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■『西埠頭/鵺』(2017年)

2017年 『西埠頭/鵺』 撮影=宮内勝

岡本 2017年の『西埠頭/鵺』は「現代能楽集」の最新作ですが、能の世阿弥の名作『鵺』と、フランスのベルナール=マリ・コルテスによって1983年に書かれた現代戯曲を題材に、新たな挑戦の試みを行いました。ここでは、時代、言語、文化の背景の異なった両作品の断片が並置され、それが強度のある演者の声や身体性によって、差異を際立てながらも、同時に切り結び、響き合うことが求められました。
 『鵺』は、源頼政の鵺退治を基にした夢幻能で、討たれた鵺の立場から描かれ、敗北者としての鵺の哀感、また反逆者としての人間的な挫折や怒り、孤独の情感が見事に浮かび上ってくるんですね。一方『西埠頭』の舞台は、ニューヨークのハドソン川流域の打ち捨てられた廃倉庫群であり、そこに南米から流れ着いた、内戦で敗退した移民一家やアジア系のちんぴら、不法滞在らしき黒人の男が住みついている。そして彼らはここからの脱出を企みますが、それはことごとく失敗に終わり、追い込まれていきます。ここには、1983年の時点で、難民、移民の問題やテロと憎悪の連鎖といった、現在の私たちが抱えるアクチュアルな課題が先取りされ、鋭く見詰められているんですね。
 『西埠頭/鵺』の舞台では、こうした背景の異なった両者のテキストを並置、再構成するとともに、新たな舞台設定をしました。それは万物全てが消失した廃墟、「無の場所」であり、そこに不思議に浮遊する、輪郭も形象も不明な霊魂がいつしか、形を持ち語り出すんですね。その声の主は、西欧=資本主義の枠から排除され、圧殺された内戦で敗退した南米移民の夫婦であり、また頼政に退治された敗者である反逆者の亡霊でもあるでしょうし、さらには時代、文化を超えた多くの非業の死者たちの姿、声でもある。それが深い鎮魂の思いとともに立ち上ってくることが求められました。そのためこの試みでは新たな挑戦として、能の演者の参加を求めずに、思い切って8人の現代演劇の俳優、舞踏家のみによって、「現代能楽集」の重要な課題である、夢幻能の鎮魂の構造、自在な演技、身体性のあり方の多面的な角度からの捉え返し、その展開が試みられました。
 『西埠頭/鵺』の舞台の後半では、言葉と身体の関係性を根底から問い直す作業が行われました。脱出の試みに失敗し追い込まれた移民の母親の言葉が変化し、普段の片言の英語から、征服者、支配者のスペイン語へ、その最後には、突如インカの人々の祖先のケチュア語で呪詛の言葉を噴出させます。これを日本語の語りとしてどのように成立させるのか、ということが重要な課題として出てきたんですね。これには相当格闘を強いられました。こちらも追い詰められ長時間の稽古、作業を行いましたが、ある時、思いがけず破裂音を伴って、分節言語が切断され、解体されたんですね。そして突き上げてくる身体の動きを的確に押さえ、方向づけることで、意味不明の言葉の混沌の海から、母親の一族、神、制度、自身への呪詛の言葉、意味が次第に分節化され、立ち上ってきました。何より興味深かったのは、その分節言語の解体が、普段以上に深い意識の集中覚醒を伴っていたこと、また破裂音による言語の切断が能の謡の原形につながるような息や声のあり方だったんですね。それはある意味で、「一調二機三声」の発声の回路を、極限まで徹底させ、言葉と身体の関係性を深層の意味生成の場で捉え返す試みでもあったといえると思います。『西埠頭/鵺』の作業では、身体=意識=言葉の深層の領域で、夢幻能の演技、身体技法が現代演劇の俳優、舞踏家によって対象化され、現代の表現への展開が探られました。