シアター・クリティック・ナウ 2021――佐藤信と「運動」の演劇
■60年安保と「革命の演劇」
【内田】60年安保は61年前ですから、大方の日本人にとっては遠い過去のことだと思いますが、佐藤信さんの世代、いわゆる1960年代演劇の世代にとって大きな分水嶺だった。たとえば佐藤信さんが大きな影響を受けた福田善之さんの『真田風雲録』という作品は、時代劇の形を取っていますが、安保の芝居ですよね。孤独に風に吹かれながらどこに向かって行けばいいんだという感覚――おそらくそれは大きなその世代の感覚だったと思う。そこから演劇を始めたという一つの世代があった。僕が評伝を書いた別役実さんは(『風の演劇:評伝別役実』白水社、2018年)、60年安保のときに国会議事堂まで行って構内まで入り、入った瞬間に「やった!」と思ったらしいんだけど、そこからひたすら逃げた。必死に逃げて靴が片方なくなって、新宿のスカラ座に逃げ込んで震えていたといいます。蜷川幸雄さんもただ逃げたと話していた。この闘争は何にもならなかったんじゃないかというのが蜷川さんにとっての一つの分岐点でした。太田省吾さんの場合は、そのとき必死に考えて、沈黙という方向に大きな舵を切る。それはあらゆる政治的なものは否定するということだったろうと思います。皆さんいろいろな形で60年安保によって立ち位置を決めていく時代が確かにあったと思います。
もう一つ、寺山修司さんが扇田昭彦さんの『劇的ルネッサンス―現代演劇は語る』(リブロポート、1983年)のインタビューに答えて、60年安保のときに世の中は変わると思ったのに、実際は変わらなかった。その感覚を演劇や映画に持ち込んだ人がたくさんいて、60年代文化の刻印ができたというようなことを指摘していた。革命の夢というのが演劇の中でどう展開していくのかという辺りを考えみたいと思います。梅山さんは、60年安保の体験はもちろん皆無ですよね。
【梅山】実体験はないんですけど、信さんが60年安保についてさまざまな場所で語る時に、「逃げた」と発言していたのは知っていたので、今回書籍で扱うにあたっては、その背景に何があったのか、60年安保前後の心境の変化を辿ってみたいと思っていました。信さんは、高校生の頃に詩をよく書いていたんです。同人誌の形で冊子にまとめてきれいに製本して、それをクラスメイトに配ったりされていましたよね。その時に「6.15」をめぐる長編詩を書かれておられて、それに衝撃を受けました。
私も含めて、信さんの作品をご存知の方は、安保闘争のような当時の学生運動の経験を対象化するように作品にしている印象をお持ちかと思うのですが、「6.15」からわずか5日後に書かれたこの長編詩はかなり率直に敗北感というか、逃げたショックを素直に綴られていて、それが60年安保と信さんの接点に関する一番の発見でした。これ以降は当時の体験を対象化して整理して語ることが多いと思うのですが、長編詩を書かれた当時はどういう心境だったのでしょうか?
【内田】ではその詩「ぼくは決して忘れまい」を紹介したいと思います。
鉄棒でなぐられ
無抵抗な学生達は
荷物の様にほおり出される人間は人間でなくなる
学生は〝物〟となり
警官は〝獣〟となる暗闇の中に逃げまどう
ぼくの小さな頭の中の
すべての感情は
おそれと
おののきと
全くそれだけでしかないのだ目の前で
人が倒れた――――
頭がわれて
血が吹き出し
顔は青ざめ
学生――――
人が
ああ
一体
誰のためなんだ
佐藤信さんは最初、政治運動からやや距離を取っていたようですけど、60年安保のデモに参加して人生が変わったんでしょうね。そういう劇的体験があったということだと思います。当時を振り返っていただいてもいいですか?
【佐藤】僕は東京育ちで、安保の時は16歳だったんです。ちょうど6月15日の2~3日前ぐらいからデモに行くようになった。実は加藤登紀子さんが高校の同級生で、加藤さんのお兄さんが学生運動の新左翼の流れの中の高校生対策を担当していて、加藤さんを通じてデモに行った。6月15日はかなり不穏な状況になったので、女子の高校生は帰らせて、男子はそのまま残ったんですよね。僕も構内に入って、そこで体験したことは、簡単に言うと、生まれて初めて死ぬな、と思った。僕は別役さんほど高揚はしなかったんです。入ったんだか、押し込まれて入っちゃったんだが、よくわからない状況で、しばらくしたら押し合いになって、人と人との間に押しつぶされて息が出来ない。圧死というのはこうやって死ぬんだな、ここで死ぬんだ、という恐怖感がありました。なんとか一瞬の隙間が出来たので、とにかくもがいてそこの場所から逃げた。家まで逃げ帰ってラジオをつけて、東大の学生だった樺美智子さんが亡くなったというニュースを聞く。衝撃だったのは警官に殺されたとかいうことよりも、逃げずにあの場に居続けた人がいたということ。
僕が逃げたのは非常に単純、人はああなったら完全に逃げるものなんだということを思い知らされた。どうして逃げるんだろうということを考えることがずっとあった。大学に行っても少し学生運動の周りをウロチョロしていて、僕が完全に学生運動から離れたのは、日比谷の野外音楽堂で全国全共闘の結成集会でした。ものすごく失望して――全共闘がなぜ全国組織になるんだ? 全共闘はそういう上部組織のようなものを作らないはずだったんじゃないか? さらに連合赤軍が登場して、僕はこれは本当に駄目だと思って、そこからは少し違うスタンスを取るようになりました。
そのときも一番考えていたことは、ゲバ棒までは言語の範囲。ゲバ棒は木材ですけど、プラカードをベリベリと剥がすと、そこにちょっと釘が残って、それがゲバ棒という武器となった。機動隊の人はあのベリベリという音を聞くと本当に嫌だったと言ってました。プラカードには「○○反対!」と書いてある。この言語の代わりにゲバ棒になる。でも、その言語を突き詰めていくと銃になるんですよ。連合赤軍が唯銃主義を言い出したときに、僕は逃げる側に行こうと決めたんです。そこから逃げるということを考える――いままでずっと続いていると思う。僕はつねに逃げているなという感じです。絶対最後は逃げる。逃げる側につこう、立ち向かっていく側にはつきたくないという想いがあります。
【梅山】福田さんと共同執筆の形でテレビドラマ『日本の幸福』(1968年制作)という作品を出していらっしゃいますよね。機動隊員の主人公を原田芳雄さんが演じた。機動隊側から見た学生運動を68年の時点で書かれていて、その頃には「逃げる」ということを出発点としながら、そのときの体験を表現のレベルで対象化するということも始まっている。福田さんとはどのぐらい書き分けがあったんですか?
【佐藤】二十歳ごろ、劇団青芸(青年芸術劇場)の研究生になった時に福田さんが作家としていらした。福田善之っていうのは当時の演劇青年にとってはピカピカした憧れの存在だった。その方が「家に来いよ」って声をかけてくれて、そこから4~5年間は内弟子ではないけれども、福田さんの原稿を清書したり、本を書くお手伝いをさせていただいたり。『日本の幸福』は、その後マンガにもなったんですよ。同世代の機動隊の側から見ると学生たちがいい気なことをやってたりする――機動隊はデートにも行けないけど、学生はデートをしているとか、そんなエピソードを書いたりしました。
【内田】60年安保のつながりで言うと「革命」ですね。80年代くらいまで言われていたテーゼに「革命の演劇」か「演劇の革命」かというのがある。演劇を革命する、そういう立場が寺山修司だとすると、演劇を革命化することによって社会を見るまなざしが変わるから、結局それも社会変革になる。これに対して革命の演劇は社会性を強く打ち出すもので、佐藤さんが一つのポジションを占めていたのではないか。今から見れば、その社会変革の夢は60年代安保で一端ついえたかに見えるわけですが、どういうことだったのでしょうか?
【佐藤】当時、寺山さんと直接そんな話を2~3回したことがあります。僕は演劇というのは変わらないと思っているところがあって。この間、スラヴォイ・ジジェクというスロベニアの思想家が、インタビューで自分はモラリストだと急に言い出して、どうしてモラリストかというと、哲学することを天職だと思っていると言うんだよね。僕は演劇というよりはもう少しざっくりとした遊びとか芸能みたなものが天職だと思っているんですけど、そういう意味では、やっぱり天職みたいな観点から言うと、演劇というのは原理的に変わりようがないんじゃないかと思う。演劇は観客がいるから存在しているのであって、観客が変われば演劇は変わりますよね。でも演劇の側が革命とか言って、例えば、街頭で演劇をやっていたとしても、「見る人」がいて「やる人」がいる、という構造そのものは変わっていない。そこは街頭ではなくやっぱり劇場そのものなのではないか。
「演劇の革命」と言っている人たちは、おそらく演劇の概念が近代劇に囚われ過ぎていると思ったんです。一方、「革命の演劇」の「革命」の部分はちょっと難しい。なぜ難しいかと言うと、福田善之さんは、そのことを「ピープル」と言っているんですけど、つまり、支えている基層のもの――「大衆」と呼ばれたり「市民」と呼ばれたり――自分の存在の根底にある何か。その部分はいつでも2つの部分があって、逃げるというのはまず本質ですよね。生き続けようとする。逃げるしかないのですから、それと同時に、でも日々の生活は闘いだと思っている部分がある。その部分に依拠する演劇というふうに言いたかったんだと思うんですよ。デイヴィッド・グッドマンはそれをユダヤ神秘主義と繋げるんですけど、グッドマンが言ったのは、革命というのはいつでも現在に顕在している。その物の見方がユダヤ神秘主義と似ていると言われた。
「革命の演劇」というのは、当時は革命という言葉を使ったけど、いま、この瞬間の中に既にものごとが変わる要素が遍在している、そのことを浮かび上がらせる演劇というふうに思ったんですよね。だから方法論的なものと主題に関することの争いだったと思う。「演劇の革命」は演劇を方法論的に捉え、「革命の演劇」は方法論ではなく主題が問題なんだということだと思います。
【内田】デイヴィッド・グッドマンさんの『富士山見えた』(白水社、1983年)は、副題が「佐藤信における革命の演劇」と、まさにそういう題になっているんですね。デイヴィッド・グッドマンさんは佐藤信さんに非常に近い場所にいた理解者で、ユダヤ人でもあった。ユダヤ神秘主義に引き付けて考えていて、雑駁に言ってしまうと、社会そのものをロシア革命のように劇的に変えるというのではなく、日々の小さな瞬間瞬間に革命的な瞬間がある。神に祈りを捧げるような瞬間瞬間に救いの時が顕れるのだというような神秘主義だと思いますが、それが佐藤信の演劇にあるというわけです。60年安保で社会変革の夢が仮についえたとしても、演劇という行為の中に瞬間瞬間の救いというものを捜し当てることはできるのではないか、ということを言っていた。
佐藤さんが書かれた『魔女伝説』の解説を読みましたが、キーワードに「引き裂かれた自由」「失われていく自由」というものがあって、「否認する立場」「自己否定」を打ち出しています。全身的な自由が奪われていく感覚。それを現状の否認、自己の否定という回路を通して獲得していくという観念的な闘いだったのではないかと思う。その辺りをもう少しご説明いただけますか。
【佐藤】渡邊守章さんが、日本の60年代演劇をフランスに紹介してくださる時に、その文章を使ってくださったと思うんですが、その時に言いたかったことは、言語にならない、論理にならない、みたいなこと自体が言語であり論理であって、そういう感覚の中に僕たちはいるんだということが基本なんだということ。だから「いや、それは違う」「どうして?」「違うから違う」以上のことが言えないもどかしさ。だけど絶対に違うと思う、みたいな。それは感覚というのではなくて、論理的に積み上げるとどうしても最後はそういう理屈になる、という確信だと思うんです。
僕は演劇論を若いときに一冊だけ出しているんですけど、書いてみて自分には演劇論は書けないと思ったんですよ。演劇論をどうしても物語でしか書けない。じゃないと書いたことが嘘に思える。しばらくして、だから自分は戯曲を書いているんだ。戯曲で扱われている言葉が言葉の原型で、それがロジックを持ったり構造を持ったりするとそこで何か零れ落ちていく。零れ落ちていくものは何かというと、常に裏側で、ここまで言ったら嘘になるという気持ちみたいなものが零れ落ちちゃうんです。僕は演劇を書き出したとき、一番おもしろいと思ったのは、両方対立させながら最後まで行っていいこと。「こうだ」と言ったときに「しかし違うな、よくわかんないけどさ」と言うと、もう一人が出てきて「飯食いに行かないか?」、「おう、行こう」っていうので劇って成立できちゃう。その後、お客さんがどの部分を覚えていてくれるかというようなことから先に行く。
もともと言語というのは基本的にはそういうものだったと思うんです。そういう意味で、実は『魔女伝説』の解説は、自分を育ててくれた恩師・福田善之さんへの別れの文章だった。福田善之さんもあとがきを書いていらっしゃって、一応そこで、福田さんと「お互いここからは違う道にいきましょうね」ということがあった。その時は、福田さんがあくまでも論理として突き詰めようとしていることに――福田さん60年代から70年代に文章でよく「韜晦」という言葉を使っていらっしゃった。韜晦という形の言い淀みとか、はぐらかしで、ロジックを貫徹させようとしていた。僕はそのことをもっと率直に言ってしまっていいのではないか、という気持ちがあった。
【内田】梅山さん、佐藤信さんの「革命の演劇」とは何か、と言われたらどう答えますか?
【梅山】今の信さんの発言にも表れているんですが、一語一語ものすごく緻密に言葉を積み重ねていかれるので、読み解いていくのが難しいのですが、それが謎解きのようにとても面白いんですね。今回書籍化にあたって特に面白かったのが、「喜劇昭和の世界三部作」(『阿部定の犬』『キネマと怪人』『ブランキ殺し 上海の春』)です。「革命」をめぐる三部作で、ものすごく緻密に、それでいてまったくのでたらめの国家を作ってみるとか、日本の歴史的な出来事を中国に移植してしまうといったことをやるんです。そのためにものすごく下調べをして、かなり手の込んだ捏造――偽札作りのようなことをなさるんですよね。精巧な偽物を作った結果、何が残るのか?というような実験をやっておられる。それがものすごく緻密な計算に基く構成を取っているということが今回の発見だったんです。グッドマン先生は作品分析を通してその緻密さと真摯に向き合い、先生自身のバックグラウンドと重ねながら信さんの「革命の演劇」にどこまで迫れるか、ということをおやりになった。
一方、信さんの作品について考える時に忘れてはならないのは、劇作家・演出家佐藤信だけではなくて、黒テントという集団と一緒にいる活動家という側面です。信さんと黒テントは「革命の演劇」とはあまり言わずに「運動としての演劇」と言っていました。一方で緻密に準備を重ねて精巧に戯曲を練り上げ上演に臨みつつも、もう一方で作品を集団の活動の中でどう位置付け、見せていくかという部分は、どこか見切り発車的なところがあったのではないかと思います。まずマニフェストなどで言葉をバンッと発表してみせて、実際の上演において観客を含めた集団作業の中でどういう反応が返ってくるのか試してみよう、どういう形に展開していくのかは未知数のまま、「運動の演劇」と言ってみたり、「民衆」という言葉を出してみたりしていたところがあったのではないかと思います。とりあえず問題提起をしてみて、どうなるかはその後で考えよう、というところがあったんじゃないでしょうか。
【内田】ハッタリ?
【梅山】ハッタリもあったんじゃないでしょうか。演劇センターを旗揚げする時からそういうことが始まっていますよね。経験としてはまだまだ足りない20代の若い演劇人たちが、しかも初めての野外劇、全国移動公演という大規模な活動の時に、それをただやるだけではなくて、これだけやりますという活動計画というのをわざわざ言う。私のようにまったく違う世代の者から見ると、そんなこと言って出来なかったらカッコ悪いんじゃないかと思う。そういう傾向がその後もずっと続くので、確信犯的にまずぶち上げてみようというのがあったんじゃないかと思います。運動とはそういうものなんだと思ってらっしゃるところがあるのかな、と私は考えているんですけど、いかがですか?
【佐藤】COVID-19以降もそうだけど、ずっと思っているのは、動き続けていたいということなんです。僕らの世代で言えば、挫折した時に、挫折したんだったら動かなくちゃ駄目だろうと思って、動くためには、まず自分に対してハッタらないと。自分のことを鞭打つことがあると思うんです。革命であるとか、運動であるとか、そのあと「80年代のテント」とか、「アジア演劇」とか、「たたかう民衆のための演劇」とか言っていた。それはぜんぶ左翼的な言語のターム。その言葉づかいしかなかったところが一番心残りかな。その言葉の付近なんだけど、その言葉では言い表せていない。いまもアジアとの交流をやっていますけど、なぜ「アジア」という言葉から抜け出せないか。そのもだえからやっている。「アジア」を「アジア」と呼ぶことの恐ろしさ、それはいつも忘れないようにと思っています。
もう一つは「民衆」とか「市民」とか「ピープル」とか、その原像なものにどんな言葉を置くかっていうことなんです。なぜそのことにこだわるかというと、外側にあるものではなくて自分の内にあるものを発見しなくてはならないので、やはり言葉で言い当てたいと思うんですよ。民衆に寄り添うということが、それを外側に置いて寄り添うという――吉本隆明さんなんかでもちょっと外側にある気がするんですよね――あたなはどこなんだ?というところがあって、自分自身の原像に迫るとしたらそんなに簡単に言語ができないでしょうという想いが僕の中にあるんです。ただこういうふうに、そのことを外に語らなくてはならない場合に、手近に左翼用語があった時には、そこが一番類推が効くということがあったんだけれども、時代が変わってきていて、今はそうはいかない。それが同時に、言葉が作りやすくなってきているかなという気がしないでもない。
【内田】左翼っぽい言葉を使ってしまったのが心残りというのは面白い話ですね。おそらく佐藤さんは左翼演劇人だと思っている人が多いはずですが、そうではない?
【佐藤】それを否定したいわけじゃないんだけど、日本の近代的な、小林秀雄とかの体系が嫌いだったので、その言語を使いたくないというのはありました。僕は花田清輝ほど教養がないので、選べる言語が少ないから手近にあった左翼言語に寄り掛ってしまったということはあるんだけど、少なくとも近代以降の日本の支配的な知的言語で語りたくないという想いはすごくあった。運動というような形でくみ上げてみようというのも、近いところで言えば、鶴見俊輔さんや、60~70年代にかけてはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などの市民運動は、学生たちから攻撃もされていたわけですよね。でもああいうところにあった本質的な部分を取り逃がしてしまったというところはあります。その部分にどういう言葉を置くかというのでは、小田実さんとか、みんな血を流したと思いますね。