『「現代能楽集」の挑戦 鍊肉工房1971-2017』刊行記念トーク──岡本章氏を迎えて(2019年1月27日)
■現代演劇を問い直す4つの柱
岡本 錬肉工房ではこれまで通常の現代演劇の枠組みを根底から捉え返す、様々な実験的、根源的な試みを行ってきましたが、その中で4つくらい大事な中心的な課題がありました。
1つ目は言葉と身体との関係性を根底から問い直してみる。そうしたことを通じて新たな声や身体性の可能性を模索してきたということがあります。
2つ目は能を中心に前近代の演劇、伝統的な文化とどのように関係を持ち、切り結んでいくのかということ。これはまさにこの「現代能楽集」の、能を現代に活かすという作業と直接絡んでくる。
3つ目が多様なジャンル、現代演劇・能・狂言・舞踏・ダンス・現代美術・現代音楽・現代詩など、いろいろな芸術ジャンルの表現者たちとの共同作業、脱領域的、横断的な共同作業を課題にしてやってきたということがあります。
4つ目としてはテクノロジーやメディア、そういうものと身体がどのように関わっていくのか。高度情報化、消費化社会の中での我々の身体の在り方ということを見つめ直していきたい、という4つが大きな課題としてあって、当然これらは相互に密接に関係しあっています。
「現代能楽集」の連作の作業は、1989年から始めまして2017年の『西埠頭/鵺』まで14作上演してきましたが、もちろんこうした4つの課題はその中に全て入っていて、様々な形で実践的に探求、挑戦されてきたといえますが、中でも2番目の能を中心に前近代の演劇、文化とどのように関係を持ち、切り結んでいくのかという課題が最も重要な軸でした。
この本の「はじめに」でも書きましたように、それではなぜ僕が活動の初期から能を現代に開き、伝統と現代の諸課題を捉え返す作業を持続的に行ってきたのかということなんですが、そこには重要な問題意識が3つありますので、ここで少しその要点を述べておきたいと思います。
まず最初に能の本質としての根源的な自由の問題です。普通、能は型に縛られたイメージがありますが、そうした強い規範性、法則性を背負った中での根源的な自由がそこにあると思われます。例えば、能『道成寺』の乱拍子の段の自在で充実した「間(ま)」などは、緊張感のある根源的な自由の一つの現れと考えられます。しかし同時に、まさに「型通り」演じられ、退屈極まりないなぞりの演技でしかない、といった両極の事態、型、様式の二面性の問題、パターン化、惰性化、形骸化の罠も出てくる。
2つ目は、「伝統と現代の断絶と接合」の課題があります。周知のように、明治維新以降の日本の近代化の中で、多様な領域でそれまであった文化、伝統を否定、切断する必要があった。演劇では近代リアリズム演劇を移入、定着するという形で取り組まれてきました。しかし、その時同時にそれまでの演劇伝統とどのように切り結び、関係づけていくかという、「断絶と接合」の課題も出てきます。これはもちろん他の芸術ジャンルでも同様の事態がありました。このような日本の文化、社会の構造をも貫く、伝統と近代の二重構造の問題を、能を現代に開く作業を一つの手掛かりにしてどのように捉え返し、対象化していくのかということです。
そして3つ目として、アクチュアルで根源的な共同作業の場の問題があります。「現代能楽集」の連作の試みでは、多様な芸術ジャンルの表現者が、共同作業の中で能と直接出会い、それを手掛かりにすることで、それぞれのジャンルの枠組みに揺さぶりがかかり、新たな表現のあり方を探っていける場を設えたいと挑戦してきました。私たちの演劇を含めた芸術創造の現場は、かなり閉鎖的に分断され、風通しの悪い状態にあると思っています。これは錬肉工房の活動を始めた初期の頃から感じていて、そんな思いが日増しに強くなってきています。僕はそれを80年代くらいから「ただの現在(いま)」と呼んで論じてきましたが、そこには各ジャンル間、そして過去ともまたアクチュアルな外的状況、今とも切断されてしまっている事態がある。他方ではポストモダン状況、大衆消費社会の中で、一見易々とジャンルの横断が可能のようでいて、それがすぐに商品化され、囲い込まれてしまうわけですね。特に80年代半ば以降にそういうことを強く感じるようになって、89年に「現代能楽集」の連作を開始した背景の一つには、そうした問題意識があったわけです。
そこで、そのような「ただの現在」の状況を見据えながら、少しでも揺さぶりをかけ、風穴を開けることができないかと考えてきました。そのため能の演者にも参加してもらい、能を一つの重要な手掛かり、核として多様なジャンルの人々とともに、横断的であり、アクチュアルで根源的な共同作業の現場を創り出せればと、これまでいろいろと挑戦の作業を重ねてきたと言えます。僕の行ってきた作業、活動は実験演劇や前衛演劇と呼ばれたりしてきましたが、実験、前衛的な作業というのは、通常自明にされている芸術、文化、制度の枠組みに絶えず根底から揺さぶりをかけ、問い直すことだとしたら、作業の中にそうした危機意識、問題意識が存在し、内包されていたからかなと思います。
西堂 今の岡本さんの定義、問題意識を伺いますと、一見社会的なアピールに見られがちですが、岡本さんは、極めて本質的な演劇の根源の問題を探りながら、実はそれが外側に開かれていくといった問題提起をされているんじゃないかと思います。いま言われた錬肉工房の4つの柱、言葉と身体の問題、能あるいは伝統を現代にどう活かしていくのか、多様なジャンルや他者と出会いながら、演劇だけでは成し得ない共同作業をどのように展開していくのか、それがさらに現代の中でいうならばテクノロジーとメディアという、いわば直近のものと、遅れて停滞している身体をどのようにマッチングして戦っていくかという、極めて本質的な問題を提示されている。
こういう問題が提起されてきたのが、岡本さんが活動を始めた1970年代のちょっと手前、1960年代末でした。日本では近代演劇を見直す形で現代演劇の運動があって、それがアングラや小劇場とか呼ばれたわけです。岡本さんの問題意識は、当時提示された問題とほぼ合致してくる。それを岡本さんなりに長期間にわたって様々な人との出会い、相互影響を経て、独自に展開されてきたなと思います。特に岡本さんが演劇を始める前の段階、なぜ古都の奈良から出てきた文学青年がこんなことを突然始めたのかということが非常に興味深いところなので、そこをお話しいただければと思います。