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保革対立と父無き父権性

嶋田 家族制度の問題は、この作品でも中心的な位置を占めると思います。誰が家の中心なのか、ということですね。

野田 中津留さんは大分県出身で、高校時代もそちらにいたので、九州に多く見られる強力な父権性というものを恐らく身をもって味わったのだろうなというのが伝わってきます。ただ、興味深いのは、これが事実上「父無き父権制」がしかれた家族だということです。戦争中に南京虐殺絡みの過去を抱いた寝たきりの父親・正作は、劇中一言も発することがない。二番目の時代ではすでに亡くなっていますね。代わりに父権を担っているのは、強烈な母親・千恵子です。正作はもしかしたら「空白としての天皇」の隠喩になっているんですかね。

嶋田 保守と革新というのはやはりキーワードだと思いました。現在の日本の政治を見るに、保守と革新の対立という構図は存在していません。それゆえに、今井さんが指摘した対立図式は、回顧的な感じすら覚えてしまいますね。ただ、この保守と革新の対立を、親族3代にわたる精神史のなかに落とし込んでいて、とても上手な描き方だと思いました。

野田 ただ、第三の時代区分の所まで来ると、まあおそらく小泉政権が発足した2001年頃だとして、保守・革新の図式が成り立たない時代が来つつあるはずなのにおかしいなと思って見ているところはあるのです。小泉政権成立の時は、むしろ自民党内部が分裂気味で、保革の区切りはどこかにいっていた覚えがあるものですから。劇団からいただいた台本には、冒頭の場面は198X年とぼかしてますから、厳密に年代特定を試みても無駄だよということなのかもしれませんが、

今井 保守と革新の対立も、誇張されて描かれているのではないかという疑問もありました。私ももちろん生きていた時代ですが、関東の田舎の片隅で生きていましたからそういうところから見ると、そこまで大きな保守・革新や在日の問題、戦争の傷跡の問題等が身近に迫っていた問題だとは感じられず生きていたと思います。そういう自分の時代的実感と合わないところがありました。もちろん九州という土地柄の違いもあるのでしょうが、様々な社会問題をティピカルに取り上げて、盛り込み過ぎているのかもしれないと思いました。

詰め込みすぎ?

嶋田 エピソードを詰め込みすぎという感想は私も持ちました。保守と革新というテーマだけで作品として物語を回すには十分かと思います。しかし、その他にも佳那子が100点満点を取ってこない優人を執拗に叩くといった児童虐待、佳那子の夫邦夫の不倫問題に佳那子の母尾上久子(石井麗子が兼ねる)がからんできたりなど、お腹いっぱいの感があります。

今井 佳那子が長男を虐待してしまうところについては、まず、旦那がどうも浮気いるらしく、家に寄りつかないこと、また姑の千恵子にひたすら使用人のようにこき使われたということのストレスから、100点をとれない自分の息子に当たってしまったということになっています。流れとしてはわかるのですが、深く腑に落ちるとまではいかなかった。また、そこから革新政治に行こうとして、草の根的な運動の中で、借金を作ってしまい自殺さえしようかという親族に対して、そうした革新政治家や開催されるセミナーでは、自己破産の相談もしてくれるよという話も出てきます。そういうところも、もうひとつピンとこなかった。でも、これはもちろん中津留さんの身の回りで、知人の範囲内で起きていることを取材している可能性も高いと思うので、いや、そういうこともあるのですよと言われてしまえばそれまでなのですが。

嶋田 この時間の流れのなかで一番変化していったのは佳那子ですね。最初は岡本家の嫁として従順に振舞い、姑の千恵子に圧倒されっぱなしです。それが物語中の時間経過に従って次第に佳那子が存在感を増し、やがて千恵子と対立するまでになる。この二人の対立と、保守と革新の対立が絡められていき、物語世界に深みが出てくる。ですから、千恵子役のみやなおこと佳那子役の川﨑初夏、この2人の対立がとてもいいコントラストだと思いました。佳那子が作品の幕切れで発する「まずは、うち自身から、心の革命を起こさにゃあならん」という言葉は、佳那子が変化を徴づける非常に重要な言葉だと思います。この言葉こそ、佳那子が成長した証です。

野田 作家が佳那子にいわせたエピローグとして書いたものなのだろうと思うのです。上演台本ではト書きで最後の最後に「歴史の重みの中で、/それぞれが、/それぞれの、/未来に向けて、/今何をすべきか、/決意する・・・・・・。/慎ましく、/気高い、/優しさに、/満ちた、/確かなる、/希望・・・・・・。」と書いているのですよ。この改行の仕方から察するに、思い入れたっぷりですよね。

嶋田 作品を全体的に考えてみたとき、佳那子の成長物語として実によく描けていて、感心しました。エピソードてんこ盛りの感はありますが、最終的な落とし所はしっかりとしている。だから、なんだかんだ言っても、全体的なバランスは取れていると感じました。

野田 最後の21世紀の場面、嶋田さんの言うとおり2001年と考えると、季節的には多分三月でしょうかね。今度人事異動でうつるという話をしていますので。翌四月には小泉内閣が成立しています。それにこの年の最大の事件といえば、9/11のアメリカ同時多発テロ事件でした。いかに日本の多くの人びとが9/11を対岸の火事のよう見ていたとはいえ、佳那子の決意と作家の幕切れト書きに込めた思い入れは、9/11後、すぐにかき消されてしまったような記憶があるんです。
 この頃は失われた10年の真っ最中です。金融機関にものすごい勢いでお金がつぎ込まれたあと、銀行は貸しはがしをしていた真っ最中です。千恵子の一族が守ろうとしていた土建会社もつぶれてしまっていますよね。あのぐちゃぐちゃなときに、保守と革新とのせめぎ合いと考え方はできなかったような思い出が個人的にはありますし、あの頃の大学生も就職氷河期の真っ最中ですから、むしろ政治的理想よりも保守政権で経済をよくしてくれという感覚だったという思い出が、自分の学生のことを思い出してもあります。
 そういう意味で、中津留さんの思い入れに似た希望がどれだけ実現されたかというと、私的には暗澹たる気分です。東京の俳優養成所に入って、自分でも劇作を始めている優人は中津留自身に重なるところはあるのでしょうけれど、私の実感とあまりに違う。そこが少しピンとこない理由の一つなんです。

今井 最後の場面が2000年初頭だとすると、そこからもう20年経ってしまっているんですね。そういう《今》から振り返って、中津留さんがそう考えたいというのをここに書き込んでしまっている。本当は今現在に着地させたかった今の思いを無理に入れてしまったところもあるのかなと感じました。『堕ち潮』は劇団旗揚げ20周年の記念作品の1本だということが、たしか当日パンフレットに書いてあった。もしかすると、記念作品シリーズで後日談も作品にまとめる予定があるのかもしれません。しかし、『堕ち潮』のエンディング以降、われわれが経験してきた20年はどうなのと考えたときに、この芝居が終わった時点と何も変わっていないという結論づけなのかどうか、その間に震災や原発事故やコロナ禍など、いろいろあったはずなのにそれをどう捉えたらいいのだろうという気持ちにもなりました。このように、最後にたどり着いたところが、現在を撃つといったものになっているのか、なっていないのかというところが私はきちんと把握できなかった。

嶋田 この点は今お話をしていても、われわれ3人の感想が違っていて面白いですね。