『「現代能楽集」の挑戦 鍊肉工房1971-2017』刊行記念トーク──岡本章氏を迎えて(2019年1月27日)
■伝統の怖さ
西堂 今でも伝統芸能はお稽古事で(経済的には)成り立っていると思うんですが、お稽古事は自分なりに教養を豊かにしようという役割は確かにあると思うんですが、岡本さんの考えている伝統芸能はあくまで表現としてであって、伝統の基盤自体を解体してしまう。解体して、一番根っこのものが、どうやった瞬間に立ち上がってくるのか、立ち上がる根源みたいのもを問題意識として持たれているのかなぁ、と。
岡本 以前読んだんですが、精神病理学者の木村敏さんが、ヴァイツゼッカーのクリーゼ(転機=危機)という概念を使って興味深いことをいっておられますね。生命それ自身にはかたちがないし、底深く潜んで姿を見せないけれど、その生命が一瞬姿を垣間見せる瞬間があるんだと。それは以前のかたちが壊れて新しいかたちがそれにとって代わる瞬間だといっておられた。そうしたまさにクリーゼの解体が即生成となるような、根底の生きた形のあり方については、ずっと考えてきましたね。
西堂 だからその、観世寿夫さんの立て膝を崩したときに立ち上がってくる物腰、身体性。
岡本 ええ、驚きましたね。わずかな動き、所作だけれど、そこから根底の虚無とともに、一瞬生命がキラッと姿を垣間見せる。
西堂 それもある種の根源的なものですね。
岡本 そうです、根源の時間、生命みたいなものですね。解体が即生成となるような切り詰めた動き、演技の中から人間存在の本質が浮かび上り、現在が照らし返され、そこで根源的な自由とでもいったあり方が体験できた。当時は能を観始めた初期で、それほど能にも詳しくなかったけれど、そんな学生にも届いてきて揺さぶられましたね。一体そこにはどのような身体の仕組み、演技のあり方が存在しているのか。本当に興味深かったんです。
実は僕は能を観たかったから能のサークルに入ったんで、当時は謡、仕舞の稽古はそんなに熱心ではなかった。そのうちだんだん演技や身体技法の問題に興味が出て来て、師範でした銕仙会の山本順之さん――寿夫さんのお弟子さん――に、その後錬肉工房を始めた頃に何年か習いに行きました。そこでいろいろと発見があったんですが、同時に、あ、これはやばいと思ったんですね。こんな言い方をするとなんですが、「毒が回る」と思った。能の謡、仕舞の稽古は、上手下手関係なしに気持ちの良い所があって、だからみんな遊芸で習い事にするんですけれど、面白くなってきてやばいと思ったんですね。これ以上やると距離が取れなくなる、大事なことが見えなくなる、と。能のプロ、弟子になってそのシステムの中でやっていくわけではないから、距離を取って、絶えず対象化しながら、能の演技の本質、身体性の仕組みを掴み、現代演劇の作業に活かしたいと考えていましたので、そこでぱたっとやめました。だからかなり自覚的、方法的に能と関わってきたと思いますね。
その代りにその後は、70, 80年代に錬肉工房の演技の集団作業の中で自分なりに見えてきたーー掴めた--能の演技の核の部分、型や様式の基盤にある声や身体性のあり方の、かなり徹底した捉え返しの作業を多様な角度から持続的に行いました。具体的には、東洋の様々な身体技法、ヨガや気功法、日本の武術なども参照して、型や様式を直接使うのではなく、腰、肚、息の詰め方といった身体技法のレヴェルまで下降し、分解、分析し、声や身体性、集中の新たな可能性を探りましたね。その作業の中から、能の演技の本質、身体の仕組みがより明瞭に見えてきたということがありましたですね。
西堂 伝統芸能の怖さってそこですよね。
岡本 確かに怖いんですよ。
西堂 取り憑かれてきて、身も心ももっていかれちゃう。
岡本 ええ、そうなんですね。でも実際にやってみると面白いんですよ。腰を入れて、肚から声を出す。それだけで素人でも気持が良いし、面白い。しかし毒が回るといったら申し訳ないけれど、僕のように現代演劇に活かしたいと考えてる人間にとっては、やはり工夫が必要だなと思いましたね。
西堂 すすんで洗脳されていくような。
岡本 そうですね。もちろん体験してみることはまず大事でしょうし、能との関わり方、学び方はいろいろあって良いと思うんですけれど、僕はそこでやめました。そしてその後は、先にも言いましたように型や様式を直接使うんではなくて、その基盤にある原理的な筋道、「息」や「間」のあり方、具体的な身体技法のレヴェルでの捉え返しの作業を徹底してやりましたね。その中からいろいろな発見や気付きがあって、僕の岡本身体表現メソッドと呼ばれている声や身体性の方法論も出来てきました。