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時代と田舎

野田 私が見たのは2月12日でして、個人的には田舎が舞台の芝居を続けて見ていたんです。これが何を意味しているかは分かりません。三好十郎の『地熱』(民藝、二月)は1937年初演。九州の炭鉱と長野の故郷が舞台です。家が貧しくて売り払われてしまった妹を、厳しい肉体労働現場を渡り歩くことで取り戻そうとする主人公が、金を貯めて故郷に戻ると、妹はすでに別人が引き受けていて、その人の妻になっている。主人公は結局また九州の炭鉱にもどり、残った貯金を飯屋で働いていた自分の恩人でもある女性と一緒になるために使う決心をします。もはや故郷の田畑を買い戻して、家長の座を継ぐという夢が破れた後です。守安久仁子作の『草の家』(燐光群、二月)はアートヴィレッジTOON戯曲賞2018(愛媛県東温市)の受賞作。田舎の計量器店が舞台で、おじいちゃんの後、家長になった長男もすでに亡くなっている。最終的に長男が亡霊のような形で出てきます。ただ、この計量器店、とても再興が難しそうですね。
 新作の『堕ち潮』と共通している点は二つあります。一つは地方経済の活性化は厳しいということ。二つ目は、そういう地方での家父長制が危機に瀕していて、本来の家父長が不在であるという点です。『堕ち潮』ですと、ねたきりから始まって、すぐに死んでしまう家父長・正作がそれにあたるということでしょうか。
 これは去年も話題になりましたが、やはり三好十郎の『殺意 ストリップショウ』といってみれば同じ構造下にあるわけなのです。強力な父系の中心がいなくなってしまった、もしくは機能していない、ではそこのところでどうしようという問題図式が、天皇を代補の中心として日本の戦後史とどこか重なるようになっている。戦前作の『地熱』でさえ、現代から見るとそう見えてしまうんです。お為ごかしのパターナリズムが不可能になり、継承不全が特に地方で顕著になる。安倍政権は、強いパターナリズムを標榜していました。それが結局コロナ禍対策のごたごたの後、菅政権へと移行した。そういう時期にこの三作を観ていますので、日本の保守的パターナリズムと《空白の中心》としての天皇制との重なりが見えてきたところが非常に面白かった。

嶋田 嫁姑、保守・革新という家族の中の対立を舞台装置の中で一番よく表しているのが、舞台の中央に想定されている仏壇なんです。舞台のちょうど中央あたり、仏壇は観客席に背を向けている形で設置されているという想定なので、実物が置いてあるわけではありません。この舞台中央に位置する観客席からは見えない、しかし舞台上には設置してある仏壇が、親族を結び付けたり、またトラブルを起こしたりするその源となっている中心的な場として想定されています。このような場の設定によって、今まで話してきた父権性や家族制度、政治の話などに発展していく可能性が開かれたような気がします。
 特に学校からもらったプリントに南京大虐殺のことが書かれていて、千恵子が激怒する場面は、すごいインパクトでした。

野田 夫の正作が関わっていただろう南京虐殺を孫の優人の小学校における「平和授業」が取り上げていたのみならず、正作の名まで教師が出したことに憤慨した千恵子が、猛然たる抗議の電話を学校に入れ、詫びを入れさせますところですよね。

嶋田 みやなおこの演技が光りました。

野田 他方、最後の場で、認知症気味の千恵子が、旧満州からの引き揚げのときに生き別れになった娘の叶(かなえ)に対し、うわごとのように泣きながらわびますよね。加害者としての過去は消そうとするが、被害者としての過去の罪悪感は引きずるんですね。いまや革新系の市議会議長にまでなった新吉は、「もう21世紀になったにい、まあだ戦後の処理を終わらせきらいんわい、こん国は」と言うんです。これは在日選挙権をまだ与えられていないことについて述べているのですが、それだけではなくて、日本の戦後保守のメンタリティ全体に対して敷衍することもできるというのが作家の見立てなのでしょう。この心理は、それくらい作中の父権性社会における強力な保守的パターナリズムの核心になっているんです。良く書けた構図だと思います。千恵子の末娘である紀子もまた、「お父さんのことじゃろうが。家族の。お父さんは何にも悪いことしちょらんち言いよるんで。(・・・)あんた、なしそげえ人間が冷めてえんな。え。自分のお爺ちゃんが、酷えことした極悪人ち言われよるんで。そげなん・・・・・・そげなん、認めてしもうたらなあ・・・・・・おばちゃん・・・・・・よう・・・・・・生きていかれんのよ」とまで言うんですね。それまでは自分の家を建てるからどれだけ遺産がくるかとか、そんな話しかしていなかったにも関わらずです。これは継承の不全ですよ。

今井 私は、DVをはたらいていた時から変わっていく佳那子の足取りの描き方に感心しました。引き揚げの時に千恵子が死なせてしまった娘と名前がほぼ同じだというので、自分の息子に嫁いだ佳那子を「カナちゃん」と呼ぶんですが、そこが泣かせどころでうまく作っています。カナちゃんという名前の娘がいたのだということを一番最後の部分に持って来るんですよ。本当は、何十年も前に最初に佳那子に出会った時のエピソードなのですが、それを一番最後まで持って来て出して、千恵子の隠された佳那子への思いを明らかにする、そういうお涙頂戴的とでもいうと変ですが、新派劇、大衆劇的な部分が継承されていると感じられたのが、かえって面白かったです。全体としては新劇風の観念劇、成長劇と捉えられると思いますが、そういう部分や、一族が分裂し、抗争し、衰退していく、一代記のような構成も、古いタイプの演劇の要素を持ち込んでいるがゆえの安定感ではないかと思い肯定的に捉えました。シェイクスピアまでさかのぼれるのか分かりませんが、そうしたお家騒動的なものや、お涙頂戴的なものも入れ込んでいることが、堅苦しくなりすぎず、物語として感動させるうまいやり方となっていると思いました。

嶋田 『堕ち潮』を軸に、政治の変遷、作劇法まで幅広い話題が出てきました。今後も中津留さんの作品、トラッシュマスターズ公演に大いに期待したいと思います。ありがとうございました。

(2021年3月7日 Zoomにて収録)