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■「現代能楽集」の問題意識

1989年 『AYAKO SEKIGUCHIのための「姨捨」』 撮影=池上直哉

岡本 「現代能楽集」の連作を始めたのが1989年の『AYAKO SEKIGUCHIのための「姨捨」』からですから、初期から考えていた、能の演者との型や様式を一度離れた形での共同作業を実現するには、準備に20年近く必要だったと言えると思いますね。もちろんそんなに安直には関われませんのでね。
 実際に「現代能楽集」の多様なジャンルの共同作業を始めてみると、いろいろな困難、格闘の作業を経る中で、参加している能の演者にとっても新たな発見や展開が出てきました。例えば、長年一緒に共同作業を行っている金春流シテ方の櫻間金記さんなんかも、能界の新聞の対談で、最初はとまどったけれど、共同作業を経ることでいろいろと発見があったとおっしゃっています。最近は普通に仕舞を舞っていても型にはまってではなく、体の中心、お腹に力を入れ気持さえ集中していれば立っていられる、動かすことが出来るようになってきたとも話されていて、芸の深奥の展開の大きな手掛かりになっているようで嬉しく思いますね。観世流シテ方の鵜澤久さんも雑誌の座談会で、「現代能楽集」の連作に初めて参加した直後の能の上演では自分でも驚くほどの開放的な声が出たと述べられています。能評においても、その声が今までにない凄みがあったと書かれたと喜んでおられました。皆さん、一緒に共同作業した後、能の上演で評判がいいんですよね。稽古で苦労をかけて丁寧に能の本質や身体の集中、呼吸、声の点検、捉え返しをしましたので、能と距離をとり、対象化しながら能の本質を具体的に探ってきて良かったのかなと、こちらも励みになりますね。

西堂 岡本さんが設定される表現の現場に、能役者なりテクノロジーの音楽家が来て他流試合をすることで、彼らが自分の現場にその成果を持ち帰ってくれる。能なり音楽なりの世界に活かしていくという波及作用があるんですね。

岡本 それは望んでやってきましたね。共同作業の交流、格闘の中で、それぞれが引き出しの演技として学ぶのではないやり方。例えば能の演者にとっては、自分達の型、様式や身体技法が問い直され、自覚的に捉え返し、芸の深奥を体得していく手掛かりになるでしょう。また現代演劇をはじめ様々な芸術ジャンルの表現者にとっても、能から刺激を受け、それぞれのジャンルの枠組みが根底から問い返され、新たな演技、表現の可能性を探る重要な手掛り、方法論として活かせる。そういう場にしてもらえればと考えてきました。参加された多様なジャンルの表現者の方々のエッセイがこの本に収められていますが、そこでは作業過程の様子や問題意識が生き生きと描かれ、皆さんその中でいろいろと発見、展開されているのが良くわかり、こうした開かれた共同作業の場を設えることが出来たのを嬉しく思っています。
 それでですね、僕がどのような問題意識をもってこれまで「現代能楽集」の連作を行ってきたのかというと、三点あります。一つ目は、謡曲などの言語レヴェルだけではなく、能の演技や身体性、特に夢幻能の演技の持つ自在で深い存在感、関係性、それを支えている身体技法に注目し、対象化の作業を行うこと。二つ目は、そのため実際に能、狂言、囃子方などの演者の参加を得、共同作業を行い、その本質的な構造を浮き彫りにしていくということ。同時にその作業が「現在」に根差した、新鮮でラディカルな実験的な作業として息づくように模索していくということ。そして三つ目は、能・狂言以外の多様な芸術ジャンルの表現者と能との共同作業を行い、それが相互の手の内の技芸の寄せ集めの縮小再生産ではない、絶えず各ジャンルの根底のゼロ地点に戻っての、自在で「開かれた」新たな表現の、関係の場の探求を目指すというものでした。
 僕がこの連作の試みを「現代能楽集」と名付けたのは、もちろん三島由紀夫さんの『近代能楽集』を意識してのことでした。ただ、三島さんの『近代能楽集』は、言語レヴェルでの能の現代化の類まれな達成であることは言うまでもありませんが、残念ながら能の演技や身体技法を前提にして書かれたものではないんですね。能に触発された写実的な近代劇としての翻案なんです。だからこそ様々な演出処理も可能なわけですが、そこでは演技や身体技法という大きな課題が見過され、全く手がつけられていません。そこで僕の行ってきた「現代能楽集」の連作の試みでは、テキスト・レヴェルの捉え返しとともに、能の特質の核でもある、演技や身体技法のあり方を射程に入れて、これまで話してきましたように、その対象化の作業に力を入れ、積極的に捉え返しを行ってきたということがありました。

西堂 1989年から「現代能楽集」の連作を始められたわけですが、具体的にはどのような作業になりましたか。

岡本 例えば1990年に上演しました現代能『水の声』の試みでは、現代演劇、能、音響彫刻、コンピュータ音楽といった多様なジャンルの人々の共同作業を行いました。テキストは、イェイツの『鷹の井戸』をもとにした新作能『鷹姫』を基盤に、他の言語素材も加えて再構成しました。
 稽古の始めに能の演者には、まず足袋を脱いで素足になるところからやってもらいました。それからカマエやハコビ、謡といった能の定型的な型や様式から一旦離れてもらって、即興を中心とした演技の作業をかなり長時間行いました。第一線の力のある演者の人々ですからその洗練された型や様式を使用し、そのまま演出すればどれだけ楽かとも思いましたが、もちろんそれはやりませんでした。単に相互の手の内の技芸の寄せ集め、縮小再生産になることを避け、絶えず各ジャンルの根底のゼロ地点に戻って、新たな表現や関係性を探りたいと思い、こういう挑戦をしてもらったんですね。
 言葉に関してでも、皆さんにはご苦労をかけましたが、やはりどうしても語り口が謡の朗誦風になるので、その度に手を打ってダメ出しをしました。能を演じている時の深い集中を持ちながら、新たな発語が出来ないかという、かなり困難な作業でしたが、地道に繰り返してやりました。
 暫く経った時に、谷崎潤一郎の『鍵』の一節を語っていた能の櫻間金記さんの顔に突然笑みが浮かんだ時には驚きました。ご承知のように、能のシテ方は、素顔で舞台に立つと日常的な表情は消えて「直面(ひためん)」の状態になる見事な身体技法を持っているんですね。その思いがけない笑みは、言ってみれば600年の肉づきの仮面がニッとひび割れて、そこから何か官能的、生命的なものが溢れ出してきたようで、とてもインパクトがありました。それは現代劇でも、狂言でも、日常の笑いでもない独自で新鮮なものだったんです。稽古が終わった後、櫻間さんにどうでしたと訊ねましたら、「自分にとって初めての体験であると同時に、一番いい能を舞っている時と同じ感覚もあった」とおっしゃった。それで僕はすぐに「それをやりたいんです」と言ったんですが、一度それぞれの技芸、型、様式を方法的に離れてみることで、能の演技の本質的な部分が普段以上に浮かび上り、さらには、新たな表現として展開していくことがそこで目指されていたと言えると思います。
 これが一つの切っ掛けになって稽古が展開し、能の他の演者の方々も自由になっていきました。発語のあり方も変化し、また身体のカマエも次第に崩れてきて、新たで自由な動きも出てきて活性化しましたね。大分時間はかかりましたが、そうした稽古、共同作業を丁寧に重ねました。

西堂 新しい表現というのは、従来のものに何かを付け加えたものではなくて、従来のものの表皮を剥がしていくような、そういう新しさということですか。

岡本 そうです。だから型や様式、それぞれの技芸をそのまま使うんではなくて、方法的にそれから一度離れてもらい、各芸術ジャンルの分れる前の地点--私がよく言う「ゼロ地点」--に戻って探ってもらう。それは能だけではなく、現代演劇や舞踏、現代音楽などにしても同様ですね。技芸を捨てるんではないんですが、一度離れてみる。

西堂 離れるっていうのもなかなか大変なことですね。

岡本 いや、大変なことですよ。

西堂 僕がそれで連想したのは、ヤン・ファーブル。彼がオペラを作る時に、まずバレエのパートを作ったのですが、その際バレエ・ダンサーに一切踊らせなかった。足を手で持たせてずっと立たせておく。あれを見たときになんて過酷なことを要求しているんだろうと思いました。つまり彼女らにとって一番の武器を全部封じられてしまうわけです。それを封じられることによって、たぶん彼女らの内面は傷つくし、存在自体がなくなっていく。そこに追い込まれたあとに何が出てくるのか。それをファーブルは求めているんでしょうが、でも本当に何も出てこなかった時はどうなるんでしょうか。

岡本 僕はそんな酷い奴でもない(笑)。ていうか、ヤン・ファーブルは、80年代に来日した『劇的狂気の力』をはじめ、いくつか観ていて、その強度と受苦性を持った身体性には刺激を受け、共感するところもあります。また、彼の方法論の詳しいことは良く知らないのであれなんですけど、僕の場合を言えば、単に封じて追い込むだけではなくて、違う回路を用意してるんですよ。僕の演技メソッドにある呼吸法、発声法や丹田などの身体の集中、リラクゼーション法も同時にやってもらいながら、それを一緒に探っていきました。この作業は、能の型や様式の基盤にある「息」や「間」のあり方、腰や肚、息の詰め方といった具体的な身体技法の対象化、捉え返しでもあり、また自由に使い活かせるので、喜ばれましたね。それぞれの技芸から一度方法的に離れることで揺さぶりがかかる。その上で、ジャンルを超えた基盤の身体技法ーー「ゼロ地点」--に戻って探ってみる。そういう作業、回路でもあったんですね。

西堂 なるほどね。

岡本 毎回稽古の前半は、そうした作業をやりました。そうすると心身の深いリラクゼーションがあり、息も降りて、身体の中心も良く掴めるんですね。もちろん一度型や様式、技芸を離れてみることは大変なことですけど、それと同時にもう少し深い身体、自己のあり方に戻り、基盤にしながらの捉え返しの作業、回路を用意して行いました。僕はいつも稽古の後で「どうでした」と聞くんですけど、櫻間さんは大体「分からない」とおっしゃっていた。僕はそれがすごくいいと思うんですね。皆、手の内の分った所でやろうとするわけで、分からない所に行けたときに何かが動き出す。櫻間さんは絶えずそうした基盤のゼロ地点に戻りながら、ずっと自分の内部で考え、探り、捉え返しがあったからこそ、あのニッという笑みが出てきた。ご苦労はかけましたけれど、ご本人もその作業に抵抗感はなかったとおっしゃっていましたし、また奥様の言葉として、錬肉工房の稽古場のある「柏から帰ってくるといつも楽しげで上機嫌だった」と、この本のエッセイの中で書いておられるので、有難いことだと思っています。だからよく分からないけれど、そこら辺は、ちょっとヤン・ファーブルよりもやさしいのかな(爆笑)。

西堂 今話を聞いていると、ヤン・ファーブルの場合には非常に暴力的な……

岡本 僕のはあまりそうではないと思いますよ(笑)。

西堂 ちょっと破壊した後の壊れた中からもう一回人格立ち上げろみたいな……

岡本 僕のやり方はそういう方向ではないな。

西堂 そういうやり方に聞こえてきたけど、岡本さんのはちょっと違う。

岡本 僕が一度離れてみるというのは、枠組みに揺さぶりがかかるとともに、同時にそれは存在の基盤、根底の場に戻ってみることでもあって、もう一回人格を立ち上げろというようなことではないと思いますね。

西堂 ヨーロッパは基本的に弁証法的な考え方が基盤にあって、否定の力が何かを生んでいく。たぶんヤン・ファーブルはそんな発想の中で編み出しているんだけど、岡本さんはちょっとそこらあたりの考え方が違いますね。

岡本 そうですね、もちろん僕も無化、否定の力、方向性は大事にしていますけれど。
 ここで作業の基盤にある身体についてちょっと考えてみますと、一つにはヨーロッパ流のマインド/ボディという二分法に拘束されたものの考え方がありますよね。それが進めば、頭が命令して身体を使う、支配するという回路になっていきます。もう一方で、以前、哲学者で身体論の市川浩さんが〈身(み)〉という大和言葉に注目されていたのが興味深かったですね。そちらは精神/物体(身体)という二項図式とは異なった、われわれの生きている具体的な身体のダイナミクスが良く表現されているんだ、と書かれていて納得したことを覚えています。例えば、「身にしみる」とか「身をこがす」なんて言葉の使い方では、ほとんど心と同じ意味で使われるわけですよね。二項対立ではない心身のあり方が、われわれの存在の基盤にあるんじゃないか。
 僕は稽古で良く身体に委ねるとか、任せる、身体の声を聞くとかっていうんですけど、その身体はボディ、物体としての身体ではないんですね。まさに〈身〉としか言いようのない身体のあり方、そうした基盤にある心身が相関した状態、ある意味で心身一如とでもいえるあり方で働いている〈身〉に委ねていく。先程の方法的に一度枠組みを離れてみるというのも、ただ単に無化、否定するだけではなく、僕の場合は、同時にそうした基盤の〈身〉のあり方に戻り、委ねてみることでもあるんです。そこでは二項対立ではない心身のあり方を常に考え、探ってきましたね。それとともに西洋では〈無〉は、欠如や否定、虚無ですが、日本や東洋では単にそれだけではなくて、すべての〈有〉を包含した〈無〉でもあって、そこから無限に存在や意味が生成され、消滅していく場所なんですよね。僕のゼロ地点のあり方も、そうした「無の場所」と関係していると思います。