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トラッシュマスターズ第33回公演『堕ち潮』

作・演出=中津留章仁
2021年2月4~14日@座・高円寺

出席者=嶋田 直哉(司会・シアターアーツ編集長)、今井 克佳(国際演劇評論家協会日本センター会員)、野田 学(シアターアーツ編集部)/発言順

TRASHMASTERS vo.33 「堕ち潮」 撮影=ノザワトシアキ

地方を舞台にした家族劇

嶋田 トラッシュマスターズ公演『堕ち潮』では、開演前の観客席に、詳細な人物関係図が配布されていたことが印象的でした。この関係図には、岡本家と西島家の3代にわたる人物の詳細な説明が書かれています。物語中で流れる時間も、1980年代から2000年代初頭というように、長いスパンがありました。のちほど話題として触れますが、岡本家における千恵子(みやなおこ)と佳那子(川﨑初夏)の、姑と嫁の関係、建設業を営む西島家の博正(渡辺哲)と新吉(長谷川景)の、叔父と甥の関係を中心に物語は展開します。また、いつもの中津留さんの作品らしく、15分の休憩を含む上演時間3時間15分という長大な作品でした。
 保守の精神が強い岡本家と西島家のなかで、西島家の博正が市会議員に保守派として立候補して当選する。そして談合を繰り返して、自身の建設会社に有利に働くように政治を動かしていく。いかにも昭和的な金の転がし方です。このようななかで、博正の甥の新吉が同じく市会議員に立候補する。新吉は博正が経営する建設会社で部長を務めている人物です。しかし、彼は革新派を後援として立候補する。立場としては正博と正反対ですね。ここで保守と革新の対立が、親族内の市議会議員選挙という形でぶつかりあう。第四場から五場にかけて展開する場面で、この作品で最も見応えがあるところです。結局、新吉が当選し、博正は落選する。この結果からもわかるように、「革新」が、非常に夢がある思想として、この作品に描かれています。

今井 私は、中津留さんの作・演出作品は、青年劇場などの外部作品でいくつか見ている程度でした。今回初めてトラッシュマスターズ公演の作品を見ました。コロナ禍や個人的な事情で2021年になってから生の舞台が見られていなかったこともあり、非常に新鮮な気持ちで観劇ができました。三つの時代をめぐっての作品に出て来る様々な問題は、大きくは第二次世界大戦の影響が元になっています。南京大虐殺、在日選挙権、DV、不倫など盛りだくさんだなというのがあって、それで非常に骨太であってずっしりきたなというのが最初の印象です。

嶋田 たしかに話題がてんこ盛りですよね。冒頭の場面は小学生である優人と尊の兄弟の会話から始まりますね。そこに祖母の千恵子がからんできて、ファミコン、天皇、保守と革新と、どんどん話題が広がっていきます。

時代設定

今井 多分80年代、90年代、最後が2000年代初頭頃と、10年くらいの間隔で、3つの時代を書いていると思うのですが。

嶋田 私は比較的中津留さんと世代が近いので、この作品で展開される話題のいくつかは非常に共感が持てました。例えば、先ほども話題になった冒頭の場面。優人と尊がファミコンを買って欲しいと母佳那子にせがんでいるところは非常にリアルですね。これは年代を特定するならば1984年です。私が中学校1年生の時のことです。この年のクリスマスプレゼントに任天堂ファミリーコンピュータを買ってもらうのが、私の世代のお決まりでした。私の父は全く理解がなかったので買ってくれませんでしたが、この時点で多くの家庭にファミコンが導入されたと思われます。当時14,800円。私もこの作品の設定と同じく、田舎の育ちなので、ファミコンをめぐる子どもたちの会話と感覚はわかりすぎるほど、わかりました。
 その他、近所に住む佳那子の同級生だった在日韓国人の藤枝祥子(石井麗子)が遊びに来ていて、選挙権がないことなどが話題になっています。

野田 次の時代は、台本から計算すると冒頭の場面の7年後くらいです。1993年には細川連立内閣が成立していますから、一族が保革分裂しての選挙を迎えるのはそのちょっと前あたりでしょうね。最後の時代は「十数年後」と台本にあります。「もう21世紀」という台詞もありますから、21世紀初頭でしょう。

嶋田 冒頭が1984年、最後が2001年。17年間にわたる物語だと、私は理解しています。

野田 見る側としては時代へのレファレンスというものがもう少し特定できた方がありがたかった。

今井 僕も年代がはっきりとは示されないので、見ながら年代が分かる情報だけは入れるようにしていました。大体80年代前半、90年代、バブルが崩壊してという言葉もあるから91年ちょうど位なのかなと思って、最後が2000年代初頭と考えたのですが。ただ、一応保守・革新の話だと最後に革新で立候補して市会議員になった新吉が結局市議会議長か何かになったときに、自分の息子を縁故で市役所に入れようとしているではないか、というのを博正の長男健介(森下庸之)が指摘するところがあって、結局、権力というものは、保守だろうが、革新だろうが腐敗してしまうところがあるのだということは示しているところはありますよね。どうしてもそれを示したくて入れたという作為的な感じも少し見えてしまいますが、でも、革新がもう非常に夢がある、善なのだということでもないよというのは最後に示しているところはあると思います。
 ただ、いろいろなところで突っ込みどころがあったと思います。表現上の問題になりますが1つはその子どもたちです。岡本家の長男邦夫(星野卓誠)と妻佳那子の間に子どもが2人います。長男の優人(倉貫匡弘)と、次男の尊(伊藤壮太郎)です。優人は最終的に東京に出て劇作家になっていくので、これは中津留さんの分身的な役柄だと思います。この2つの役は時間的な経過として、20年ぐらいの幅があり、最後は成人しますから、大人の俳優が子ども時代から演じています。関係図によれば第一場で優人10歳、尊8歳の設定です。これには少々無理があると思いました。もちろん会話で、子どもであろうということはわかりましたが、どうしても見た目が大人ですから、具体的な年齢が最初はよくわからなかった。あとで考えるとファミコンの話題などで限定できるのかもしれませんが、始まって少し経ってから、お前は小4だからというような言葉が出てくるので、やっとわかりました。それはいいのですが、せりふの内容だけですと、中学生くらいでもいいと感じられましたし、その後、在日への差別を批判する思いなど大人を糾弾するせりふが出てきますが、小学生が、感情的な反発はあるにせよ、複雑な思いをこれほど論理的に話せるのだろうかと疑問に思うような成熟した言い回しで話していて、その辺がリアリズムとしてどうなのだろうか、と不自然な感じがしたというのが一番ありました。

嶋田 リアリズムの観点から考えると、引っかかってしまう話題は多くありますね。

今井 それに、佳那子がDVに行ってしまったところ辺りから違和感があるんです。あのような流れで、佳那子は小学生である息子の優人にDVしてしまうのかなというところがあります。見せ方の問題なのかもしれませんが。