シアター・クリティック・ナウ 2021――佐藤信と「運動」の演劇
■天皇制と差別
【内田】僕が佐藤信さんに最初のインタビューをしたのは1984年、佐藤さんが40歳の頃。随分長く断続的にお会いしてるんですが、聞いたことのない質問が一つあります。佐藤さんの母方の大叔父が、阿南(あなみ)惟幾(これちか)という第二次世界大戦の終結時の陸軍大臣で、『日本の一番長い日』という有名な映画で三船敏郎が演じた人物です。本土決戦を主張していた一方、玉音放送に抵抗する陸軍のクーデターを阻止し、敗戦の責任をとって切腹した大変な人物。昭和天皇に心酔し、昭和天皇の大変な信頼を受けた人なんですよ。天皇制にこだわっていた佐藤さんにとって、天皇制にもっとも近いところにいた阿南が自分の縁者にいたことを意識しないとは思えないんです。
【佐藤】意識しなくはないですよね、法事とかあるし。でも子供ごころに、旧軍人の顔が見える阿南の法事は馴染めないなにかはありました。うちの場合は父がその文化圏から離れようという意識があった。父は普通の火災保険会社のサラリーマンになりました。阿南の一家とはいまでも親しい親戚としてのやりとりがあります。天皇制の問題については、それが直接的な理由になっているわけではありません。
芝居をやり始め、2作目に書いた『あたしのビートルズ』から3作ぐらいはずっと在日の問題をやっているんですよ。それには二つ動機があって、一つは李珍宇――小松川高校事件が起きたときの彼とほぼ同世代なんです。事件の後で、彼が在日の人だとわかった途端、社会がその事件を理解できたと思ったということに高校生の僕はものすごく反発して、わかるわけねぇじゃんと思った。もう一つは、中学生のときに、北(朝鮮)へ帰るという友達たちが結構いたんです。彼らがすごく羨ましかった。目を輝かせて、これから新しいところを作るという話をしていた。しかし大学生なってだんだん実体がわかってくる。そういうことがあって、僕の中で朝鮮の問題というのは、差別の問題を軸に避けて通れない重いテーマだったんです。
なぜ日本の差別の問題はなくならないのか、というのは、結局、僕たちが天皇制という差別から逃れられないでいることにつきると思うんです。僕はいつでも改憲論者だと言うんですけど、第一条がある限り現行憲法を認めたくない。天皇一族は、憲法に書かれた基本的人権一切を認められていない。日本人の差別意識は、天皇制とぴったりと重なり合う。
天皇制については、歴史的な国家原理として80年代ぐらいまで考えていたんですよ。今になってみると、それは大きな間違いで、近代天皇制というのをもっと客観的に見なくてはいけない。僕らが天皇制だと思っているのは、日本浪漫派以来の、近代天皇制を支えるために作った天皇制についての神話であって、もっと近距離で考えたらそんなに怖いものではないかもしれない。余力があれば、もう1度、あたらしい視点から天皇制をめぐる芝居が書けたらと思っています。
【内田】ぜひ書いてください。
【佐藤】書けるかどうかわからないけど(笑)。大嘗祭とか、三笠宮が序文を書いている大部な文献があるんですが、結局は明治以降にでっちあげた神話を補強するためにいろいろなことを寄せ集めたのであって、大嘗祭があそこに書かれているように行われたのは、昭和天皇と、大正天皇もちゃんとやっているかどうかくらい、ということがわかってくると、もう少し天皇制を客観的に突き放すことができるんじゃないかと思ってます。
【内田】梅山さん、何か付け加えることはありますか? 阿南さんのことなど……。
【梅山】内田さんになかなか聞きにくいことを聞いていただいたのでよかったです。
【佐藤】中国の重慶に行ったときにいきなり「人民日報」のインタビュアーが来て、「阿南惟幾さんのお孫さんだそうですね?」って。「ああ、まあそうです。」って答えましたけど、何かとても不思議な気持ちがしました。重慶は日本が世界史上、初めて無差別爆撃を行った都市ですからね。。個人史的な問題よりは、もう少し広げてそのあたりを考えたいと思っています。
■劇場を構想する――黒テントから民間劇場、公共劇場へ
【内田】60年安保から逃げる。それが、ある種の精神的な態度になり、佐藤さんは、70年代を経て80年代、90年代にどういうふうに変わっていったか。僕はバブル時代に多くの劇場が出来るとき、取材でよくお会いしたんですよ。世田谷パブリックシアターは佐藤さんが、その理念と運営の方法を考えた代表的な例ですよね。それから東急文化村では、最後には社長になった田中珍彦(うずひこ)さんが、佐藤さんに随分相談をしていた。時期は遅れますが、この座・高円寺もそうです。梅山さんは、佐藤さんが60年代に築かれたものを劇場新設にどう継承したと思いますか?
【梅山】本書でも信さんが設立・運営に携わった劇場を一覧にしています。何らかの形で関わったものも含めばその一覧に載っていないものもありますが、芸術監督等として中心的な役割を果たした劇場だけで十数ヵ所はあります。66年のアンダーグラウンド・シアター自由劇場、70年の黒色テント、78年の銀座博品館劇場、85年の青山スパイラルホール、89年Bunkamuraオーチャードホールなどなどです。信さんの劇場との関係で特徴的なのは、公共劇場など公共的な文化施設に関わる一方で、民間の劇場の設立、運営を同時進行で長い間手掛けてこられたことです。
ここにも信さんが繰り返しおっしゃられている、自分の根底にある何か――「ピープル」と言ったり「市民」と言ったり「大衆」と言ったりするもの――と向き合い続けようとする姿勢が現れているのではないでしょうか。つまり「私」という部分と、もう一方で6.15に遡って、あのとき体験した、自分を含めて逃げるかもしれない、ある圧倒的な多数という、「私たち」の部分をも引き受けようとする態度です。「私」と「私たち」というようなものが、ずっと劇作行為の中でも追及されていきながら、劇場に関わる仕事においても、公共劇場と民間劇場の仕事を並走させる中で、何か具体的な劇場のプランという形で実践されていったのではないでしょうか。
【内田】黒テントで活発にやっていたときには、「運動の演劇」というイメージがすごく強かった。その一方でワコールの運営するスパイラルホールの芸術監督になったり、東急の相談に乗ったりしていた。今日ある芸術監督制の一番最初の例はスパイラルホールで、たぶん佐藤さんの意志が反映されていた。企業と左翼的な立ち位置にいる演劇人の接点というのはそれまであまりなかったことですが、新機軸がそこから生まれた。ただ批判の対象になり兼ねないし、実際、浅利慶太さんは日生劇場を運営したとき、村山知義に批判されました。80年代はまだ企業と演劇人が組むことへの警戒感が強かったですよね。その辺はどう乗り越えられていったのでしょうか?
【佐藤】まず一つは、文学座はそうではないですけど、戦後の新劇というのは、左翼的な演劇がほとんどですね。いまの演劇鑑賞会は昔、労演(勤労者演劇協議会)と呼ばれていて、政治運動の大衆組織の下部組織だった。だから、もちろん文化を享受するということもあるんだけど、大衆組織として数を集めるという目的のために演劇を利用しているとも言える組織でした。新劇は経済的な基盤をそこに置いていた。黒テントを立ち上げた頃には、地方でやろうとすると労演でやるしかなかった。もちろん労演の中にも、大阪労演とか、新しいことをやろうとした組織もあるにはあったんですけど、労演に対抗する組織を作るというのが僕の中に大きなテーマとしてあった。ですから、左翼的な、ということを金科玉条のように扱うと――僕はなぜそれが嫌だったかというと、若い研究生として感じた率直な体験として、旅公演と東京公演が違うことに腹が立ったんですよ。観客に対する態度も上演内容も違う。もちろん新劇の旅公演は大変ですから、さまざまな条件があるのはわかるけれども、これでは駄目だろうと思った。どの場所でも、まったく同じ舞台を見てもらえる旅がしたいというのが黒テントの最初でした。何よりも大衆組織としての演劇鑑賞会への違和感は強くありました。
一度、蜷川さんと一緒に、シアター・コクーンで『零れる果実』(作=鈴江俊郎・狩場直史、1996年)という芝居を二人で演出したことがあります。その時の記者会見でも、蜷川さんも佐藤さんもいままでの活動があるのに、ここで上演するのはどうなのか?という質問が飛んで、蜷川さんは言下に「くだらない質問には答えない」と答え、僕は「議論しましょう」って言ったんです。僕はいつでも議論はしますけれども、自分の立場がやましいと思ったことは一度もないですね。
劇場の仕事をするようになったのは、はっきりした始まりがあって、それは銀座の博品館劇場。ミュージカルの劇場を作りたいということで、東京キッドブラザースの東由多加さん、宝塚の演出家だった白井鐵造さん、あと小劇場ミュージカルをやったので、僕にも劇場の相談に乗ってくれないかというお声が掛かりました。いろんな演劇関係者の方が呼ばれている、その話し合いを聞いていると、みなさん自分の芝居をやるための劇場の話になっていく。それは少し違うのではないかな、一人のオーナーが夢を持って劇場を作るときに、演劇人が手伝うということは自分の芝居をやるということではないのではないか、と思った。僕はその頃、黒テントでしか芝居をやらないと思っていたので、そこでオーナーに、僕はおそらくここでの上演はやりませんけれども、持っている劇場の知識は使っていただけるのであればお手伝いします、というのが最初だったんです。
スパイラルのときも芸術監督制度を日本に取り入れたいんで、1年交替の任期制の芸術監督制を提案しました。自分がいままでやってきて得た知識や技術を、自分の作品だけに使うのではなくて、社会に還元する方法の一つとして劇場はあると思ってから、自覚的にそのことに取り組み出したというのはありますね。実は第二国立劇場の最後の方の委員会に出たときに、ある高名な舞台俳優が、「舞台の脇にトイレがありますでしょうか?」とおっしゃった。もちろんあった方がいいけど、しかしそのことを議論をする場ではないだろうということですよね。