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■東京での出会いと衝撃

岡本 僕は18歳まで奈良におりまして、大学入学で東京に出てきました。

西堂 奈良は土地柄としてはかなり保守的なところですよね。

岡本 観光地としては良い所ですけれど、盆地で閉鎖的、保守的な所があって、それが嫌で上京したんです。1968年でしたね。出て来た時は小説や詩の勉強がしたかったんですが、当時は社会や文化状況が激しく動き、芸術表現の領域も活気がありました。面白いものがいっぱいあったんですね。そこで文学作品だけではなく、演劇や映画、美術、音楽など、様々なジャンルの表現の場に足を運びましたが、その中でも特に興味を惹かれたのが、演劇などの舞台芸術でした。新劇の大手劇団から、アングラ・小劇場と呼ばれた状況劇場、早稲田小劇場、天井桟敷、演劇センター68/71などの現代演劇、そして暗黒舞踏も熱心に見歩きました。
 またその同じ頃に能や歌舞伎などの伝統演劇にも関心が向き、見るようになった。ツイていたというか、幸運だったのは、能を見始めた初期に、世阿弥の再来といわれた観世寿夫さんの能と出会えたんですね。それまでは能について関心もなく、小金をためた老人が習い事でやるものだというイメージだったんですが、実際に観世寿夫さんの『井筒』や『砧』などの古典の能を見て驚かされました。その頃盛んに見ていたアングラ・小劇場や舞踏などと同様に、いやそれ以上に「現在」を生きているという実感、手応えが切実に届いてきて、魂を揺さぶられたんです。年齢や当時の時代状況もあって、自分が生きていることの意味や、社会や時代状況のあり方、それとの関係性で悩んでいたこともあり、そうした自分の存在の深部に切実に届いてきて、揺さぶられたわけです。目から鱗の体験でした。
 その頃、観世会という早稲田大学の能のサークルに入っていたんですが、仲間と研究会をはじめたり、さらに熱心に能を見るようになりました。もちろん現代演劇も強い関心を持って見ていましたが、そうした中で、直接生身の俳優と観客が向い合い、自分と他者、社会との関係性を丁寧に問い、生き直せる演劇にアクチュアルな魅力を感じて深入りしていき、自分でもやってみたくなって、学生劇団の自由舞台にも属して演劇活動をはじめました。

西堂 1968年というのは日本だけでなく世界的に同時的に叛乱の思想が跋扈していたピークの年でした。まさに時代が動いていて、その頃を学生として享受できたのは、体験として刺激的なものでしたね。

岡本 こうして能や現代演劇との大きな出会いがあったのですが、それとともに重要だったのは、舞踏との出会いでした。以前から舞踏にも関心があって、丁度舞踏家の笠井叡さんが天使館を開館される時期で、それに参加し、1年足らずでしたがお世話になりました。即興舞踏が中心で、稽古場は自由な雰囲気に溢れ、刺激的でしたが、同時に言葉と身体の関係性の問題が僕の中で出てきたんですね。それは舞踏の強度と深さを持った身体性と通底し、拮抗するような言葉の発語のあり方をどうすればいいのか、という課題でした。そんなこともあり、言葉と身体のあり方、能と現代演劇の関係を捉え返すことを軸に、演劇の枠組みを根底から問い直し、少しでも閉塞状況に揺さぶりをかけられればと、僕なりに独自の作業の必要性を感じて、自由舞台の仲間を中心にして、1971年に錬肉工房を結成し、活動を開始したんです。

西堂 能は当時、伝統演劇ということで、非常に保守的に見られていたじゃないですか? 伝統というのは現代芸術と別のことをやっているんじゃないか、と。そういう中で、アンダーグラウンドや小劇場は目に見えて過激だから、みんなばっと飛びつくわけだけれども、能に向かったっていうのがいかにも岡本さんらしい回路だなあといま改めて思いました。そういう直接的なものに行くのではなく、一つ迂回しながら本質的なものに出会おうとする。その時に観世寿夫という本当の天才的な能楽師がいたということも大きかっただろうと思います。

岡本 60年代末に観世寿夫さんの能と出会ったのは、とても大きかったですね。能の作品の根幹を深く掴みながら、自身が「ただ立っているだけで一つの宇宙を象(かたど)り得る存在感」と書いていらしたけれども、美的であるとともに、そうした舞台に根が生えたような動かし難い存在感、声の響きに圧倒されました。さらに、何よりも影響を受けたのが、世界や社会、時代と向き合う、その姿勢、物腰でしたね。寿夫さんは能が現代に対して訴えかけを持つ演劇でなければならないという強い危機意識、問題意識を持っておられて、様々な実践活動をされてきた。だからこそ、その時現代演劇や舞踏と同様に、またそれ以上に「現在」を生きているという実感が僕に届いてきたんだと思います。
 寿夫さんはご存知のように、観世銕之丞家という観世流の家元の分家の長男だった方。そういう立場でありながら、形骸化した家元制度にのっとっていてはいけないと、家元制度に反対されていた。そして世阿弥に戻って再発見しながら、同時に1950年代に武智鉄二さんの演出で、前衛音楽、前衛美術の実験工房といっしょに、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』に出演しています。野村万作さんも出られていて、二人とも全身タイツ姿で抽象的なマスクをつけ、伝統的な型や様式でない動きも探られていた。その後も古典の能の上演とともに、現代音楽、現代美術、現代演劇といろいろと新しい試み、共同作業をされましたね。当時はまだ家元制度の締め付けの厳しい時代だったわけで、いってみれば自分の足元、枠組みを根底から問い直し、揺さぶりをかける危ないことに挑戦されていました。一緒に熱心に活動されていた弟の観世榮夫さんは、半分追放されるような形で、能楽界を出られて現代演劇の世界に入って来られた。だから伝統、古典の能と出会ったといっても、深い根源性とともに、取り組みによっては強く「現在性」を感じさせてくれる、そうした観世寿夫さんの能と出会い、可能性を感じて興味を持ったと思います。