗っていますが、どちらかというとコンサル(タント)のような仕事だと思っています。でも劇場コンサルがやりたいわけではなくて、本当は劇場はこんなものなんだよということを作り上げたいという夢はあるんですよ。
【内田】爆弾発言がありました……。この演出家廃業宣言がSNSやツイッターなどに出てしまっても大丈夫ですか?
【佐藤】いいですよ。僕はいまは可能性のある時代だと思っているので。COVID-19というのは、「コロナ禍」と言いますけど、「コロナ」と「禍」を分けて考えた方がいい。コロナじゃなくても、実は「禍」は起きていたわけですよ。コロナがあったのでその「禍」がはっきりとしたということでしょう。「禍」が起きていることの原因を考えると、もう「禍」が起きなければ変わらないような構造になっていて、すでに先取りしている新しいものは潜在してたくさんあるんです。コロナということをきっかけに何かが変わっていくということはあり得ると思う。
僕は自分はコロナと一緒に出来る演劇を考えていきたいと思っているんです。「コロナ禍」と言っている限り、コロナを克服しようとする。でも疫病は克服するものではなく、共存していくものなんですよ。克服は出来ません。出来ないということは、もうみんなわかっている。そうすると、それだけでも変わる要素です。いま「禍」という形で見えてくることに、一つずつ丁寧に向き合っていく時代に入っていくと思うんです。そこでの演劇というのは、また面白い在り方になるのではないかと思う。
廃業の理由は一つです。オリンピック開会式で、演出家というものは必要ないとわかったからというのが理由です。
【内田】オリンピックの事態から見て、この国は演出家が必要ないと判断したのだから、それに抗議して私は演出家を廃業する、ということですか?
【佐藤】僕は演出家が解任されたことはどうでもいいんです。引き受けた人たちは誰も演出家としての責任を果たしていないし、依頼した方も演出家として認めていなかったということが明らかとなった。だから演出家はもともと存在しないんだから、やっていても仕方がないだろうということですね。
【内田】これは個人の主張としてお話になったということですね。
【佐藤】そうですね。どうして他の演出家が黙っているかが不思議ですよ。
【内田】本当に演出をもうしないんですか? それとも演出はするけれど演出家という名前を使わないということですか?
【佐藤】オリンピックのこととは別に、いま演出という行為を本質的に考えなくてはいけない時代に入ったわけですね。つまり、演劇という集団行為のなかで、いままでは演出という形でもってその集団行為をまとめていく形が当然のように思われていた。それはマイニンゲンの殿様(ゲオルク2世)が始めたことですから。彼は演出家兼スポンサーでもあった。彼が舞台の統合性を作るということをやったことから、演出家は生まれてきた。たった一人の人間、殿様が先例となったやり方をそのまま引き継いでいままできた、それでいいのか、というのが現在、問われている思う。それはパワー・ハラスメントなどの形でいま出てきている。逆に言うと、パワーを発揮しないで演出家か?ということが問いかけられている。だから演出家がパワハラに配慮するのではなくて、演出という行為を本質的に考え直す時ではないかという問題意識を持っていたことは確かです。実際に座・高円寺の劇場創造アカデミーでも、去年ぐらいから演出のやり方を少しずつ変えてみています。
【内田】つまり演出家廃業の意味は、肩書で「演出家」と言わないということですか?
【佐藤】僕としては廃業でいいですよ。何が問題ですか? 廃業と言っているのに演出家やっているんじゃないか、ということになる? そこは微妙ですよね。内田さんは演出家が何をする人だと考えていますか?
【内田】あるチームを、芸術的創造性によって、コンセプトで全体をまとめていくというイメージですが……。
【佐藤】例えば、演出家を批評をする時には「まとめ方が悪い」と書くんですか?
【内田】そういうことを書くこともあります。
【佐藤】僕が言っているのは、社会的な普通の職業として、演出家という職業はどういうふうに認知されているかということなんです。職業的認知がなければ「自称・演出家」とか付けるしかない。事実、あたかも職業的な認知があるふりをしているけれども、実は日本では職業的な認知を受けていないんじゃないかと思った。だから名乗るのはくだらないかな、と思った。その動機に、怒りとか抗議の意味がないかと言われれば、ありますが。
【梅山】ぜんぜんブレない。さすがだな、と思いました。この話は劇場の話の流れからつながっているのだと私は理解しています。先ほどの話の発端は、なぜスパイラルホールで任期制の芸術監督制度を導入したのか? でした。演出家廃業は、演劇創作に携わるさまざまなスタッフのプロフェッショナルさが認知されていないことへの抗議の意味合いがありますけど、それだけではなくて、演出家の役割を顕在化してみようという意図もあるのではないでしょうか。それは劇場関連の仕事において芸術監督という言葉を持ち込み、実際にその役職について動くことで劇場運営とは何かを問うていったこととつながるように思います。信さんはよく、演劇行為、または劇場における表現というのを、御神楽に喩えています。劇場における表現とはある側面では「結界」に守られており、その中では何をしていてもいいことが保証されていなければいけない。そういう意味では非常に「わたくし的」な活動であり表現である。その一方で、それが劇場という場所で行われる限り、それは社会に向かって開かれていく。その両者を考えていかなくてはいけない、と言っています。そう考えると、今回のオリンピックと演出家ということについても、これまで信さんが主張していたことの延長線上に考えられることで、「演出家」という役割が肩書きとともに気づいたらなくなっているという程度のことでいいのか? オリンピックという国家事業ということを抜きにしても、そこで為される表現行為は、もちろんその演出家個人のセンスだとかそこに根差したものであるのと同時に、先ほどから言っているように、社会に対して開かれているということを考えたときに、その演出家という立ち位置について何も議論されなくていいのか? ということへの態度・意思表明が演出家廃業という宣言に込められていると理解しました。
【内田】すみません、こういうことです。「演出家廃業」とワンフレーズがSNSなどに出てしまうと、もう佐藤さんに演出の仕事が来なくなるのではないか、そういう形で読まれてしまうことを心配しました。今日の佐藤さんの発言は演出家廃業という強い言葉を使ってオリンピックに対する抗議の意思を表明した、抗議をするための表現だったとご理解をいただいた方がいいかと思いました。
【佐藤】もう一つは、オリンピックだけでなくて、それに象徴されることがものすごく悲しかった。繰り返しになりますが、いま、演劇の作り方が根源的に問われている。ジェンダーやハラスメントの問題は、口先だけで話したり攻撃したりする問題ではない。根本的に解決するとしたら、事実、いまはチャンスだと思うんです。それは演劇史的に見てもものすごく大きな変化で、女だけでやるとか、男だけでやるとか、どっちかに寄った演劇はあるんですよ。男女混合している演劇では、女優さんは女性を演じる、つきつめていくと要求されているのはただそのことだけです。そこを一歩も出てないですよね。演劇なんだから男女の区別を越えて、どの役だってやっていいんじゃないか。そうなってくると、演劇そのものに何を見るのか、演劇が何を見せているのかにまで、問い返しがあるぐらいの大きな変革期に来ていると思う。すでにそういう兆しもある。それがどれだけ演劇人のなかに共有され、逼迫している問題なんだと理解されることが重要だと思います。